(四)
郊外になど住んでゐると、色々な物売が、女子供とみれば甘くみて、押つけがましく、恐喝らしく玄関先に品物を拡げ、買つてやらなければ何時までも立去らうとしないことが多い。
殊に私を憤怒させるものは、神仏の押売をする人達であつた。
性来神や仏といふものを嫌つてゐる私は、この神仏押売人の撃退策を、平素から妻に教へこんでゐた。
――妾のところには神棚もお仏壇もありませんので、お札を頂戴してお粗末になつてはかへつて勿体ないと思ひますので。
私はかう台詞を妻に教へこんであるのだ。
『天照皇太神宮』や『稲荷大明神』や『イヱスキリスト』などのお札売はチ※[#小書き片仮名ヱ、428-6]ッと忌ま/\しさうに舌打をして帰つてしまふのであつた。
二人のマルクス(私達夫婦はこの二人の青年をマルクスと呼んでゐた)
二人の青年が、私の家の玄関口を訪れたとき、妻は例の台詞でこのマルクスのお札売を追払つてしまはうとしたのであつたが、二人のマルクスは、一足飛に室の中に襲ひかゝつて来て、盛んにしやべり立たのであつた。
一人のマルクスは瘠せこけてゐた。いま一人は肥えてゐた。
肥えた方のマルクスの懐が妊婦のやうにふくらんでゐた。
肥えたマルクスは、懐中からそのふくれたものを取出て
――ぢやらん、ぢやらん、ぢやらん。
それはタンバリンであつたのだ。
しきりに鈴を鳴らし始ると、いま一人は古ぼけた皮の鞄の中からポスターを取出て、私の室中にその毒々しい極彩色の絵や統計の描かれたものをべた/″\貼はじめた。
――なんといふ遠慮のない人達でせうね。
さすがに妻は驚いた様子であつた。
彼等が帰ると、私も議論に疲れそして彼等のいつてゐることが、いかにも真理のやうに考へられて、瞬間興奮を感じた。
しかし彼等が、霰に頭を打たれて、暗いなかに立去つてしまふと何もかも馬鹿らしくなつてしまふのであつた。すべてが冷静に、憂鬱なもとの姿に還つてしまふ。
その翌日も、その翌日も、二人のマルクスは私の家をつゞけさまに襲つた。
そして火のように熱心な態度で私を説き伏せようとしたのであつた。
鴉、犬、牛、そして二人のマルクス。
私の静寂な家を訪ねるものはこれだけであつた。
凡太郎は、いつの間にか二人のマルクスにすつかり馴れてしまひ、抱かれて笑顔をみせたり、ついにマルクスの膝の上に小便をひつかけたりした。
――我々の聖なる父、マルクスは。
彼等は賑かに聖なる父の名を呼つゞけた。
凡太郎は円い眼をして、この若い来客の、議論の口元の動くのをじつと凝視してゐた。
足を踏み鳴らし、そして又もや霰に、頭を打たれながら、二人の客は、暗い中を帰つた。
マルクス主義が、我々夫婦の実生活にどんな役割を演じようとするのか、それは我々家庭にとつて『摺鉢』や『大根おろし』よりも不用な物。愚にもつかない信仰であるのだ。
私は不意に形容の出来ない笑ひがこみあげてきた、次に滑稽な不安が頭をもたげた。
凡太郎の次の言葉。突然凡太郎が『マルクス』などゝ叫びだしたなら、私達夫婦はどんなに吃驚するであらう。といふことであつた。
その時には、私は観念し、凡太郎を蜜柑箱に入て、河に流してやるばかりだ。
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泥鰌
(一)
夏に入つてから、私の暮しを、たいへん憂鬱なものにしたのは、南瓜畑であつた。
その葉は重く、次第に押寄せ、拡げられて、遂に私の家の玄関口にまで肉迫してきた、さながら青い葉の氾濫のやうに。
春の頃、見掛は、よぼ/″\としてゐる老人夫婦が、ひとつ、ひとつ、南瓜の種を、飛歩きをしながら捨るやうにして播いてゐた。
数年前まで、塵捨場であつたその辺は、見渡すほど広い空地になつてゐて、その黒い腐つた、土塊は肥料いらずであつた。
セルロイドの玩具や、硫酸の入つてゐた大きな壺や、ゴム長靴や肺病患者の敷用ひてゐたであらうと思はれる、さうたいして傷んでもゐない、茶色の覆ひ布の藁布団などに、老人夫婦は十日間程も熱心に鍬をいれてゐた。
鍬が塵埃の中の瀬戸物にふれると、それは爽かな響をたてた。
老人達の仕事を、書斎でじつと無心に眺めてゐる、私の感情をその瀬戸物にふれる音は、殊に朗かなものにした。
種ををろしてから、三月と経たないうちに、老人夫婦は、私の書斎からの、展望をまつたく、縁[#「縁」は「緑」の誤植か]色の葉で、さいぎり、奪つた。
夏の地球は、暖房装置の上にあるかのやうであつた、老人の播いた南瓜の種も、みごとに緑色の葉をしげらし、この執拗な植物は、赤味がゝつた黄色の花をひらいた。
その花を、たくましい腕のやうな蔓がひつ提て、あちこち気儘にはひ廻り、そして私達の住居を囲み、私達夫婦の『繊細な暮し』を脅かしはじめた。
この南瓜畑に、取囲まれながら私達は、結婚後三年の夏を迎へた。
妻は、シンガーミシンを踏むことが巧であつた、青丸には、いつもあたらしい布地に、美しい色糸でさ/″\ま[#「さ/″\ま」は「さま/″\」の誤植か]な図案の胸飾をした、涎掛を、つくつてゐる。
妻の愚鈍さに、二年程前からつく/″\愛憎を尽かしてゐるのであつたが、このミシンの巧さが、妻にとつては唯一の取柄といつたものであつた。
――ミシンを踏む彼女。
その時こそ、何時よりもまして聡明な場合の彼女であつた。
――おい、自分の指を感心に、縫はないな。
調子のよい響をたてゝ、ミシン台にゐる妻にかういふと、
――それほどに、馬鹿ぢやないわ
とチラリと軽くふり返つた。
だがこの聡明な仕事も、南瓜の花の真盛りのころから、ばつたりと止してしまつた。
炎天が幾日も、幾日もつゞいたその後に、今度は雨が幾日も、幾日もつゞくのであつた。
すると妻は、急に私にむかつて口小言をいひはじめた。
――ほころびがあつたら、早くいつて下すつたら、いゝぢやありませんか、出掛にばかりいはないでね。
――男が、どこが破れてゐるの、ほころびてゐるのと、いち/\注意してゐられないよ。そんな仕事が女の仕事ぢやないか。
妻は私の手から、着物をひつたくつて、その布地を歪ませながら針を運ばせ、不平さうな顔をするのであつた。
――まあ、こんな下駄の減らしやうて、ありませんわ、上手に減らすもんですよ。もつと平均にね、坂になつてるぢやありませんか。
玄関口に女は下駄を揃へながらかういふ。
私は内心、いま/\しく感じ、
――下駄を減らす男は純情さ。履物を気にして歩いてゐる男に、ろくな男がありはしないよ。
私はベッと地に唾をして外出するのであつた。
(二)
何処の家庭でも、夫婦喧嘩の材料といつたものは、さう眼あたらしいものが次々と、湧いてくるものでもないやうに、二人にとつてもその種は尽きた。
その種の尽きた時、どうしても争はねば、気が済まない場合には果ては食物の嗜好のことが、唯一の争ひの題材となつた。
――俺は酢の物は大嫌ひだと、あれ程いつもいつてゐるではないか。
――でも。
――何がでもだ。調味料として、我々の家庭には、酢は絶対に使つてはいかんよ。
私はホテルの支配人のやうに、肩をいからして、この料理人にむかつて命令をしたのであつた。妻は一瞬その眼をほがらかにして、
――でも酢の物を喰べると、骨が柔かになるといひますわ、
と答へるのであつた。そして妻は、支那人の曲芸をやる者は、酢を飲んでゐること、平素酸性の多い食物をとつてゐると、たしかに身体が柔かになり、したがつて女の容姿がよくなること。婦人は身嗜みとして、平常から食物の上にもこの位の細心な注意が要すること。などゝ急に雄弁になつて、彼女一流の理屈を述べたてた。
――蛇のやうに、醜悪な姿態をつくつて、街を歩いてゐる女をよく見かけるが、あれなどは酢を飲みすぎた女だな。
私は思はず苦笑して、妻の顔を見あげたのであつた。
晩飯には、彼女は、ないことに変つた調理で私の舌を喜ばした。
それは牛肉に胡椒を振かけたものであつたが、脂肪がすつかりぬけてしまつてゐて、サラ/\とした、淡白な味のものであつた。
精一杯に、その肉の料理をほめそやすと、彼女は、得意さうにその調理法を語るのであつた。
――いかにも、お前らしい、ふざけた料理法ぢやないか。
私は、呆れ果てゝ、その皿の上にのつた肉の数片を眺め見た。
肉を何時間となく気永に脂肪のぬけきるまで、煮沸したものだといふ。
精分の多い煮汁はみな捨てゝしまひ、肉の煮出し殻を皿に盛つたものだ、かうした些細な食膳の変化にも感激するほどに、妻の献立表は、毎日のやうに単調を極めてゐたのであつた。
食後、私は何かしら彼女と青丸との心を浮き立たせなければ、申訳のないやうな気持になつた。
晩酌の酔ひも手伝つて、私は着物をぬぎ捨て、猿股ひとつになつて、青丸の前に、ワンワンと犬のほえる真似をして、座敷中を四ツんばいになつて駈廻つた。
――さあ、今度は狼だ。
うなり声をたて、坐つてゐる青丸の頭上を、幾度も跳躍した。
青丸は上機嫌で、声を立てゝ可愛らしく笑つた。
妻はたいして愉快でもないらしく、折々青丸に調子を合せて、苦笑するにすぎなかつた。
――今度はロシア舞踊だ、ニジンスキイもはだしの旋律舞踊だ。
青丸にむかつて、かういつて踊りだしたが、小さい青丸は私の舞踊のよさは到底理解出来ないので、私は実は彼女にむかつての公開であつたのだ。
踊りながら、猿股のひもを引くと、猿股は波を辷る漁船かなにかのやうに、冷たい触感で落、まつたくの素裸となつた。腹部のあたりに、白々とした寒い風がまとはりついた。
三年前の彼女であれば、男の素裸を見て、驚死したかも知れないが、現在の彼女にとつては、大してその気持を引きたゝせることでもなかつた。
妻はにこりともしなかつたので、私は羞恥に似たものを感じ、大いそぎで、猿股をはき、浴衣を着てその物静かな舞踊をよした。
(三)
二人の生活には、弾力のないゴムのやうな、救ひのない一条の脈がつらぬかれてゐるやうに思はれた。
女もまた、救ひのない脈を、内心深く感じ、これを怖れてゐるらしく、青丸のよだれかけに赤三角に黒い縁取りの衣匠を、念入りに縫ひ取つたものを作つてやつたり思ひがけない、かはつた美しい草花を、私の汚れた机の上の、花瓶に、不意に
してをいたり、電燈の球をふいて(彼女が球をふくなどゝいふことは、実に稀であつた)急に室内を明かるくしたりして二人の感情を朗らかに、更新させようとする、色々の苦心も、まざ/″\と感じられた。
だが私は、外出から帰り、青丸の新調のよだれ掛けをほめる前に
――青丸の額の、禿あがり具合まで、俺にそつくりぢやないか。
と、まずしひて、不機嫌に憂鬱な眼となつてから、青丸のよだれ掛けを賞めた。
あやしい老人の精気の凝つた、南瓜畑は、日中の晴天のもとに、その翼のやうに、重い大きな葉をひろげた。
――若さの奪略のために、植た南瓜畑だ。
と、この茂みのどこかで私にむかつて語つてゐるやうな、幻想にも陥つた。
――少し神経衰弱の気味ではないだらうか。
私は心にかうつぶやき、白地の浴衣に着替へ、することもなしに机の前に、気むつかしい気持ちで坐つた、青丸と妻とを、その前にすゑて、理由のないことを、長々としやべりたてゝも見たい惨忍な気持ちになつた。
家根に巣をつくつてゐた、雀の子が、ある朝、天井裏に迷ひ落、チイ/\悲鳴をあげて、天井板をあるき廻つた、私はその逃げ場をつくつてやるために、天井板を一枚はづしてをいたが、雀の子は明かるみを発見して、果してそこからパッと室内に舞をりた。
――すつかり、障子をしめきらなければ逃げてしまふぞ。
――茶箪笥のかげに入りましたね、こつちの方に顔を出しましたよ。
この出来事のために、私達は騒ぎ立て、バタ/″\逃げまはる雀の子を室中をひ廻し、妻もまた近頃にない、朗かに晴れた顔をした。
捕へた雀の子の足に、もみの布をゆはひつけて放してやつたが翌朝歯を磨いてゐた妻が、不意に頓狂な声をたてた。
窓際の柵の上に、前日捕へた雀の子が、もみの布を、ぶら/″\さげてとまりしきりにあちこち見まはしてゐたからだ。
――あんなものを、足に着けてゐては窮屈だらうな。
私もかういつて妻と声を合せその雀の様子がおかしいといつて笑つた。不意に私達の暮しの背後から、又は横合からでも、思ひがけない処から思ひがけない物が、飛び出してくると、必ず私達の生活が晴々と、あかるくなるに違ひないことを私は確信した。私はこれを私達の『奇蹟』と名づけた。
ぼんやりと、その奇蹟を待ちうける気持ちは、私達夫婦にとつては、ずいぶん久しいものであつた。だがその霧のやうな捕へどころのないものは、大股に、また小きざみに、私達の知らぬ間に住まゐの傍を通りすぎてゐるかのやうに思はれた。
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