横山大観小論
○…大観が画学生時代には彼はことごとに仲間の意表にでて、帽子などヒサシの直径六尺のを冠り、のつしのつしとのし廻つたもの、若いときから大きなことが好きであつた、大観の画壇的動きの大きさは、ちよつと他の画家の真似の出来ないものがあらう。
○…もつとも明治三十一年に当時の東京美術学校々長岡倉覚三氏と日本美術院を創設したり、大観の過去の画業を系列的にみると、なかなか俗にいふ世の中につくし、画壇につくしてゐる、大観に活を入れてもらつて、蘇生した画家がそこいら辺りに居さうな気がするがどうだらう。
○…ところがこの画家位、悪評野に満ちてゐる人は少なからう、絵を依頼して断られた腹いせに悪くいはれることも数多ければ悪評は高いわけだ。
○…しかし大観はそんな場合、美術雑誌や画商のために創作の情熱は決して湧かしてなんかゐない、一枚二万五千円計二十枚五十万円の海と山との絵を描いてゐるのである、陸海軍省へ献納しようといふ大観のひたむきな制作態度を賞めてやつてもいいだらう、さういふことに彼が制作情熱を沸かす、それが大観の特質なんだから――
福田平八郎小論
○…京都在住の画家には何か格式といふべきものへの執着を、多かれ少なかれもつてゐる。人と逢つても体を崩さないといふところがある、福田平八郎は京都住ひではあるが、その点全く江戸人のやうな鉄火肌のところがあり、開放的でザックバランだ、おしやべりかといへば、どつちかといふと無口の方だが、開口一番するや思つたことをズバズバ言つてのけるといふ性格で彼の描く絵のやうに明確なものがある。
○…福田平八郎の人気を名づけて「好もしき人気」といつたらぴつたりしよう。流布される人気は何時の場合も、好感的なもので、作為のない彼の人柄がさうした好ましさを生むのであらう、この作家の初期の画面は神経をゆきわたらした、ねつとりとした粘液質のものだが、最近作では次第にそれが様式化され図式化されてきてゐて、淡白なものになつてゐる。
○…問題なのは近頃になつてからの仕事だらう、この様式化は彼にとつて一つの手段で、この様式化には問題がない、その様式、図式の中に埋められた色彩に問題があるのだ、他の画家が予期しないやうな、配色、調子、対照、をつくりだしてこゝに異常な美しい色彩を発明する、彼の作品の特異な輝やきといふのは、その色彩の案出された新しさといふべきである
小倉遊亀小論――小品作家たるべし
○…女流作家のうちでは、彼女位佳き抒情をもつてゐるものはあるまい、彼女はモダニズムを自然に身につけてゐる、西洋草花などを描かしたら、それがよく出てゐて、非常に美しいものだ、洋画の新しがり屋などの真似の出来ない境地がある、花束とか寄り集まつた小さな花などに、念の入つた美観を呈する画壇といふところはやつぱりかうした小品物許り描いてゐてはうだつがあがらぬところらしく彼女も「浴女」「浴後」などの大物を発表してぐんと人気が昂まつた形だ。
○…この二つの作品に対して、美術批評界の絶讃ぶりは、しかしこれも日本画の世界なればこそだ、女性の裸の数を彼女よりずつと沢山見つけてゐる、洋画家に言はせると、浴場の裸婦のデッサンは噴飯もので、あれでも裸婦で通るのだから日本画壇は幸福なものだと噂してゐる、ともあれ彼女は、柿を一つ二つ転がした絵を描きたがらないで、草花を描いたら第一人者だらう、他人の真似の出来ない伸々とした自然な描写がある、大作はまあ人気を保つ手段程度で止めておくべし
徳岡神泉小論
○…世間では神泉を苦悶の行者のやうに見てゐるが、いやしくも芸術と名のつくものをやつてゐるからには神泉程度の勉強ぶりを行者扱ひするのはおかしい、他の連中が色気が多すぎるので、ちよつとばかり手堅い作品を見せれば、苦悶だとか、業苦だとかいふ、神泉は目立つのだ、神泉はたしかに画壇でも追究派の一人に属して人柄もまた甚だ深刻である
○…神泉は明確な主題の決定がなければ、筆をとらない、だから彼の描くものには、ソツがないし作者の意図がはつきりしてゐる点、彼の絵を見ていて気持がいゝ、彼の絵が問題になる場合には、世間的な取り上げられ方ではなく、絵画の技法上の問題として取り上げられる場合が多く、したがつて若い連中にとつては、神泉の作は研究題目として十分に興味がある
○…しかし神泉研究は往々にして、錯誤を招く、ある者は、神泉は実に新しく時代的で本人もまた時代へ革新的な絵画を目指してゐるのだといつたやうな考へ、それは少しく異なる、徳岡神泉の作品と、吉岡堅二の作品とを較べてみたらよくわかる、神泉の作はおそろしく古典だ、その古典の再現が外見的にはフレッシュに見せてゐるだけで、所詮彼は新しくなることが不可能なのであらう。
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子供漫画論
一
絵本漫画の出版業者にむかつて、或る人が質問を発した、『君は自分のところで出版してゐる漫画を、自分の子供に与へるか――』すると出版業者は『いや、なるべく見せないやうにしてゐる』と答へたさうである、自分の子供に与へて弊害の有る所謂『赤本漫画』も、他人の子供には、平気で売りつけるといふ態度が、従来のこの種、子供読物出版業者の、出版態度だといつてよいものと言へよう。
内務省、及び文部省が手をつけた子供読物浄化運動は、一昨年の夏頃からで、その年の秋は取締りの酷烈なクライマックスに達した、昨年に入つても当局の出版業者に対する、警告、発禁、の連続的処置や、出版前内閲の手厳しさは、業者にとつては全く出版の自由を失ふものであつた。しかし取締当局が、出版業者の出版の自由を、うばつたといふ見解よりも、かういふ言ひ方がいゝ、当局の取締方針が、漸次、確立するにしたがつて、出版業者が逆に出版の『方針』がわからなくなつて、出版能力を減殺していつたと解す方が正しいだらう。
現在の状態は、子供漫画の場合は、童話、絵本の類よりも、はるかに出版能力が低下してゐる、取締を強化しない以前に発行したものは、内容が悪くて、再版して発行するといふことは不可能な状態にある、当局もまた再版ものを喜ばないのである、出版業者は、従来の既刊物を自発的絶版にしてしまふより仕方がない、或る出版業者の話であるが、この業者は七十種類ほど漫画を刊行してゐたが、現在その大部分を自発的絶版にして、今は手持漫画は数種よりないといふ、市場に商品は、少くなるばかりであるし、新しく出版しようとすれば、当局が児童読物の内容に対して、いろいろの注文をする、その当局の注文を呑み込めない出版屋が多い、したがつて出版も渋滞し勝ちであるが一方、漫画は市場に品不足で、さうした中で、出版しさへすれば羽が生えて飛ぶやうに売れる、需要に応じきれない現在、出版業者は出版はしたいし、出版取締の(以下十字判読不能)至難といふジレンマに陥つてゐる状態だ。
子供読物取締に就いて、一話がある、内務省の一役人が、関西地方の視察旅行をしたとき、ある本屋に入つて、子供にはどんな本が、いちばん売れるか――、と質問した、そのとき本屋が、これですと差出したのが、所謂赤本漫画であつた、その漫画の内容がまた言語に絶した、粗悪なもので、本屋の主人に『これはどの位、売れるものか』と質ねたところが、全国に数十万、捌かれるといふことを聞かされて、役人は驚愕した、これではいかんと浄化取締に着手したといはれてゐる。
過般の児童読物浄化取締は、児童心理の研究者や、教育者が当局に浄化取締の、動機をつくつて与へたものでなくて、今回の取締の当局自身が、それに着手したといふことが、特徴的なところである、子供漫画がそれほどに俗悪のクライマックスに達してゐるのに、児童心理の研究者や、教育家達は、それまで何をしてゐたかといふことに就いては、この人々が、決して教育に対して不熱心でも、専門的でなかつたわけではあるまい、何故なら『××的教育の批判的云々』とか、『児童心理学から見た××』とか、さかんに教育に関する著書も、むづかしい名前がつけられて発表されてゐたから、いろいろな子供の善導についての研究会や、座談会も盛んに催してゐたやうであるから、しかし、現実にこれらの人々と、子供読物の急速な卑俗化とは何の関係もなかつたのである。理想主義的な教育主張をもつ人々や、これらの著書とは別に、燎原の火のやうな勢ひで、粗悪漫画が子供たちに、広く手渡されてゐる事実は、早晩、社会問題化さないでは、をかない性質のものであつたわけだ、私はこゝで国家の文化政策と、利益を目的にした商人の生活との、協調などといふことが、如何に至難な事業であるかといふことを言ひたい、子供のためになる良い本を出せば、それですべてが解決するのである――しかしこの単純にみえる政策が、事実の効果の上では、たつた一冊の良い本になつて現はれるといふことの、そこまでに到る裏面的事情は、複雑多岐を極めて、たどたどしい性質のものであることを知らねばならない。
二
或る子供絵本、漫画の改革の座談会の席上、一教育者が、出版業者にむかつて、かういふことを言つた、『みなさんは儲けること許り考へないで、たまには損をしても良い本を出して下さい』そして教育者と出版業者とが声を合して、和気藹々と哄笑したのである、しかしこゝには二つの性質の哄笑があつたのである、深刻なのは出版業者側の発した笑ひである、いつたい商人が儲けを除外して出版するなどといふことは、全く考へられない、教育者のさうした出版業者に対する求め方は、現実的性質の薄弱なもので、夢想である、商人側が声を揃へて笑ふのも無理がないのである、
現在、政府の子供読物浄化方針は、出版業者との直接な触れ合ひによつて進められ、すこしづゝ内容が改良されて行つてゐる、さうした場合の、教育関係者は、両者の批判的な実行的な位置になど、全く立つてゐない、これまでも、また現在も、当局の相談役的存在は、その吐くところの意見が、出版業者の実状とは全くかけ離れたところにある、一口に言つて理想論が多い、私はこの種の人々を『座談会用の人間』と呼びたい、一つの問題解決のために、政府当局の招きによつて、改革に参画し、直接その事業に携はる業者を前にして述べる、これら専門家達の改革意見は、その座談的老練なる故で、其の場の雰囲気を柔らかにはするが、ただ一冊の本の内容を実際的に改める力をもつてゐない。これは絵本浄化の場合にかぎるまい、政府と接触する民間団体の中には、単なる『座談会用の人間』がまことに多いやうにも見掛けられる。
子供読物の浄化座談会では、教育者が実状とは全く遠い現象的な改革意見をのべる、すると座談会に参加してゐる、世間的にも有名な漫画家が『どうも漫画といふものは、教育と背中合せの所がありますね――』などとお座なりな意見をのべて、そこで一同がまた笑ふといふ状態である、大部分の漫画家の文化的水準の低いことはお話にならない、これまでの赤本漫画や、絵本の作画家は、その低俗な意味に於いて、出版業者とよくウマがあつてゐた、現在までに卑俗性を高揚させるには、前述の漫画家の座談会での発言のやうに、『漫画といふものは教育とは背中合せだ――』といふ意見通りにやつてきたのである、浄化がこゝまでに到つても、まだ子供読物は反教育的であつて構はぬなどといふ、無理論な漫画家が現在でも少くない。
しかも文学者や、科学者や、画家、教育者などは、商人よりは文化人であるといふ意見は、常識的に通用することである、しかし温ま湯のやうな低い文化性などは、商人の現実からの反映の敏感さで、割り出された、現実的行為の前には、往々にこの文化人なるものが、商人にイニシャアチブを握られるといふ現象も起る、従来の漫画家の場合は、それが最も極端に現はれ、一冊の漫画ができ上るためには、漫画家は出版屋から、要求される――といふ形式で、実はさまざまの牽制をうけてきたのである、漫画家が気品のある漫画を描いたときは、それは売れないといふ理由で、卑俗な漫画の形式へ復帰逆戻りさせられたり、画中の人物を乱暴に扱ふ仕組みは歓迎された、画中の主人公が無人島に漂着する、猛獣が現れて、この太郎少年を脚で跳ねとばす、すると少年はきまつて椰子の幹にぶつかると、上から椰子の実が落ちてきて、下の太郎少年の頭にあたり、少年は『テヘッ、いてイ』(痛い)と叫ぶ、このやり口は殆んど常套手段である、
漫画の教育的意義などは、どこにも発見できない、丸髷の奥様が、乳房を露出して海水浴をしてゐれば、蟹が泡をふいてそれを見物してゐるといふ野卑なものから、『アリャリャ』『アタタタタ』『ウヘッ』『テヘッ』『ヱヘヘヘ』『ヒャア』『アレレ』『ウワッ』『チヱッ[#「ヱ」は小文字]』などの愚劣な感動『止まれ』といふべきところを『トトトト止まれ』といひ『大将』といふべきを『タタタタ大将』と表現し、この赤本漫画を読むことによつて、子供の正しい発言を、吃音児童に養成するやうなものである、ドモリの子供をつくる許りではない、鶏の鳴き声に似た(二字判読不能)雲助的(三字判読不能)追従的かけごえ『ケケケケ』とか『テヘヘ』とか人間の言葉とは思はれない言葉を汎濫させ、チャンバラ漫画では人間の胴体の輪切り、頭部の唐竹割り、黒ん坊を虐殺する人種的偏見場面、血シブキの飛散、博徒長脇差、他人の部屋に忍んでゆく破廉恥漢、忍術、空中飛行、等悪材料は枚挙にいとまがない、当局が浄化に手をつけた頃は、その粗悪な頂天で恐怖状態を示してゐたのである、
三
これらの粗悪漫画の数量や、配布範囲が広いといふことを、監督官庁が気づかなかつたといふ一理由はある、それはこの種の粗悪絵本や漫画は、内容の吟味された高級子供出版物とは、全くちがつたところに、出版業者の取引配布網があつたといふことである、価格もまた五銭、十銭二十銭程度のもので、長篇漫画で六七十銭級といふ、現在は一円近い低廉なことが特長であつた、これらの安漫画は、デパートの書籍部や、文学、哲学などの高級書籍を扱ふ書店には現はれない、赤本の配本網は別なところである、二流、三流どころの本屋、古本屋、玩具店、最も大量消化するのは、夜店商人であつた、本屋もない地方によつては、雑貨店の一隅に、チリ紙の束の隣りに、或は黒砂糖の桶の隣りにならんで売られてゐるといふ具合に、全く庶民的立場にある安価本として扱はれてきた、当局の検閲の眼の下をくぐつて出版されてゐたかどうか、粗悪時代の当時の状態は保証の限りではない、検閲の眼にふれることが少なかつた理由がもう一つある、赤本類は、出版物としてよりも、玩具形式として扱はれてゐたことである、木製の赤い自動車や、ブリキ製の青い船にまじつて、この漫画本は、何かしら赤青を塗りたくつた本、といつた程度の、玩具としての認識より外には、出版業者がもたなかつた、取締強化に際して、赤本出版業者は、児童の出版物といふものは、いかに喧しく取締られるものであるかといふことを、始めて経験し、なかには唖然として策の施しやうを知らなかつたのも出版業者にとつては無理があるまい。
浄化座談会で、教育家の一人の意見では、粗悪本の影響を避けるためには、子供自身に本を選ませるからいけないので親が選択して買つてやることがよい――といふ、しかしこれは現に行はれてゐることでもある、子供の教育に熱心な、或は熱心すぎる家庭の母親はさうしてゐる、値段に構はず、高い読物を選んで買つてやつてゐる、座談会に出席した某デパートの書籍部主任はかういふ『手前どもでは、いくらでも高い本が売れますから、高くても、いゝ本をつくつていただきたい――』と、母親が子供のために良書を選むといふこと、高くても良い本と言ふことは、間違つてはゐないであらうが、子供読物浄化運動の主旨と、本質から少しく離れてゐる、殊にデパートの書籍部主任が、いくら高くても売れるからなどといふホめ方は、少数の子供を目標にしたホめ方で、大多数の子供のために、愛情ある言葉ではない、売れさへすればといふ、利益の幅の大きさを、前提とした言葉であつて、ある意味では悪質でさへある。
母親が選んで本を買つてやるといふ、良家庭は必要であるが、赤本漫画の改革は、かうした家庭の読む本といふより、俗に餓鬼鼻たれ小僧と呼ばれてゐる、広い庶民階級の子供を対象として起きた問題なのである、そこのところの混同はできない、本が安いといふことに問題がたくさん残つてゐる、五銭玉、十銭玉を一個母親に与へられて、本屋に子供自らが走つてゆくといふ性質のもので、さうした実状を無視して、兎角民間の浄化問題は理想論にかたむく。これらの鼻垂小僧の両親は、赤本漫画の有害なことを、知らなかつたのであらうか、充分に感じてゐたに違ひない、何故なら現在の我国の家庭に於ける児童の位置といふものを考へてみたらいゝ、家庭は子供達にとつては、ヱレン・ケイ女史のいふ、それは家庭があつても、無いと同様な『無家庭』の状態にをかれてゐる。
父親は働きにでかけ、子供達は学校にでかけるが、一日の大部分を学校では家庭から子供たちをうばつてゐる、やうやく家にかへると、母親は家のことで忙がしく、子供たちのことは、かまつてくれない、子供達は親にうるさがられ、幾何かの金を与へられる、子供はそれで鳥モチを買つて、トンボ釣りに出かけるか、紙芝居を見るか、赤本漫画を買ふかする。
ことに漫画を愛好する子供の狂的な熱心さは、手に負へない悪太郎も、『本を読んでゐる間は』猫のやうに温和しくなる、その有様を、親達は内心恐れながら、子供達のお守りをしてくれる漫画の本に、感謝さへしてゐる、トルストイは、学校といふところは、既に中性的なところで、子供達はそのことを、ちやんと知つてゐる――といつてゐるが、トルストイのいふやうに家庭と社会との中間に、宙ぶらりん的な存在を、学校が果しつゝあるやうな気がする、子供達は教科書の硬さによつて精神状態を硬化することを、漫画といふ課外読物の、弊害的な柔らかさに、喰ひついて、精神を中和させてゐるかのやうである。
四
内務省と、出版業者との最初の会合のとき、内務省図書課の方針では、かういふ悪いものが、あるからいけないのだ、といふこの世から漫画を絶滅してしまはうといふ強硬意見をみせた、すでにその卑俗性は頂上に達し、改革の余地なしといふ見解をたてたのであらう、すると席上で、出版業者側が驚いて、漫画の廉価な立場と、無産者の子供のための出版――といふ社会的意義を主張した、そこで内務省もその立場を是認して、それでは内容を改革しろといふことを業者に要求した、現在市場に現はれてゐる商品のいろいろの価格のうちで、五銭、十銭などといふ単価のものは、価格が安いといふ意見だけでなく、社会的意義が大きい、しかし漫画はキャラメルのやうに、舌の上では溶けない、子供達は一冊の本を何度も繰り返してよむばかりでなく、それを持ち出して友人に借すと、一日のうちで幾人かの子供の間を、非常なスピードで回覧される、卑俗を感じながら、親達はそれ以外の、種々の利得をこの赤本から得てゐる、残念なことには全く教育的でないといふ、一事だけが残つてゐる。
内務省の強硬方針で、もし現在漫画が廃滅されてゐたとしたら、何の問題もない、しかし漫画は子供達を無性によろこばしてゐたといふ事実は、この世から漫画が影を消した後でも、さうした事実のあつたことだけは問題として残るだらう、子供達はそれにかはる他のものに転じてゆくだらう。ソログープの子供を扱つた小説で、牛殺しの父親をもつた小さな姉妹が、母親の留守にそつと庖刀をもち出して『牛殺しごつこ』をやる、姉は父親が牛を殺すやり方そつくりに、妹の首に庖刀を加へるという筋であつたが、子供達はどのやうな恐怖すべき遊びをでも案出する、『自爆自爆』と叫んで二階から飛びおりて怪我した子供があつたとか、ないとかいふ、この子供は新聞記事を読んでゐたに違ひない、子供読物がこの世から姿を消しても、子供自身は決して困らない、この連中は色々な遊びを考へ出す、大人の講談本でも結構読む、子供漫画が廃されないで、存続したといふことは、子供にとつての問題よりも、大人にとつて問題が残されたのである、出版業者はその儲けを継続することができるし、漫画家は執筆によつて命をつなげるし当局は取締りの余地をのこした、教育者、児童心理の研究者達は、今後も相変らず座談会を開くであらう、ただ子供読物の問題は、文部省、内務省の今後の取締方針の如何によつてすべての状態が、いくらでも良い方向に変つてくるに違ひない、その意味では(五字判読不能)
幼稚園のブランコの綱が切れはしまいかと注意を払つてくれる保母があるとすれば、子供たちにとつて、優しい親切な保母であらう、多くの場合はブランコの綱が切れて子供が墜落してから、幼稚園では綱は取り替へることになつてゐる、政府が、映画とか、読物とか、子供のことに関して、危険の起きる事前にそれを防がうとし、気を揉むやうになつたことは、子供のための良き保母になつてきたといへよう、国立児童出版所のやうなものができてゐない我国の状態では、政府が子供読物の良いものを、率先出版して、見本を示すといふわけにはいかない、従つて個人の資本投資による出版を否定するわけにもいかない、内容が悪いといふ理由で、出版されたものを発売禁止処分にするといふ、所謂断乎たる処置が、政府の政策遂行を容易にするばかりとは限らない、そんなに子供出版物の発行が難かしいのであれば面倒だからと、昨日の子供読物出版屋が、けふはタワシの製造業に、さつさと転業もしかねないのである、『儲からなくても良い本を』などといふ言葉が、いかに非現実的な言葉であるかは、この業者の心理状態に接触した経験のある人はよくわかる筈である、良い本をつくらせることは、取締当局の方策であり、画家、教育者は、ことに政府の良き協同者でなければならない、そして出版屋は儲けるといふ単純な理由でだけ出版する、何故なら儲けさへすれば、どのように優れた立派な子供読物でも出版するからである、現在の出版業者が、自発的な出版良心をもつまでになるには、多少時間がかゝるやうだ、文部省や、内務省の取締り方針が、過渡期であるといふ意味で、方針の動揺といふものもあるため、出版業者の出版方針もまた戸まどひしてゐる、羊が紙を喰つてゐるやうな漫画を書いたところ、紙を喰ふなどとは、国策に反するのではないかと神経質になつた人があるといふ、羊が紙を喰ふのは、羊の習性であつて、国策とは何の関係もない筈である、しかし現在の子供漫画の出版には、その位にも当局や出版者が敏感になつてゐる、国策に反するのは、羊が紙を喰つてゐる絵ではなくて、卑俗な子供出版物を出版して、印刷紙を浪費する、そのことであらう、有害なものは勿論悪いが、無害なものも無意味な出版である、他の大人の娯楽出版物は知らないが、子供出版物はあくまで有益なものでなければならない、しかし子供漫画の卑俗化は、我国の現下の『赤本的現実』の一つの現はれであつて、漫画だけがその責を負ふべきではないからだ。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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