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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文


    春台美術展

 観に行つたとき暗くなりかけてゐたので落着いてみられなかつたので残念であつた。
 武良俊明……『埋葬』は漁師達が死せる漁師を埋めようとする悲哀の情景を描いた大きな作であるがこゝに集まつてゐる漁師達の顔に興味をそゝられた、そして相当に漁師特有の表情を捉へ得てゐる。しかしそれは主として漁師の顔の骨格的なものゝ追求によつて必然的に作家が描き得た特有さであつて、一度これらの漁師的な顔が、一人の人間が死にこれを土に埋めるといふ最大の悲劇を前にして如何なる人間的感情をこの『埋葬』に描き得てゐるかといふことを吟味してみると、まだまだまだ作者の感情は甘い、甘い、といはざるを得ない。
 柳瀬俊雄……『有段者』『黄衣婦人像』などをみると、一応腹の出来た人といふ感じがする。『有段者』では柔道家の立姿である短躯前方を見つめてゐる。この柔道家の意志的な強さといふものは描けてゐるが、僕の考へる理想的有段者といふものは、あゝした人物の硬直と謹厳のみが有段者の全部でないのではないかとおもふ。柔よく剛を制すといふのが有段者(所謂戦ひの名人)の態度ではないかと思ふ。この『有段者』には柔の面が少ない。僕は作者柳瀬俊雄の創作態度にも、柔よく剛を制す――といふ言葉があるといふことを知つて貰ひたいことをのぞめば僕の批評は足りる。
 星野雅弘……『冬日』この作品の良し悪るしを言ふのではないが、冬の日を描くとき彼は冬の日の空気といふものをよく捉へてゐる。具体的に言へば冬日の空気を画家が色として画布の上に移し得た巧みさをとる。しかもその雰囲気とか、空気とかいふものゝ描写に際しては、よく画家はこれらのものは『漠然たるもの』といふ風に理解し、またそのやうにボッとしたものとして描きたがる人が多いが、それが大間違であつて、いかなる難かしい雰囲気にせよ、画面を我々が見たとき、作者の心理的説明を立派につけ、具体的に説明されてゐるものでなければいけないと思ふ。言葉をかへて言へば真白の色から真黒の色に移るまでには、幾多の数かぎりない段階、階程、過程とかいふものがあるわけだ。それを心理的に見ようとせず逃げてはいけないといふ意味である。この冬日にはその努力がなされてゐるので絵は余り好きではないが、良い努力だと考へた。

    片多徳郎遺作展

 春台展での片多徳郎遺作展は僕を感動させた。殊に少女を描いた白い『裸婦』に就いては、私のやうな若輩の批評を絶対にゆるさないものがあるから、一言もいはない。ただ一言多くの画家諸君に進言したいことは、画家といへば助平の代名詞のやうに世間では考へてゐる折柄、婦人に就いてあゝした崇高な理解をもち得る人は何人あるだらうかといふことである。片多徳郎の、白い『裸婦』の前で婦人即性慾を見てゐる多くの助平画家は頭を垂れたらいゝ。それからもう一言、春台展では片多徳郎、丹野次男、平田千秋の三人遺作展をやつてゐるが、それも非常に良いことである。だが一般の画壇にのぞむことは、なるべく才能のある画家は生きてゐる間に団体として好意をみせるのがほんとうで、本人にしても死んで花実が咲くものかであるし、死んでから、急に才能を発見して騒ぎたてる傾向があるから、生きてゐるなら生きてゐる間に良い作家の真実の価値を大衆に示すやうに団体として努力すべきだ。
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洋画壇時評 旺玄社展を観て
   上野山清貢と岩井弥一郎

 岩井弥一郎――最も場内で個性的だといふ意味に於いて、この作者の絵の前に私は吸ひつけられた。同時に私はこの岩井の絵を見て、直感的に斯うさとつた『彼は立派な観念主義者である――』と。観念主義者は美術にかぎらず文学、哲学あらゆる部門にわたつて世界各国にびまんしてゐる。彼を観念主義と見るならば、岩井は一体何国流の観念主義者だらうか、それは将に独逸流の観念主義者である。
 それは彼の『静物』を見れば判る。色々の野菜類が雑然とならべられ、それがおそろしく大きく描かれてゐる。
 岩井の場合にかぎらず、画家が一個のリンゴなりカボチャなりを前にして描き出すとき、そのカボチャの実在的な大きさつまり実物の寸法より、画布の上に一巡り大きく描くといふこと、反対に一巡り実物より小さく描くといふことに対して果してその画家はどれだけの良心が働いてゐるだらうか。芸術的表現とは、実体を拡大するといふ単純な考へに捉はれて仕事をしてゐる美術家が近頃すこぶる多いのである。ティントレットのパラダイスの絵画は五十呎乃至百呎の距離に適はしく出来てゐる。つまり見るに適当の距離を必要とする程の大きさに表現されてゐるわけだ。だがこの絵は而も近づけば近づく程より立派に見える程鋭敏に色彩づけられてあるさうである。
 岩井の絵の物の拡大は離れて見ては物の実感を一応我々に与へてくれる。然し近よつて見ると、如何にも誇張感たつぷりの描写であることが判る。物の形の量に答へるだけ、その質が充実されてゐるかどうかといふことが、岩井の絵の場合問題になるだらう。岩井の絵の物の拡大の方法は、彼が一応写実主義者であるだけ一層描いてゐるものに矛盾が現はれてゐる。誰かがその矛盾を指して岩井の絵は面白いといふのであれば私は何をか言はんやである。岩井の絵には見るものに与へる感じは、厳粛さといふよりも、滑稽感である、殊に『婦人像』などにはその感がふかい。他人は良く岩井弥一郎の絵を指して、彼の絵が素朴であるといひ、ある人はアンリー・ルッソー的だといつてゐたが、私は岩井の絵を他人のいふ程素朴な画風とは見てゐない。むしろ相当神経の行きわたつて抜け目のない描出をしてゐると考へる。岩井の表面的稚気や稚拙さは相当不自然なものがある。むしろ私は岩井の制作態度でうたれるものがあるとしたら、画面全体に流れてゐる重厚さが好きだ。私は彼の色彩にも驚ろかない、それは新しい美学の世界では、すでに岩井の色はクラシックに属するからである。彼が今後いかに時代的な新しい色感をとりいれることができるかどうかは、興味ふかいものがある。好漢をして更に飛躍せしめよである。更に私は岩井の制作態度に就いて彼の写実主義の行詰を痛感させられる、つまりヘーゲル的な究極点にきてゐるやうに思ふ『芸術の目的はイデーと形態との同一性をば眼と想像とに示すことである、それ(芸術)は現実の外観と形態との中に於ける永遠と、神聖と、絶対的真理との発現である』――この言葉はヘーゲルの言葉であるが、なんと岩井弥一郎の画に表現された芸術観と一致したものがあるだらう。
 こゝまでは過去の写実主義者も行きつくことができた。この観念論的方法も、個人的には岩井式に絶対境に到達できた。だが一度この個人的な信念も、絵となつて現はれるとき、社会的批判に堪へなければならない。その瞬間に、作者の信念は観るものに案外もろいものに受けとることができる。岩井はスケールの大きさを覗ひ、重厚さ、素朴さ、粘着力のある仕事つぷりは好ましい。そしてその芸術の闘ひ手としては旺玄社ではドンキホーテ的画家は岩井だといふことができよう、そして殆んど反対の立場で仕事をしてゐるハムレット的画家に上野山清貢がある。

   上野山清貢に就いて

 岩井の神経の太さと上野山清貢の神経の細さを形容しまた時代的意味も加味して、ドン・キホーテとハムレットと形容したが、上野山の場合の神経の細さは、画壇で珍らしい特殊な神経の持主だといふことができる。徹底したカラーリストであるといふ点では、牧野虎雄と好一対であるが、今度の旺玄社の牧野の出してゐる『芍薬』は色彩家としての牧野の特長を生かした画とはいふことができない。最近の牧野の仕事は何か色彩に就いて以前程衝動的美しさを感じてゐないやうだ、『芍薬』の花を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してある壺のその壺の絵画の太い線描などはいかにも牧野が線に対して特別な愛着を示してゐるといつた表現である。そしてその太い線は線描家としての牧野のものでもなければ、色彩家としての牧野のものでもない。つまり線でも色でもない、線でも色でもないものは一体それは何だと誰かゞ反問しさうだ、簡単に言はう、それは『不自然』と称するものである。
 牧野には早晩、彼自身に色と線との分離で苦しまなければならない、宿命がきてゐるやうである。その点で己れを知つてゐるものは上野山清貢である。彼はその点では徹底した色彩家である。これまで極端に混濁した、黒つぽい絵を描いてゐた時代の上野山を私は知つてゐる。そしてその反対に全く明るい華美な色彩の時代の彼をも知つてゐる。彼は色彩の上では、明るさと暗さと、美と醜との間を動揺して来たし内心的な葛藤を彼の絵の仕事を通して知ることができる。そして現在の彼の『魚』の境地では、私は最も彼らしい性格的な調和的な仕事ぶりと、観察してゐる。
 私は上野山清貢の仕事ぶりに就いて、画家仲間の上野山評といふのを厳密な意味で聞いたことがない。上野山の絵は優れてゐるかといふと否といふ、悪いかといふと否といふ、的確な批評をしないのである。そして話をすぐ彼の芸術ではなく、彼の人物評や、行状の方面へその人は話を転じてしまふ。物足りないしまた馬鹿々々しい。上野山に就いて彼の芸術を語るといふ親切さを画家仲間からきかない。もつとも一人の人物の『芸術』を語るといふことは『苦しい仕事』であるしゴシップを語るといふことは、『愉快なこと』であるから、上野山のゴシップ的面を語つて、上野山の芸術が判つたと気が済んでゐることも良からう。だが私の芸術上の潔癖性はそれをさせない。上野山の作品に対しても、良いか悪いか決めてかゝりたい。
 上野山が大臣を描くといふこと、鼠よりも柔和なライオンを描くといふこと、これらの愚劣に属する仕事の攻撃手は多い。だが彼の本質的な仕事『小品』には人々が触れたがママらない。私は特権階級に対して全く非妥協的であつたクルーベと大臣の顔を平然として描く、上野山と比較しようとするのではないが、上野山が大臣の金モールを透して、如何に大臣を人間的肉体的に描かうと努力してもそれは無駄なことゝ思ふ。
 彼の画壇的生活には、大臣を描く社会性と、魚を描く芸術性との不一致があり、この二つの矛盾は近来彼の仕事の上で益々開きができてきた。まもなく彼はどつちかに決めざるを得ないだらう。大臣の顔を鰯やヒラメやカナガシラそつくりに描く生活に入るか、反対に現在の芸術的な小品『魚』の顔を大臣の顔やファシストの顔そつくりに描くようになるか。あるひは全く大臣の顔を描くなどゝいふことをやめてしまつて魚や風景に限つて突つくか、上野山はこの三つの内のどれを選むだらう。私が彼をハムレット的といつたのは、彼の芸術家としての良心性を発見してあるからで、時代的な動揺性を敏感な形で、彼は身につけている。きのふ海の中の人魚や、原始人の母と貝殻の上の子供やを描いた上野山が、今日ライオンに鹿を喰ひ殺さしてゐる、大臣閣下の肖像を描き、魚をならべて描いてゐるといふ、絵の主題の上にも時代的な動揺と矛盾とが現れてゐる。そのことは彼の芸術的良心がないといつてはいけない。そのことが芸術的良心であり、彼の人間的な良心である、ただ彼が描き残してゐるものは、労働者と工場だけである。労働者や工場を彼が描く程、彼の矛盾が拡大すれば、一層興味がふかい。だが残念ながら、彼の良心はそこまで良心的になることができない。彼の良心の限界が自から証明されて来る、その点がハムレット的理由である。
 私は上野山の絵に多分にボオドレイル的なものを見る、『魚』の色感を一口に醜いと決めてはならない。一尾の魚の物質感を、あくまで色彩の諧調で表現していかうといふ色彩家らしい追求の仕方はかなり独自的なものがある。ゴッホの色の理解と全く相反したものが彼にある。夜さへ尚太陽的な昼のゴッホに対して、昼さへ尚月光的な夜や薄暮のやうに描くのは上野山である。彼の魚には光線の直接的な物体への吸収といふものはない。光の中心点といふものはない。だがそのかはりに月光的な、月の反射的な光りの特別な環境をつくりあげてゐる。
 微細な神経のふるへ、往々人が見遁すところの、たゞ一色のものを、彼はその一色を上から或は下から一枚々々はぎとつて、その一色を百色にも千色にも段階的に表現しようと彼は努力する、
 物体の外面的結合としての単色を彼は憎んでゐる。だから彼は色の単一化とたたかひ、複雑化さうとする、上野山の絵の色に人々は特別な不快感を味ふらしい。だがそのことだけで上野山の色は『醜い』と早計に決めてはならない、『美しい色とは何か?』といふ疑問はまだまだ画家や見るものに残されてゐて良いからである。
 帝展系の色の美しさと、独立系の色の美しさとは益々今後対立的なものになつてゆくだらう、そのやうに上野山の美意識としての色彩の性質はかなり美の一般性からは孤立的なものではあるが、一つの特殊性をもつてゐるといふ事ができる。

 旺玄社の作品は総じて審査の上に、個々の作家の個性尊重の立場にある。それは良いことである。
 光風会はすこぶる大作主義でまた一面に労作主義であるがこの光風会の大作、労作は、案外稀薄なものがあり、手堅さの点では旺玄社の画家の方がずつと真剣さがある、ことに光風会の陳列方法ときては、三段掛けで余りに無神経さを暴露してゐる、配列のルーズさは街頭の掛軸売でももつと光風会の陳列よりは神経を使つてゐるだらう。発表の自由は結構であるがあれでは困りものといへるだらう。
 旺玄社評では、上野山、岩井の二作家を二人の問題作家として採りあげたから、こゝでは余り顔ぶれを挙げない。
甲斐仁代――色感も美しいし線も婦人にしては奔放なものがある。然し扱ひ方は決して新しいとはいへない。直感するところは『女の辛さは男の甘さにさへ負ける――』といふ感想が湧いた、もつと判り易くいへば、女は相当手固い突込み方をしてゐても、矢張りどこか男の画家にひけ目なものがあるといふ感である。たゞ甲斐仁代の色感に就いての理解は良い。
橘作次郎――「化粧する女」「鮒」私は後者に好感をもつ。この鮒の調子で作風を統一し、これで押していけないものだらうか、この境地でも相当面白い独創的な仕事の分野が開かれると思ふ。
佐藤文雄――良い幻想性が流れてゐる。たゞ物の明るさと暗さとに就いて不明確な態度がある。作者は影を無視するといふ境地にまで辿りつく勇気をもつてゐない。従つてその影暗い筆触にうるささが眼につく。
加藤保――物の配置の面白さに時代的な感覚があり、いつそシュルリアリスト的方向に進むか新しいリアリズムを追求して行つた方が独創性がでさうに思ふ。
青柳喜兵衛、水彩の千木良富士、陳億旺、牧野醇、梅沢照司、尾崎三郎は色々の意味で批評したいが紙数が尽きたので次の機会にゆずる。
光風会――では前にも述べたやうに配列のゴチャ/\で批評の食指うごかず、脇田利作の「三人」は稚気愛すべき作風で観者に好感を与へるものがある、「三人」では立てる青年の服装の赤さの強調も辛うじて画面に調和してかなり色彩上の冒険をやつてゐるが、良く全体の調子を保ち得た。たゞ陰影の理解や描法が常識的なものがあり画面を硬直させてゐる。
須田剋太――「群物」「カリフラワー」二点色の近代性は光風会の出品者にしてはとび抜けて新しい。構図のとりかたに近代人としての飛躍があり、明快な対象の捉へ方、特殊な水々しい感覚の作品であつた会場を一巡して須田剋太の絵にきて、どうやら社会性や時代性に接した感がした。この作家の良き才能を祝福したい。
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洋画壇時評 独立展を評す

    第一室

 中間冊夫 筆法が濶達でのびのびした作画態度にこの人の将来の仕事への余地を示してゐる。一沫の凄愴味がありそれに絵画的要素と文学的要素と、これ程に調和的なものとした手際は水際立つてゐる。日本の洋画壇でも、もういゝかげんに絵画の世界と文学の世界との結びつけをやつても良いと思ふ。中間冊夫は今後益々この特異性を発揮して欲しい。
 菊地精二 この作家の構成の苦心は買ひたいが「鉄」「機械」「ガラス」といふ三つの物質の描写上の説明が、いづれも混沌として、三つの画題に分けた必然性がない。もつと具体的に三つの物質を見る者に説明し、証明する親切さがあつてよかつた。例へば「ガラス」の描写にしても、ガラスといふ物質は最も重要な他の物質と異なる組織体として、透明であるといふこと、このことは硝子を描く上に無視出来ない筈であるが、彼の「ガラス」の描写には色彩と線との構成的成功があつたが物質の質の説明がなかつた。然し菊地精二の絵の色感は何れも時代性を把握して美しい。

    第二室

 小島善太郎 のマンネリズムには私が批評するまでもなく、マンネリズム批評家に委ねていゝ。
 川口軌外 の四点の出品のうち、「貝殻」だけは沈着いてみることができ、其他の「無題」「花」「鸚鵡と少女」何れも線のうるささと、色彩は美しいといふよりも、通俗的美観を呈してゐた。新時代の美意識といふものの、追求が足りないと思ふ。

    第三室

 中山巍 「蔬菜」「砂丘」「花」の三点の出品は自づからこの作者の三つの方向を示ししかも三つの心理的分散を証明したものがある。私は中山巍を他人のいふ程にリアリストと見るわけにはいかない。辛うじてリアリストであるだけだ。
「砂丘」は作画態度の明快な、そして色感の豊富なものがあり、筆触の簡略化も効果をあげてゐるが、全体的に批評すれば、総べて中山巍の画は概念的なものゝ一歩手前で踏みこたへてゐるといふ態度である。「砂丘」の遠景の三人の人物の周囲の絵の具の盛り上げた意味がないと思ふ。ただ空の色に異様な光りの吸収を為し逐げて[#「逐げて」はママ]美しい。

    第四室

 宮城輝夫 の「猟」(鉄砲)は色彩に時代性があつて良い。独立展の進歩性の一つに私は是非色の時代性(進歩性)も加へたいと思ふ。画家は一応色彩家としての時代的敏感さがなければならない。その点独立の画家は色の性質に就いて無神経すぎる。デパートを一巡しても、もつと涯かに商品の上に色彩と時代との有機的関係が結ばれてゐるのを発見する。その意味でデパートの商品の色彩の方がずつと美しいし進歩的だし新しい。
 曾宮一念 この作家が独立に加はつたといふことは、リベラリストとして正しい態度であらう。また曾宮一念の進歩性といふものも一般が理解してやらねばならない。色の新鮮性を私はかふ。但しその色の新鮮性といふものは、多分に主観的なものであるといふことを観者は忘れてはならない。仕事の上の非妥協的な態度は良いし、仕事に対しての苦しみ方など若い人々は学ぶべき点があるだらう。
 海老原喜之助 「曲馬」馬はちよつと面白い。殊に馬の物量感がでてゐたし不思議な線の歪みの中に立体感を捉へ得てゐる。この人の絵はもつと小品をまとめて個展か何かで見せて欲しい気がする。
 里見勝蔵 所謂里見式の仕事の反覆性が観念の固定を来してゐる。作者としては苦しい境地であらう。自分の才能を信じ切ることのできない良心的なところが、また里見の良さの一つであらう。だが、私の希望するところは、仕事の進め方の方法論だけである。俗に飛躍と名づけられるやり方で大胆に変つた試みをやつて欲しい。(否見せて欲しい)里見の場合一枚の画から、次の一枚の画に移る過程に必然性を看落してゐる。里見は仕事の仕方を、何か決定的なものに考へこんでゐはしないだらうか。その苦しみの切実さと、作品の出来栄とは又別だ。あゝまとまつたものでなく大いに過失をしてほしい。

    第五室

 鈴木亜夫 「撮影」こゝに描かれた人物は一九三五年の人物ではない。取扱の上にすでに社会性が喪失してゐるし、絵を描く本能があゝしたテーマに動くとすれば低徊な趣味といふより他はない。

    第六室

 児島善太郎 残念ながらブルジョア的要素を洗ひ切ることができてゐない。進歩性が少ないといふことは、絵を見るよりも、その絵を収めてゐるガクブチを見ればそれを雄弁に語つてゐる。
 熊谷登久平 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる日本的な作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。

    第七室

 この第七室辺りから独立展も少し見応へのある作品がチラホラと列んでゐる。
 松島一郎 「靴屋」「豚屋」「港の人夫」「崖風景」この人には「崖風景」のやうな落着いた仕事をもつと拝見したい。靴屋人夫必ずしも風景より時代性に富むものとは考へられない。松島一郎の場合、テーマに特別の野心があるのが、却つてこの人の才能を殺し才能を半減してゐる。もつとスローモーションで結構だから、描く対象と取り組んだ仕事をしてほしい。

    第八室

 寺田政明 「長崎風景」「海辺静物」この人からは特殊な色感を発見する。それだけ人知れぬ苦心と勉強をしてゐるわけだ。展覧会芸術の色や線の強調一点張の世界の中では斯うした沈着いた仕事ぶりは、通り一ぺんの観客の眼には強く訴へないから損にはちがひないが、結局はこの人のやうに己れの風格で押して行つた方が勝ちを制するだらう。ただ目下のところ色の対置の美を少しねらひすぎてゐる感がある。「海辺風景」の方が良い。この絵からは見る者が一つの恍惚感を味ふことができる。線の発展と、構図と空間性の上では成功してゐる。「長崎風景」は「海辺風景」のやうな飛躍さがないが、ある沈潜した自然な美がある。
 福沢一郎 「水泳家族」「水泳群線」極度にママ異さと、誇張さとを追求した二点である。技術の伏線的で的確な点では独立随一の技術家であらう。
 一枚の絵を描くにこの人位に計画性を完全な形で働かせ得る人はちよつとない。だからこの人は技術と主題と一致した場合恐ろしく良い絵ができなければならない人だ。だが、今度の水泳の二枚はこの人のこれまでの特長である思索的テーマを離れたものであるだけ成功とはいへない。『触手ある風景』は絵かきを驚ろかすことができるが文学者には首をひねらす絵である。

    第九室

 伊藤簾 「雨霽」(熊野川)「静物」 この絵には良く人柄がでゝゐるし、すでに心境的作家に入つた絵である。心境的になるといふことが良いことであるか悪いことであるか性急に決めることができないが、若し心境的といふことが仕事の上の早老であるとすれば問題である。

    第十室

 須田金太郎 「水浴」「少女」この人からは近代人の古典画作りといふ感がした。この感は遺作を列べてゐる三岸好太郎の諸作にも同様のことが言へる。三岸の場合は須田より年齢的に若いだけに一層その感が適用されるだらう。したがつて三岸の「人物」画よりも三岸らしい才能を発揮したものはシュルな貝殻や海へ傾けた近代人としての神経の細かなケイレンの感の美しさがある。
 須田の場合は同じ古典画作りとしても、須田式な現実感があり、能動的な虚無主義者として躍如としてゐる。須田の絵からは一つの寂漠感と現実の否定的とを引きだすことができる。須田の絵の批評の場合は、彼の抱いてゐる世界観で踏みこんでいかない限り批評することができない。須田に色調を斯う変へてくれとか、材料が今どき「水浴」でもあるまいなどと注文したところで注文する方が愚の骨頂であらう。彼の絵には現実の空間に対して特殊な認識がありそれが彼の絵をボッと霞んだ不透明なやうな透明なやうな絵を描かせてゐる。
 だから時には遠くの物を前景のものより明瞭に見るといふ場合が彼の場合多くある。そして視覚的意味に於ける前景無視の彼独特の処理の仕方に対して、私は一つの意見をもつてゐる。彼の激しい対象の追求の方法は私は好きだが本人が意図してゐるかどうか判らぬが意図の究極的なまとめ上げを客観的に観るときには、彼はそのまとめ上げを『光り』をもつて最後を制約してゐるといふことだけははつきりといふことができる。彼を虚無主義者とみ、しかもその能動性をみたのは、彼は如何なる肉体其他の描く物質をも、『光り』をもつて一度は破壊し尽し、再び『光り』として現実のものにまとめあげ形象化してゆくといふやり方である。試みに彼の「少女」を少し注意して見給へ。少女の肉体は全く光りをもつて形づくられてゐるから、――線画上の物質としての光りに就いては研究課題として面白いし、また須田国太郎に就いては言ひたいことが沢山あるが長くなるので次の機会に譲る折を見て須田論を試みたいと思ふ。

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