日本画壇 新鋭作家集
度胸の良さ 加藤栄三氏
加藤栄三氏のやうな画家に対して、一体この画家は今後作画上でどういふ動きをするかとか、どの程度に伸びるかとか、予言的なことをいふことは殆んど不可能だ、またさういふ批評態度はむづかしい、その理由はかうだが、加藤氏に逢つた感じの人柄と、その書かれた絵とが殆んど反対の立場にあるといふ印象を受けとる、殊に彼のしやべつてゐる話をきいてゐると全く懐疑主義のやうで、絵に対しては良心の塊りといふ感じがする、どこにものんびりした感じがなく、神経質である上に、変な形容だが、神経や心理の「場面変換」がなかなか激しく細かい。彼は言ふ「風景などの動かないものを描いてゐて、近頃は小鳥が好きになつてそれを勉強してゐますが、ちよつと勝手が違ひますね、小鳥はチョコチョコと動いてちつともじつとしてゐない、しまひには、あんまり動きまはるのが憎らしくなつて、こ奴殺してやらうかと思ふことがありますよ――」いふことがすこぶる気が短かい、だから彼の言ひ草だけを丸呑みにすると、今後は神経質な画風にすすみさうである、しかし一昨年の文部大臣賞を獲得の、新潟の海で描いたといふ「薄暮」が示すやうに、作中の牛の悠久たるさま、彼の作品の図太い神経の丸味は、彼の性格のどこから来てゐるかちよつと疑問に思はれるほどだ、日常生活では極度に神経質だが、作画上ではその片鱗さへ示してゐない自然人的素朴さである、そこに彼の作品の特長もあり、今後に対する期待もかゝるといふべきだらう。
加藤氏は自然観察が如何に難かしいものであるかといふことを、今にも泣き出したいやうな表情をしていふ、小鳥の性格の分類や、小鳥が野に居たときどういふ生活環境をもつてゐたかといふことまでも、知らうとする、彼の慾望はなみなみならず高いものがある、三越の新進作家日本画展に「山桜と瑠璃鳥」の絵を出品したが、その絵は雅味を帯びた瑠璃鳥の柔らかな平和そのものの姿であつた、彼は後から知人の小鳥通が来て「瑠璃鳥には非常に精悍な気性のものがある」と話がでた途端に、彼はシマッタと思ふのである、瑠璃鳥の性格を柔順なものとばかり考へてゐて、もつと突込んだ鳥の性格の観察に見落しのあつたことを、彼はたつた一人で自分の頭を抱いて天地に恥ぢるのである、さうした良心的な態度の良さが彼にはある、また一種の摂取型の作家で、画に対してどんな門外漢の言葉でも、それを充分耳傾けてをつて自分のものに摂取するといつた謙遜さもあるのは良い処だ、大臣賞の作品「薄暮」のやうなふてぶてしいスケールの大きさを、更に質的にも高めて制作発達してゆくところに、他人の真似の出来ない境地がある筈である、好漢惜しむらくは、少しく病弱らしい、体が弱くて仕事が停滞するのは実に辛いと述懐する。
フロイド好み 橋本明治氏
橋本氏に対しての一般的な批評をみると「才人才に負けるなかれ――」といふやうである、だが才人は才に負けるといふことはないものである。あれば才に溺れる――といふところだ、小さな才であれば負け、溺れるだらう、然し若し橋本氏にして大才を心掛けてゐる人であるとすればさういふ心配はないやうだ。新時代の日本画の路は、まづ日本画家を多少に拘はらず時代的な心理主義者にしてゐるやうだ、またこの危険を怖れてゐては、勉強の路もひらかれないだらう、橋本氏はさういふ意味で、決して平垣な[#「平垣な」はママ]路を行かうといふ人ではない、彼がフロイドの精神分析的なものに興味がある――といつてゐるのも、その間の事情を語るものがある、昭和四年の帝展初入選「花野」は彼がまだ美校の四年のときの作だ、この頃の作に現はれてゐる、妖しい感覚の独自性に、三つ子の魂百までの諺どほり今に至るも、橋本氏の作風の底を流れてゐる、妖しい画風の面白さである、彼が洋服を着用に及んで銀ブラをするところをみて、他人は彼を当世流のモダニストのやうにみてゐるらしいが、さう速断することもできない、彼は銀座は私の勉強に行くところですといつてゐる、風俗への観察のために出掛けるといふ彼の弁明をこの際正しいとしてをかう。ともあれ彼は野趣を追ふ作家ではなくて、「撞球図」などといふ近代的テーマを描く作家である、しかし公平なところ、橋本氏には昭和十一年文展の「蓮を聴く」とか、「花野」とかいふ、橋本氏の好みとする、心理分析の工夫のかゝつた作品の方がはるかに、絵に独特の香気と、気品とを盛りあげてゐる、他人の真似の出来ない工夫の仕方といふものを橋本氏の作風の中から発見することができる、近代的余韻のある作品と言つた方が、あるひはあたつてゐるだらう、橋本氏がふつと何気なく「小市民的な画材はあまり好きではないのですよ、もつと迫力のある作品を書きたい――」と口を吐いてでた言葉は、をそらく橋本氏の本音であらう、今までの処橋本氏は小市民的なテーマへ逸脱しさうな危険もずいぶんある、さうした危険性を本人がちやんと心得てゐるのだから第三者は安心をしてゐていゝだらう、橋本氏にかぎらない、何か新しい画題を求めようとするとき、日本画家の陥るのはこの「小市民的な画題」である、美しい娘を描くのはいゝが、たゞ彼女が消費階級らしい美しさを表現してゐて、それ以外に何等の美をもつてゐない、さりとて畑の糞尿臭い野趣が画題の最大の健康性でもない、そこで新の気鋭魄をもつ橋本氏のやうな作家の作家良心は先づ画題の選択の上で苦しまざるを得まい、橋本氏は自然の美しさも、また人間の美しさと同等に、特別の妙味ある描写力をもつてゐる人である、そしてその自然描写と近代的人物との調和の仕事が面白いやうに思ふ。
粘りと感能 奥田元宋氏
児玉希望塾は七十人からの大世帯の画塾で、尚毎日のやうに塾入りを望む画家の玉子があるといふ、これらの沢山の希望者を断つたり、選択したりするのが大変だといふ話である、奥田元宋氏は言はゞ児玉塾が始めて出来たときの第一番に駈けこんだ一人である、なにぶん弟子はとらないといふ原則をたてゝゐた児玉希望氏の処へ、郷里を飛び出してきた当時十九歳の奥田元宋氏が児玉氏の教へを乞ひ師事九年、奥田元宋氏は当時二十八歳、日本画壇の年齢番附から言へば、奥田氏は、言はゞ若冠である、何もかにもこれからだといふ感じがする。
愉快なことに奥田氏は、主家である児玉希望氏の処から置手紙をして家出したことがある「文学をやりたくなつた」のであつた。
だが再び絵の路へ戻つてきた、かうした内部的な苦悶を児玉希望氏はちやんと知つてゐて、「奥田は文学をやるなどと、道草を喰つたといふことは、今日の彼に大きな手助けとなつたのだ――」とよき理解を示してゐる、全く希望氏の言はれるやうに、今後の日本画壇は従来のやうな型ではいかない、文学との接触や、その理解はどうしても日本画家として必要である、文学好きの奥田元宋が、第二回文展で「盲女と花」で特選をとつたことはまた理由のないことではない、洋画壇では二科の島崎鶏二氏、日本画壇では奥田元宋氏はある共通なものがある、この二人は文学の臭味のない、文学的な絵画の出来る人である。
「盲女と花」のあの感能性と、新しい意味での妖怪味とも言ふべき、心理的雰囲気を画面につくり出し得たといふことは、誰れでも出来る術ではないやうだ、絵画は造型美術であるからといふ理由で、テーマの上で文学と連結することを極度に軽蔑してゐる作家が多い、殊に洋画家にはそれが多いやうである、それは狭量といふものである。世間でよく「文学的な絵だ」といふが、厳密な意味では、そんな言葉がある筈がない。絵画はあくまで絵画で、事実「文学の方法」では一本の線も引けないわけだ、文学的ではない「思索的」だといふことをすぐ「文学的」だといふ風に批難してしまふからよくない、筆者は奥田元宋氏に大いに今後所謂「文学的――」と呼ばれていゝ作品を描いてほしいといふ意味で声援をしたが、仕事ぶりの粘着力と感覚的には感能的なところは、彼の大きな特長であろう、仕事に対する喰ひ下り方はまことに良いのである。一見童顔稚気充満してゐるが、その底には冷笑家らしい皮肉な処もあつて不屈な精神がみなぎつてゐる、彼が若冠にして「日高川」や「盲女と花」などの佳作を産み出したことは、若いが自己に対しての手きびしい厳格さが産みだしたものであつて決して偶然なものではないやうだ。
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新日本画の名コンビ 福田と吉岡
――『松』と『馬』に就いて――
第二回新美術人協会展の福田豊四郎氏の『松』は従来の日本画の様式に対して新しい革命的な手段を加へたといふ意味で相当に問題となつていゝ作品である。この『松』をそれでは如何に問題化するか、といふことは、これまたこの作品を問題としてとりあげる批評者側に対しての一つのメンタルテストのやうなものである。福田の『松』に対しての美術批評の各自の解釈、さうしたものの喰ひ違ひ、或は一致、その批評的現はれこそ、自分は作品以上に興味があるものだと思ふ。
あるひはこの福田の『松』や吉岡の『馬』を力作、大作といふ風な簡単な印象批評をもつて黙殺的に片づけてしまふか、さうした場合も少くないといふことは考へられる。然しながら、福田があの作品に加へた意図計画といふものは決して単純ではない。またこゝでは吉岡堅二氏の創作態度の本質とも関連して、日本画壇の福田、吉岡といふ名コンビの日本画の、新時代性確立のために払ふ作家としての精神的な内部的苦悶といふものに対して吾人は両氏の努力に対して充分に敬意を払はざるを得ない。
こゝではこの二人の仕事ぶりは俗衆批評を超越して存在するのである。この二人の人気の本質に関して露骨な言ひ方をすれば、世間には福田、吉岡よりも、絵そのものの、うまい作家はザラにゐるのである。然しながら福田、吉岡の人気の高さは、絵のうまさだけでは凌げないものがある。福田、吉岡はこの二人が年齢的にも若いといふこと、その将来性に対する世間の期待と、次には所謂日本画の新しい方向に対して、この二人は何時の場合でも正統な追求の路筋を辿ることを知つてゐるといふ意味から、揺がない世間的な独自の人気を保持してゐるのである。世間では福田、吉岡の仕事ぶりを何かハデな画壇的動きと観察してゐる向もあるが決してさうではない。事実は之に反して、福田、吉岡の仕事ぶりをみてゐると、陰鬱なほど滋味な内気なものといふことができる。両面をもつた物体に光線をあてるとして、その光りを反射的に作用する面は福田豊四郎氏であり、その光りを吸収的に作用する面は吉岡堅二氏といふことができる性格的な両面でもある。この二人位日本画の運命といふものを自覚して、その運命をともにしようとしてゐる作家は他にゐないのである。さうした自覚に立脚して仕事をしてゐるといふことが、この二人を自己の仕事を過度に前進もさせなければ、特に後退もしないといふ実力を示すのである。殊に吉岡堅二氏の『馬』は在り合せの形式的な美術論の中から批評の尺度を求めてきては、一言も批評ができる性質の作品ではない。見給へ、吉岡の、『馬』に対して世間では何を語り得てゐるか。今年の馬は、去年の馬よりも良いとか悪いとかといつた単純な批評では批評でも何でもない。馬喰的言辞といふべきだ。少くとも吉岡の作品の場合には、この作家の心理的な創作以前の問題に一通りの関心を示してからでなければ、できあがつた作品に対しては一言半句も批評的な言葉を吐けない筈である。吉岡の場合は日本画の新しい形式的確立の手段の立て方が、余りにも内省的だといつてもいゝほどに苦渋な方法を採つてゐる。吉岡の『馬』は、吉岡といふ作家が、描く対象物に対して彼は形態の破壊を目的としてゐるのか、或は形態の構成を目的としてゐるのかわからないほどの状態で描いてゐるのである。彼は破壊しようとしてゐるのか、創造しようとしてゐるのか? どつちであるかといふ疑をもつしかしとにかくそこには一つの作品が生みだされ現出してゐる。その作品の世界は非常に抽象的な不可思議な雰囲気をもつた、吉岡独特な世界を生みだしてゐる。物体を殆んど無視して描いてゐるのかと思へば、さうではなく立派に実在性を捉へてゐる。吉岡はそして物の影とも、光りとも、また量とも面ともつかない一つの新しい実在性を発見してゐる点は、充分問題となつていゝのである。大体吉岡のやうな仕事は、洋画家が、その先進性からいつても先に手をつけなければならないやうな性質の仕事なのである。それを日本画畑の吉岡氏が早くもそこに着眼しその方法の進歩性を採用したといふことは皮肉な現象でもある。これらの吉岡的な創作的苦悶は、一言にして言へば日本画的な或は日本人的な『線』に対する新しい理解が伴ふところの新時代的な苦悶のそれであろう。
一方福田豊四郎氏の場合はどうか、彼は仕事が吉岡氏よりも大まかな猪突的な冒険を企ててるやうに見受けられる、しかし決してさうではない。日本画の伝統への強い肯定に立脚した上での仕事である。表現の大まかな割に細心の変革を、蓄積的に加へてゆくといふやり方なのである。吉岡の方法は日本画の絵の具の物質性といふものに極度に喰ひ下るといふやりかたで、そこでは画面処理が究極の目的でないのに拘はらず、それに反して福田はあくまで画面処理を心掛ける。彼の『松』をみてもわかるやうに、彼は一本の直線を引くことに対しても、その直線の性質の中に、如何に封建的な要素が含まれてゐるかといふことをさへ吟味しその封建的要素の否定のために、物体を直線の上に描き添へて古い線に新しい要素を与へる。彼は殊に『曲線』といふものの日本的性質、その心理的な救ひ難い習性の表れといふものに教へをよく理解してゐるから、それに対しての強い反撥を企てるのである。新しい日本画の確立とは、何も特別にテーマの中に、或は色彩の中にのみ変革の方法があるとはかぎらない。彼の場合には一本の線の動きの中からも、古い要素と、新しい要素との分析とを行はうとしてゐるのである。
事実またさうした綿密な態度であつてこそ新しい日本画の確立は為しとげられる。色だけの美しさをねらつても、そこに引かれた線が古めかしいものであつては何もならない、『松』の表現力は、ひとつにはさうした企ての下に為された、必然的な単純化として到達した新しい画境とみるべきであらう。松に投じられた光りの侵入の解釈の新しさ、樹の幹の下部を急に細く描くことによつて、量感を一気に獲得したやり方の大胆不敵な方法も近来の痛快事である。また吉岡氏の『馬』の色彩の美しさ、その美しさは通り一ぺんの素通り的な見方ではなく、すこし許り画面に向ひあつて凝視的であるときは直ちに私のいふ意味の吉岡の色彩の美しさといふものがどんなものであるかを諸君は理解するであらう。
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日本画の将来
映画の出現は、小説や劇やその他の芸術ジャンルに甚だしく不安を与へ、そのためにキノドラマといふものが現れたり、詩の方でもシネポヱムなどゝいふ、映画と他の芸術形式との結合を企てたものがでたりした。併しそれは成功したであらうか、またさうした運動が幾分でも、不安を取り除くことができたであらうか、日本画の将来の見透しも、またそれと同様なことが言へる。
殊に日本画の将来に向つて、幾分でも予言的なことを語る場合には、日本画の現在内包してゐるところのもろもろの不安や日本画の存続問題にまでも触れなければなるまい。
日本画が滅亡するか、どうかといふ不安を、あたかも映画に対する劇の不安の状態に当てはめて考へることは可能であらう。洋画に対する日本画の立場なども考へやうによつては、決して日本画の将来は楽観的とは言へない、キノドラマの場合、劇の不安を叫んだことも、劇と映画との結合を計画したことも正しかつたであらう、しかしキノドラマ論者は、現在その運動を継続してゐるとは思へない、なかに甚しいのは、さうしたことがあつたかといはんばかりに、口に拭つて、空とぼけてゐるのである。
自分一個人の考へをこゝに差加へれば、当時キノドラマ支持者に対しては自分は斯ういふ考へを抱いてゐた「彼は芝居の味を知らないものゝ不安である――」と、しかも一流と言はれる演劇批評家や劇団人が、これを支持したに至つては唖然とせざるを得なかつた、一つの芸術ジャンルの将来を語り、その存廃に少しでも触れる場合には、少くとも態度としてキノドラマ論者のやうにありたくはない、何故ならキノドラマ論者の所謂「味噌」は、映画の本質、劇の本質、その何れにも不安を抱いたといふ、その中途半端的なところにある。
いまここに日本画を論じてその将来を語る場合には、自分は日本画の「本質」をあくまで支持するといふ態度を失ひたくはないと思ふ。しかしそのことと、つまり本質を支持するといふことは、日本画が存続するか、廃滅するかといふこととはまた別なのである。
映画がこれほど盛んにならうが、その発展が正統なもので、本質的なものであればこの映画の隆盛が、他の芸術ジャンルを脅やかしたり、滅ぼしたりするといふことは絶対にない、日本画も洋画も、各自その本質をのばすといふ点では少くも、一方が一方の正しさを滅ぼすといふことは考へられないのである。たゞこの間にあつて芸術的な正統性を、政治的工作に依つて歪曲されるといふことは、世間にはよくあるのである。しかしそのことはこれまた問題が別になる。
今度の院展や青龍展をみて、それを一口で悪く言つてしまふことは簡単である、多くの洋画家の日本画評はさうである。日本画壇の内部でも、前衛を自称する作家は、現在の日本画を酷評する、しかし日本画と洋画(日本での)とその何れが進歩的であるかと、いふときに、直に日本画よりも洋画であるとは軍配をあげることができない。
伝来的なものを直に古いと考へ込むことは最も危険なことである、こゝで冗々しく長いほど、わかり易く言へば、日本画家とは何ぞや――であらう『日本画家とは日本人であつて日本に昔からある日本画といふ材料を使つて伝来の方法で、日本の風物、人情を描く画家を言ふ』
次に日本における洋画家とは『日本人であつて、西洋から移入した材料を使つて、もつとも新しい方法で、日本風物人情を描く画家を言ふ』その画家を何と呼んでゐるか『洋画家』と叫んでゐるのである。
読者諸君はこゝで何かしら、変な気持に捉はれないであらうか、それは日本人であつて、日本の風物人情を描いてゐるに拘はらず、その描写の方法、絵具材料が西洋から移入されたものであるといふ理由だけで、いつたい何時まで「洋画家」などといふに日本的な呼び方をつづけるのであらうかといふ疑問が起る。
油絵画家ならまだ使用の材料の分類から抽き出された呼び名であるから肯定できるが、西洋からの材料を使つてゐるといふだけでいつまでも「洋画家」と呼ぶのはそれは一種の差別待遇であらう。
然もその呼び方の矛盾やおかしさは、将来益々拡大するであらう、院展を見ても、洋画的な材料、一口で言つて近代的な材料を扱つたものはどちらも出来が悪い、青龍展でも銀座舗道的なモダニスト画家は、日本画材料を扱ひかねてゐる、日本画材料をこなすことができないのである、もつと突込んだ言ひ方をすれば、さうした題材を描くのに日本画材料を使ふ場合には、材料そのものが画家の言ふことをきいてくれないとも言へる日本画の伝来的な絵具材料は、日本の風俗人情に、幾代もの画家が永い間接触して、日本の自然を描くにはこれが適当だと、割り出された材料なのである。
その答は結論的で固定的ではあるが、その固定的なことが決して封建的な非道学的不理由にはならない、日本の洋画家からやうやく洋画材料で「竹」を描いた作家島崎鶏二氏がたつた一人出たばかりである、しかし竹は昔から日本にあつたし現在もある。
しかも日本画家の日本画材料を使ふときは、島崎氏が苦心を払ふことよりも幾多の合理的な立場から日本絵具を使つた場合、もつと手軽に竹の本質に接近できるのである、そこに問題が隠されてゐるのである、私はその意味から現在の日本画家の制作上の悩みを、頭から否定的に考へるわけにはいかないのである。[#底本では「。」が欠如]
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橋本明治氏に与へる公開状
問題の『三人の女』が会期中に加筆されてゐることに就て
橋本明治氏よ――私は公開状といふかういふ形式で文章を書いたのが、こんどが始めてなのです、意志表現の形式としてはあまり完全なものでもないやうです、また貴方としても、突然何の前触れもなしで、私から公開状の形式で呼びかけられるといふことは決して良い気持のものではありますまい、しかし私はいろいろと熟考した結果貴方個人に宛てゝ、この形式で書くことが、もつとも穏当のやうにも、また現在のところこれがさまざまな表現の形式のうちで、最良のもののやうに考へましたので、この公開状を書いてゐるのです、これを公開状形式にしたことに就いては、問題を貴方対私といふ対個人関係から、出発させようとしてゐるからです、公開状といふ公衆性をもたせましたのは、この問題が、決して私信に停まるべき性質のものであつていけないと考へたからです、一つの社会問題として批判を仰ぎたいといふ目的からです、
この公開状は場合に依つては、問題が思ひがけなく拡大する性質を帯びてゐると思ひます、またその反対に、小熊秀雄と称する詩人で評論家である一私人の単なる妄想として、一笑に附されてしまふかもしれません、私はむしろ後者として、私の一妄想として、問題が縮小され、雲散してしまふことを望みます――但しそれは全くさうした事実がなく、真個うに私が精神病患者であつた場合の帰結であり解決であります、もし私の見解が正当であり、私が妄想患者でなかつた場合には、問題は社会正義の問題として保留されるでせう、
一つの事実が、正しいか、不正であるかといふことに就いてその事実の性質が、個人性を帯びたものと、社会性を帯びたものと二種類あるでせう、後者の社会性を帯びたものは、あらゆる場合に於いて、正邪を明瞭にしてをくといふ、人間的義務を生ずるでせう、私はこの公開状発表によつて、まづ人間的義務を果さうとしてゐるのです、つまり『問題の提出』といふ最小限度の義務を果してゐるのです。貴方が私のこの公開状を読んでも、何等人間的な義務を感じにならない場合には、この公開状を黙殺なさることもまた貴方の自由です。
さて私がこの公開状を書くようになつた事情を語りませう、橋本明治氏よ――貴方は小熊といふ人物を御存知の筈です、それはたつた一度ですが、私は貴方のお宅をお訪ねして、貴方と色々とお話ししましたから、私は貴方の人柄風格も知り、また作品も系統的に調べてもみました、そして貴方の作品の支持者でもあるのです、また将来もさうでせう、さういふ意味からも、こゝでこの公開状を書かないでは気が済まないといふショックも、今回うけたわけです、昭和十四年十月十四日の『日刊美術通信』の記事を見ますと、西山主任との「一問一答」といふ題で、同社の記者と文展日本画主任の西山翠嶂氏との一問一答記事が掲載されてをります。
発表のため美術記者連盟の控室に姿を見せた西山主任に対して記者達は突込んだ質問を試みたが一問一答は次の通りであつた
記者――昨年の特選橋本明治、奥田元栄が落選に瀕したといふことだがそれに就いて聞きたい
西山――橋本君の作品は出来栄え問題でなく研究的態度につき審査員会に是非の論があつたが結局入選した、奥田君のは種々の意見が出て最後まで残つたが採決の結果、票数が足らず落選することになつた――(以上美術通信記事より)
この記事を読んだとき、貴方の本年度文展作品に就いて、まだ見ない間から私は非常な興味を覚えました、それは美術記者と西山主任との短かい一問一答記事の中に、既に文展審査の二つの暗流を感じますしさうした発表前に問題を惹起した貴方の作品がどんな性質の作品であるか見たかつたからです、それにもう一つの問題は、貴方の作品『三人の女』はその出来栄えは問題にならなかつたが、橋本明治といふ作者の研究的態度が審査員間に是非の問題になつたといふことです、研究的態度を審査席上で問題になるといふことは、よくよくのことに違ひない、殊に審査の本質は、その作品出来栄え本位で行くべきで、最悪でないかぎりは作者の研究的態度などを問題にすべきではないからです、貴方の制作上の態度にまで審査員が口を入れるといふことは、個人の自由に対する、審査員の一つの越権行為と見るべきです、しかし私は今にして見る場合には、あなたの研究態度で、審査員が別れて論じたといふことは、最悪の場合であつたことが想像されます。
私は招待をうけて、文展招待日第一日に出掛けました、そして貴方の作品も拝見しました、そして貴方の作品の前にじつと立つて、この作品『三人の女』の何処に作者の研究態度の論難点があつたのであらうかと、ながいこと調べ始めました、洋画家の私の知人は貴方の『三人の女』はピカソの日本的解釈だと言ひました、それはピカソの作品に子供を差上げた作品もありましたからです、私の見解では『三人の女』は題材的に深い計画のあつたものではなく、日本画界に於ける純然たる新形式の裸婦群像であると見てをります、従つて女の肉体的描写といふテクニックがこの作品の出来栄えを決定する性質の作品でせう、審査当日審査員間で論争のあつたのは、その個所であつたでせう、私は貴方の作品の支持者です、しかし今回の『三人の女』は発表されたものをみて、残念ながら支持できませんでした、何故なら、美術批評家といふ民間審査員として、あの作品は涙をのんで落選させてゐたでせうから、文部当局や、頭の硬い審査員の審査標準としての論点が、もし社会風教上とか、安寧秩序とか、道義的立場からとかいふことで、貴方の作品の入選反対者であるのであつたら、私はそれに与みしません、しかしもし芸術作品の審査といふデモクラシーに立つて見た場合に正統な理由の下に、入選反対をした審査員があつたとしたら、(それが誰であつたか知りませんが)この人に与みするでせう。
貴方の『三人の女』は入選しました、私はその作品をみて、内心驚ろいたのです、よくこの絵が入選したと――、洋画家は裸婦といふものに対して、それを性慾的にではなく、物質的解釈をするといふ訓練があるのです、日本画家の『三人の女』はそうした訓練を欠いた、過失作の一つと見るべきでせう、ワイセツ感を与へないやうに裸婦を描くといふことは、駈け出しの美術学生でも洋画家の場合には描く精神的技術的訓練があります、それに拘はらず、日本画壇に於いては、すでに相当の画壇的位置を占めてゐる貴方が、それが出来なかつたのです、洋画の裸婦をみつけてゐる私の眼には、貴方の作品は、画面の全体的雰囲気に於いて、春画的、性慾的、ワイセツ感をそこからうけとつたのです、然し私は批評家的立場から、どうして貴方の作品がワイセツ感を与へるかといふ吟味を会場で始めました、そしてそこに最もワイセツ感を強めてゐる『一本の線』を発見しました、それは『三人の女』は子供を差し上げて立つてゐる女と、髪に手をふれてゐる坐つてゐる女とがゐます、この二人は腰を布で掩つてゐます、顔を前に向けて横に寝そべつてゐる女が、全く腰部を何物でも掩つてをりません、この女だけは全くの洋画でいふ裸婦形式なのです、しかしこの寝てゐる婦人の曲げた両足を区分し、接続してゐるともいふべき、右上の股の一本の線の描き方は、婦人の内部的機構を想像するともいふべきあまり匂ばしい線とはいへなかつたのです、審査員の問題点『研究態度』の重点はこゝにあつたのでせうか、
あの『三人の女』の画面からワイセツ感を得たのは、私たつた一人でせうか、何万といふ観衆が、あの絵から心よい芸術的法悦を受けとつてゐるのに、私一人があの絵からワイセツ感を受けとつてゐるとすれば私が心が奥しいからでせう、しかしお可笑なことになつてきたのです。
私は文展日本画をいつも二度に分けて観にゆくので、今度も第二回目に十一月三日に観に行きました、そして貴方の問題作『三人の女』の前に立つたとき、私は思はずギクリとしました、私は第一回目にみたとき、漠然と画面の全体的雰囲気としてワイセツ感をうけとつて帰つたのではなく、念入りにみて、一本の線が強すぎた――この線の橋本明治的解釈の誤りが、この絵を害ねてゐるのだと具体的な部分に触れ、充分納得して帰つたのです、ところで二度目の(十一月三日)に行つてみると、そこの部分が胡粉で塗りまくられて消されてあるではありませんか、私でなくても唖然としないではをれないでせう、これ以上長々と書く必要もないでせう、詩人といふものは直感を信じきつてゐるものなのです、詩人とは直感とともに生き、またそれとともに滅びていゝものなのです、文展開会第一日に描かれてゐた股の線が、十一月三日には消されてあるといふ、それに対して、文部当局の答弁も、また貴方自身の答弁がもし『そんなことは知らない、会期中に加筆して消した、そんなことは絶対にない――』といはれても、私にとつてはそれを覆す証拠といふものをもちません、私は最初見たときあつたといふ、私自身の直感を信じて、『いや確かに加筆してゐる――』と自己の確信を述べる以外に手段がありません、
しかし私には満更味方がないとはいへないのです、それはこの公開状の掲載した原稿はをそらく文展開催期間中に発行できるでせう、一本の線があつたか、なかつたか、後から消したかどうかといふことがわかるのは、技術者としての日本画家の諸君あるのみです、第一日招待日に行つた画家で貴方の作品を注意してみた画家があつたら、再度会場に足を運んでみればどつちが正しいか明瞭になる筈です、貴方の作品に手を加へたのは誰でせう、然も会期中に勝手に手を加へていゝものでせうか、審査員の権威といふものはどこにあるのでせう、もし貴方自身が手を加へたとしたら、貴方も長いものに巻かれることを知つてゐますねといひたい、或は貴方も知らないのに、作品に誰かが加筆したものとしたら、日本犯罪史に新しい一頁を加へるところの新犯罪人の出現です、芸術犯とも呼びませうか、それともそれは私の直感の誤りであり、単なる白昼夢であつたとしたらむしろ日本の芸術家のために喜びとします、しかし事実であつた場合には、文展は既に芸術の聖殿ではなく、欺瞞的な手品師の小屋と何等変りがないでせう、問題は『三人の女』の内一人の寝てゐる女の股の線が消えてなくなつてゐるといふことです、単なる一本の線ではありますが、問題は単純ではないでせう、公衆の面前でこの詐術的方法がゆるされるものでせうか、誰がその責任を負ふべきでせう、一切の問題を白紙にかへしても、橋本明治氏よ――貴方は私一人をこのやうな公開状を書かせるほどに、錯誤を与へたことだけは、確かです、数万の観衆、それから文部当局、審査諸君、画家諸君、新聞、美術雑誌記者、美術批評家諸君、それから作者である橋本氏その人、これらの多数の人々が、描かれてあつた線が、いつの間にか、何者かによつて胡粉で塗りこくられ、ぼかされてあつても知らず、たつた一人私がそれを知つてゐたとしたら、こんな快事はまたとありますまい、然しこれは問題の性質上私の所有とすべき快業でもないでせう、私は或はこの公開状のうちで言ひすぎた部分があるかもしれません、しかし私としてはこれ以上穏やかな貴方に対しての言ひ方は知らないのです、最初で言明してをりますやうに、私は私信的な形式で貴方に対して公開状の形でこれを書くことの穏当さと、同時にこの公開状には、貴方から返答を貰はうなどといふ強制的な意味を少しも含ませてゐないといふことを誤解しないでいただきたい、同時にこの文章は単なる社会に対する問題の最初の提出といふ、最小の目的が果せればこれを書いた目的が完了するのです、橋本氏よ、幸ひに君にして私の公開状を誤解なく、君の芸術家として高邁な精神と、あくまで真実と公平との立場から読まれんことを希望したい。(十一月四日)
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