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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文

底本: 新版・小熊秀雄全集第五巻
出版社: 創樹社
初版発行日: 1991(平成3)年11月30日
入力に使用: 1991(平成3)年11月30日新版第1刷
校正に使用: 1991(平成3)年11月30日新版第1刷

 

●目次
1.モヂリアニ論
2.松林桂月論(一)
3.松林桂月論(二)
4.堅山南風論
5.郷倉千靱論
6.伊東深水論
7.奥村土牛論
8.上村松園論
9.大智勝観論
10.小倉遊亀論
11.菊池契月論
12.金島桂華論
13.徳岡神泉論
14.石崎光瑤論
15.山口華楊論
16.小杉放庵論
17.福田平八郎論
18.川村曼舟論
19.児玉希望論
20.大森桃太郎氏の芸術
21.秋田義氏の芸術を評す
22.美術協会の絵画展を評す
23.広瀬操吉氏の芸術
24.旭ビル楼上の白楊画会評
25.洋画壇時評
26.洋画壇時評 三つの展覧会
27.洋画壇時評 旺玄社展を観て
28.洋画壇時評 独立展を評す
29.商業資本と日本画家の良心 三越日本画展を観て
30.小熊秀雄個展
31.超現実派洋画に就て ヱコルド東京絵画展の感想
32.二科展所感 坂本繁二郎小論
33.熊谷守一氏芸術談 青木繁との交遊など
34.独立展を評す
35.春陽会と国展 ルオーの描写力の事など
36.革新の日本画展
37.二科展を評す
38.文展日本画展望
39.日本画壇 新鋭作家集
40.新日本画の名コンビ 福田と吉岡
41.日本画の将来
42.橋本明治氏に与へる公開状 問題の『三人の女』が会期中に加筆されてゐることに就て
43.大観とユトリロ
44.時局と日本画――横山大観の場合
45.問題の日本画家
46.子供漫画論
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モヂリアニ論

 薄幸の画家、アメデオ・モヂリアニに就いて、私の心理的なものに、彼の芸術の最初の決定的なものを与へたのは、日本劇場で仏蘭西洋画壇の大家の諸作の展覧に、モヂリアニの横臥した裸婦を見た時からである。
 こゝではスーチンの作品も私を感動させたし、またルオーに就いては、ある種の失望を感じられた。スーチンやルオーに就いての感想は次の機会に述べることにしよう。画家といふものは案外臆病な性質があるものらしい。セザンヌやマチスやピカソの絵の前には画家達の人集りがいつもある。だが少し異色ある作家の絵の前には、殆んど寄り附かうとしない。そして遠くからおづおづと感心してゐるものだ。
 この福島展の場合でもさうだつた。画家はモヂリアニの絵の前には何時もガランとしてゐたし、甚しかつたのはスーチンの絵などは殆んど観てゐるものが無かつた。画家達は激しい作品からの衝撃を無意識的に避けようとするのであらう。だからここでは同じ芸術にたずさはる同志に対する観賞の態度は口では玄人を自称するとしても、単なる描かざる一観衆と同じ心理状態になる。またさうなるべきだ。美術上の玄人と素人の限界をいつまでも固執し、主張する人を私は折々見かけるが、その境界を固執するその人の観念の世界には救ひ難いものがある。モヂリアニの絵は、アンリー・ルッソーと同様に『アマツールとしての良さ』に規定づけようとする評者が少なくない。口には言はないが、心の中ではさう思つてゐる所謂自称玄人画家が少くないのである。子供と大人の限界や、素人と玄人の限界や、昼と夜との境界や、大家と無名作家の継目を具体的に説明できる人は幸福なるかなである。絵画が思索的過程に入つてくると、すぐそれを『文学的要素』として排し、絵は『造型美術であるから』などと、何時も反復的にこの言葉を持ち出し、その言葉に拠つて玄人を主張する画家には、到底モヂリアニの良さは永久に理解されないだらう。
 外見的に絵の幼稚さを見て、素人画家と断定し、たまたまその画家のすばらしい画人的なデッサンをみて、その画家を見直すといふ場合が、画家の世界には少くない。
 モヂリアニ程、絵画といふものの一般性や普遍性を良く心得てゐる画家はない。この普遍性こそ『画を描かない人』に絵画の美しさを伝へようとする積極的な態度、芸術家の大衆に対する親切な表現である。
 そしてこれらの普遍性一般性に依拠して尚ほ且つモヂリアニがアカデミーに反逆的であつたといふ困難な努力やその価値を、汲みとらなければいけない。
 福島展での私のモヂリアニに対する感動の性質は奇怪なことには、彼のもつてゐる画に現はれた詩では決してなかつた。それは技術的方面に対する感動であつた。
 画面から発散する異様な魅力は、感情的なものであつただけ、素朴に我々の感情に訴へてくる。
 ジョルジュ・ミシ※[#小書き片仮名ヱ、12-上-10]ルの『もんぱるの』は、モヂリアニをモデルにしたものと言はれてゐるが、この小説の中でモヂリアニはズボロスキイに対して斯ういふことを言つてゐる。
『うむ、よし、俺がやつてみたいと思つてゐることを、まだ君に話さなかつたね。硝子かと思はれるやうな色なんだ。それを画に塗ると、瀬戸物のやうに見えるんだがね。七宝を描いてみてそれから肌を描いて見ようと思つてゐるんだ。解るかね、ズボロ、どんな、どんな絵描きだつて、俺が今、肌を、チチアンの描いた肌より美しい肌を描くために、使つて見ようと思つて、マチヱールに到達した者は一人もないんだ――』
 と、いつてゐる。
 私はこの文章と一致するものをモヂリアニの描法から感ずる。ルノアールの描法は一種の硝子的な透明感があるが、それは筆触のうるささで相殺される。モヂリアニの場合は、ルノアール的なタッチの煩雑さがない。しかも七宝的な絢爛とした美しさは、洋画の材料としての油絵具を完全に生かしきつたといふ美しさである。主としてこの華麗さは、彼が光りに対する理解の深さから来てゐる。光りが単に物象からの反射としてみる場合は、安易にハイライトを描ききつて、物質に対する光りの効果を外光派的に生かすことができよう。だが、モヂリアニの絵具の扱ひ方は、もつと決定的な、的確な意図の下になされてゐる。
 つまり、光りの物質への肉化を行つてゐる。『硝子かと思はれるやうな』肉体の美しさは、彼の一筆毎のタッチに光りの消化と吸収を行つてゐることである。光線は彼にとつては物質に対する後からの従属物ではない。現実的なイデー、光り及び生命の肉化のために彼は僅かなマッスの中に、驚くべき光りの諧調の仕事を為し遂げてゐる。だが、人々は彼の苦心を看過してゐる。ただ、全体的なママ能さにのみ撃たれて彼の神経のリズミカルな複雑さを見逃してゐる。透明色の無限の重ね出をしてゐるゴオギャンに比して、その意味では彼は確かにゴッホ的なところがある。
 発光の法則や、色彩の原素的な表現をモヂリアニ程生かし切つてゐる画家は少ない。ゴッホはその点で色彩の世界では原素的といふよりも、中間色の世界の開拓をしてゐる。
 ただ、その色彩の原素性は、彼がフランス的であるといふ意味でシャガアル風な民俗的などうにも割り切れない人間的な色彩上の原素性、原始性ではない。遙るかに近代的な、洗練さが色彩の上に働いてゐる。
 ユダヤ系の作家の色彩の悪どさは観る者をして、その色彩から受ける感じは、能動性である。ロシヤの作家の赤は、観る者を絵を離れて行動性に駈り立てるものがあるが、モヂリアニの赤は人間の心理をママ能的に沈静させるものがある。
 モヂリアニは絵のテーマの上に現れてゐるのを見ても判るやうに、彼は小市民性の完全な表現である、欧洲戦乱からうけた彼の心理的な衝撃は、インテリゲンチャ的な焦燥性を色感の激情の世界でじつと堪へ忍んでゐるといふ絵である。モヂリアニの絵画製作の世界を見給へ。まつたく彼は狂へるものであり、肉体的にも自滅の過程を通つて行つた。だが、一度彼の絵を見給へ、全く、これらの生活の激情性は現れてゐない。そこには、センチメントと哀愁の表現がある。
 モヂリアニが絵画以前に彫刻をやつたといふ意味でよく彼の絵には彫刻的な立体の効果があるとか、影響があるとかいふ人もあるが、私の理解では、彼の絵からは何等彫刻的な効果といふものを感ずることができない。むしろ私は逆なものを感ずる。彼の彫刻は絵画的でさへある。彼の絵画の世界では立体からの解放があり、人体の最も普遍的な外劃的な線を描くことに決して臆病ではない。その点が、彼がリアリストであることを語つてゐるものである。しかも、この外劃的な線への追求は、丹念に神経的な筆触をもつて埋めてゆく、絵の具の剥ぎ取りの効果や、色の重ねの効果といふよりも、彼の態度は画布の一端から逐次的に仕上げてゆく、といふやり方の画家に属す。今人物の鼻の頭を描いてゐたかと思ふと、次の筆は足の指を描くといふ描き方ではない。彼の絵が純情であるといふ感じは、仕事のしかたに何等偶然性をねらふことをしない彼の素朴な態度による。丹念に顔を仕上げてから首に移るといつた彼の仕事ぶりの過程には、真からの画家らしい仕事に対する酔ひがあり、陶酔がある。部分の追求がいつの間にか、全体的な立派なまとまりをつけてしまつたといつた絵である。よく自称リアリスト達は、『真に写実的に描くには客観的に描け――』と叫んでゐるのを私は知つてゐる。客観的に描け描けといふ一点張りの主張こそ、徹底した主観論者であるといへよう。帝展派の画家の行き詰まりと、最も進歩的でなければならない筈のプロレタリア・リアリズム画家の行き詰まりの状態に相似点のあることは、この種の客観主義者が多いからである。これでは生きママ人間が絵筆をもつ必要がない。写真機のシャッターを切つた方が遙るかにましである。
 この種のあやまつた客観主義者に対しては、君はそれでは、客観の高さに尾いてくるほど、主観の高さの持ち合せがあるかと、質問をしたい位である。モヂリアニは一見頗る主観的な画家のやうに見えるし、また事実彼の仕事ぶりは主観的な強さが勝つてゐたであらう。だが、彼の出来上つた絵を見給へ彼の絵は何と冷静な、科学性の豊富な絵であらう。
 モヂリアニの生活行動の奇矯から察すれば、彼は逆立ちをして絵を描いてゐなければならない筈であるのに、なんと彼はすべての人々に、絵の玄人にも、素人にも、判り易い、尋常な形に於いて表現してゐることであらう。彼の絵から受ける感じをもつて通俗性と呼んではいけない。それは『大衆性』と呼ぶべきである。
 そしてモヂリアニの作品に対して見る者をして感心させ、『モヂリアニの絵は、ただ何となく良い』とか、或ひは『何となく好きだ』と言はしてゐる。『ただ何となく――』といふ褒め方はモヂリアニの作品に最もピッタリとした褒め方であり、芸術の褒め方で、これ以上に最上の褒め方はないのである。モヂリアニの作品が見る者に、感性の世界を与へた証拠として、かゝる単純で的確な、無条件的に『ただ何となく――』といふ言葉が人々の口から吐かれる。感性に訴へる画家は、往々にアマチュアとして画家仲間から異端と敬遠とをもつて迎へられるが、この種の優れた画家は、画壇では孤立であつても、彼は直接一般人と結びつくことを知つてゐるし、また、大衆はこの種の画家の芸術的真実をよく理解する。
 モヂリアニの芸術の一面性の一つとして数へられるものには『肖像画』が多いといふことである、何故彼は好んで人物を描いたか、横向きでは彼の出世作と言はれてゐる『ヴィオロセールを弾く男』があるが、其の他の大部分は正面向きである。彼は全く横向きを好まないのである。この彼のポーズの選択の仕方はとりもなほさず、彼の芸術探究の真正面向きを語るものである、ひたむきな現実の追究の態度の真正面向きである。
 そしてこの人物の正面向きが、彼の絵に厳粛さと端麗さとを与へ、長い首の描きかた、そこに載つかつてゐる顔はさまざまな顔である。『玄関の子供』の少年の人生苦の顔、『マダム・ヱビュテルヌ』の清浄で性慾的な顔、それは人物の右頬から顎に至る線で完全に表現されてゐる。その頬の肉線はカッチリと充実して皮膚の下にうごめいてゐる。顔と首の表現の誇張感はモヂリアニ一流の人物の手を交叉させることに依つて、完全に画面を調和させてゐる『シュミーズの女』の表情の淫蕩性、『若き娘』の疲れたる愛慾の闘士といつた表情、この絵の胸のあたりのタッチの狂熱性は極度にモヂリアニの熱情を知ることができる。たまたま、このタッチの狂熱性が沈潜して内部的な情熱となつて『裸婦』に現れるとき、豊淳な性や、重厚な性に悩む女を描く。殊にをどろくことはモヂリアニの描く肉体(物質)と光りとの接触、光りの交換である。
 こゝでは彼の企てた『硝子のやうな透明感』また、東洋の七宝のやうな光りのけんらんたるアラベスクを現出してゐる。光りと物質との区分の機械論者の多いアカデミーな画家達にとつては、油絵具といふ一物質に就いて『思索』したことなどは恐らくあるまい。アカデミーの画家は油絵具の処理の仕方は成程経験者で苦心的である。つまり、描く順序の練達者である。だが、一度『現実の順序が違つたものに』などぶつかると、これらのアカデミックな画法の順序は何の用にもならない。したがつてこれらの古典画家、或ひは若い古典画作り達は、成るべく平穏な非発展的な、順序のよい、己れの描きやすい方法に添つた対象をのみ選んで描く。モヂリアニの物質としての『油絵具』に対する大きな思索は並々ならぬ深いものがある。
 その点をあまり人々は考へてゐないらしい、美といふものは、物質の中に他の超物質的根元が肉化することによる物質の変容であるといふ――定義をいま仮りに正しいとすれば、モヂリアニの調色の方法は『物質』(絵具)に他の『超物質的根元』いまこれを『光り』や『色彩』と見よう。これの混然たる肉化の苦心がとられてゐる。素描家としてのゴッホには、驚くにたりない。然し、色彩家としてのゴッホには驚嘆して良い。それと同様に我々はモヂリアニの小市民的哀愁や、彼のもつ詩味などに共鳴を感ずるよりも、色彩に対する科学的処理の方法を学ばねばならない。彼の作品から感動をうけるもの、それは油絵具といふ物質的制約と物質的基礎に立つてそれを殆んど完全に近い程にも感性的に、物質の変容(美術的表現)を行つたといふ点にある。
 私の考へでは、モヂリアニに対する一般の理解は単に彼の奇矯にのみ興味をひかれてゐるし、彼に対する理解は浅いと思はれる。真個ほんとうの意味での彼の理解では、絵の主題の上では社会的意義の分析に立脚することと、彼の制作の専門的な理解の意味に於いては、彼の制作法の科学的な分析に入つてもよい時代ではないかと思ふ。日本画の材料と、洋画の材料とのそれぞれのもつ特質や、制約に対して何の思索的方法を探らずに、心理的にはごつちやにして仕事をしてゐる日本人が少くないのを私はモヂリアニの油絵具の美しさを前にして特に痛感するものである。
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松林桂月論(一)

 日本橋『三越』で開かれた松林桂月氏の小品展は桂月氏の平素抱懐してゐるところの、日本画の新しい写実的方向の開拓といふ点で、桂月氏の努力に敬意を払つていゝものがあるだらう、我々は洋画といふものを度外れた支持の仕方をする必要もないと同様に、日本画即ち古い絵画形式――といふ風な概念からも遠ざかる必要がある。洋画対日本画の問題は非常に難かしいのだ、それと日本画は日本画の内部に於て、幾多の矛盾と、反撥との問題を抱含してゐるから、それぞれの制作上の制約性を、肯定してかゝらなければ、一言半句も批判めいたことを言へないのである。敢て桂月氏を老大家とすれば、最近問題になつてゐる福田豊四郎氏や吉岡堅二氏は少壮気鋭の作家と言ふことができよう、深尾須磨子氏が福田、吉岡両氏の帝展作を、日本画の新しい傾向として驚嘆的に賞めてゐたが、事実福田氏や吉岡氏は洋画界のシュールリアリストやアブストラクトにも劣らぬやうな仕事を、然も日本画の世界でやつてゐるのである、そしてこの二人の作品に対する理解は観者の近代的な観賞上の拠点から同感できる、ところで桂月氏のやうな、南画的な封建性を潜りながら、何かしら新しい仕事を企てゝゐる人の作品から、如何にして進歩的部分を発見したらいゝだらうかといふ問題が、新しく観る者の態度として要求されてくる。
 日本画の私有を企てる資産家や、売買本位の画商の観賞態度とは反撥して、我々は我々の観賞の方法をもたなければならない、吉岡氏とか福田氏の日本画の新しい方向と関雪とか桂月とかの新しい方向とは、必ず何時も両端のものとして、同時的に問題にしなければならないだらう、殊に新しい批評の難かしさは、後者に多くかゝつてゐるやうである。
 桂月氏の小品展から受ける感じは、日本画の技法馳駆の曲者の展覧会といふ感がした、同じ曲者でも横山大観氏の水墨などをみると所謂その『曲者性』がヱゴイストらしい、観る者がどのやうに見ても結構といつた、投げやりの無責任さを発見する、桂月氏の場合には、筆者以外に外部世界として観賞者が存在するといふことなどは、一向お構ひなしに、押しの一手でゆくといふ大観式の曲者性とは全く違つた読者に対する誠実さがある、この誠実さや、見てゐて好感を与へる点は、桂月氏の作家態度、描く自然物に対する接触の方法が与へたものである。
 作者の曲者性を発見するとすれば桂月氏は何にもかにも『細かく描いてゐさいすれば間違ひはない――』と考へてゐる点であらう。『雛鵞』では鳥の量感を巧みに出してゐる以外に、動いてゐる細かなふるへと、鳥の毛の柔らかさとこの場合、量と運動と質感との三つの絵画上の重要なものゝ、巧みな結合を果してゐる、これに反して『長門城』を仔細にみると、水は描写が細かい割に、稚拙であり、言ひかへれば無神経な描き方であり、静的に固定的であり、何の水らしい伸びもない筆者の観念の硬化状態で描いてゐる、水の描写はその方法を徹底させてゐる、ところで水をとりまくところの樹木を線の交錯的な方法で、動揺的に描いてゐるといふ、一つの矛盾を発見するだらう、この矛盾とは、俗に水は流れ去るものであるといふ意味で、樹木や山よりも動揺を与へて描くといふことが普通であるが、その方法を採らず水を静的に描いて、それをとり囲む樹木をそれよりも確かに動的に描いてゐる、この桂月氏の矛盾の方法は、『長門城』の画面を不思議なことにはその方法のために、『水』が却つて激しく動き流れてゐるといふ効果をもたらしてゐる。
 早く飛んでゐる飛行機を映画化すたママめに、飛行機を固定さしてをいて、背後の雲を早く移動させるといふ映画のトリックを想ひ出したらいゝ、自然の真を衝くためには、嘘をつくことをゆるされるといふ場合はさうした場合を言ふのであらう、そこにも桂月氏の曲者的なところがある。『海物』では二種類の珍妙な魚を描いてゐるが、魚の肉の痩せた部分と、肥えて充実した部分の、一種の段落ともいはれるべきものが、表面の魚の皮を透して描かれて、この質感の出し方は非凡なものがあつた、たゞ魚の頭部のボカシ、偶然性に甘えすぎた日本画のやり方の特長的な紙面への絵の具のニジミ方が過度で失敗してゐる、紙に筆を触れて、そこに予期しない滲みを出すといふ偶然性を、あまりに日本画家は頼りすぎはしないか、作画上に偶然性が入つてくるといふことは拒否はできないが、この偶然性を必然的なものに転換し、置き替へるといふところに、作画上の正統と、作家の実力とがある、洋画家の場合もこの偶然性が最近殊に著しく作画方法として入つてきたやうである、一枚の白い紙に出鱈目に絵の具を滴らし、その上に他の一枚の紙をのせて掌で押し、それをはぎとつてそこに現れた予期しない形態画を指して、デカルコマニーと名づけて楽しんでゐる洋画家もある、絵の具の滲みは、勿論紙質や、訓練に依つて、日本画家の場合は偶然的と許り言へないものがあらうが、方法の出発点として正しくないばかりか、単純に『味』を訴へるには効果的であるが、その方法が偶然的であるだけ、その味も具体的でなく、効果の時間的永続性がない。
『黄沙白草』は斜面の山の前方に描かれた樹木の墨色の良さは、洋画家の使ふコンテの色彩に似た溌剌性がある『菜根』は俗臭ぷんぷんたるもので、こゝでは全く新しい制作の良心が少しも加へられてゐるのを発見できない、『木瓜』の樹や、『鳩』の樹は自然物としての樹の枝ぶりが、あまりに日本画風な約束に触れすぎてゐる、その枝ぶりの描き方にどれだけ深淵な古来の日本画描法の理論をひきだしてきたとしても、現実的にはすでに近代人の感覚は、このきまりきつた枝ぶりをきつぱりと否定し去るだらう、木の形態の選び方に日本画としての規定があることは認めるが、それに反撥して、我々の気づかなかつた形の新しい発見を画家の努力的な紹介をしてほしいものだ。上にのびた枝が下にをりて、また上にあがつているといふ形の観方は、なるほど自然の方則ではあらうが、自然の法則を、絵画の法則として最初に取り入れた人は偉いが、いつまでも方法として固着させてをくことゝ闘はれていゝ筈である。
『鯰』は場中で出色のもので、鯰のヌラリと尾を静かにうごかして泳いでゐる描写は、この作者の特長的な細密描写の迫真性とはちがつた、線条の効果とは違つた、色彩と面のかけ合せの効果を示してゐた、『鯰』といふ奇形的な魚の個性に執着せず、自然にのびやかに観察してゐる点却つて観る者の自由な観賞に委ねて効果的である、前進してゐる鯰の鼻ツラの辺りに、水の衝突をかすかに描いてゐるのが、静中動ありの雰囲気がでゝゐる墨色の美しさは、新しいママ能といふよりも、桂月といふ人の年功を経たママ能として、また別種の新しさがある、この新しさは個展画中の淡彩物の、色彩にまたそれを発見することができる、墨一色から墨色の段階を発見することは、感覚的に可能であつても、いざそれを具体的、科学的に分解するといふことは容易ではない、淡彩では青とか赤とか黄とか色が分類されて現れてゐるために画家のもつてゐる感覚的分類もそこから容易に発見できる可能性をもつてゐる。
 桂月氏の淡彩のロマンチックな感じは決して、ナマなものではない、墨の写実性を超克した、そこを踏み越えてきた青の洗練された美、赤の洗練された美といつたものがある、それがロマンチックな色であるといふ意味で、非現実的であるのではなく、墨色の果せない立場を淡彩で果してゐるといふ意味で決して甘くはない、何時か雪舟の山岳画を見たことがあつたが、黒一色で描いた写実主義の精力的意慾的な態度は頭の下がるものがあつた、ところでこの黒一色の絵の極めて端の方にだけ雪舟は色を用ひてあつた、何故彼は黒一色で描き終ることをしないで、青とか赤とかをちよつと許り加へたかといふことを私は考へてみたが、墨許りで描いてゐるといふ生活の中に、墨で果せないものが最後に残されるのではないか、黒一色の追究といふものは、黒の世界といふ制約と、観念上ではその絶対化の過程を辿らなければならない、黒だけで幾千種の或は赤だけで幾万種の多数な、赤の段階をその画家が発見したとしても、他の色彩をひよいと使つてみるといふ本能が働くといふ時もあるだらう、雪舟が黒に少量の他の色を加へなければならなかつたといふことに、彼の人間的な本能と、敢てそれを実行してしまふ人間味と、同時に色彩の観念上の絶対化は必ず破れ去るものであるといふことを私はその時痛感したが、極彩色の日本画に対立的に、黒一色の日本画家といふ風に対立を絶対化さず[#「さず」はママ]、南画家であつても自由に色彩の分類的である意義を正しく理解して、自由に色を使つていゝのではないか、淡彩ではなく、時には極彩色の個所もあつてもいゝのではないかと思ふ。桂月氏の色彩が黒の他に他の色彩の魅力を黒同様にもつことができたといふ観者の立場からさういふのである。桂月氏の描写の執着的な態度には、現実を顕微鏡的に細かく見てゐるといふたくましさがあるが、一面細密描写即写実性であるといふ不自由な考へ方が解放されたところがある、細密描写が写真的描写に堕してゐるのが現在の日本画である、それを避けて新しい方向と写実主義を日本画に於いて確立するには、絵の部分に於ての細密描写が、その細かければ、細かい程綜合的な大きな量と面とを産み出さなければならないだらうといふ個所に問題の解決点がある、桂月氏は細密描写の追求に於てその意味で問題の作家と言へるだらう。
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