(三)
俺の馬のやうな彼女も、俺の処に転がり込んで来た当時は、細い首をして、青く透いてみえる顔をしてゐた。
――体の何処かに、疾患を持つてゐる方は、豚や牛のやうに、健康な人たちとはちがつた鋭敏な感覚と、叡智とをもつてゐるものですね。
『俺は今考へると腹が立つ程当時彼女に丁寧にものをいつてゐたのであつた』
すると女はごほん/″\と咳をした。そして胸の辺をおさへ情趣に富んだ表情をした。
ところが彼女の病気は、美しくなるどころか、日増しに悪化し、次第に顔が狐のやうに尖り、皮膚の色沢もなくなり額のところの毛が脱けてきた。
或る日、飛んでもないことをいひ出した。
――貴方。妾お寿司にサイダアをかけて喰べて見たいの。
それ以来彼女の舌は天才的になり、味覚は敏感となつた。
俺はフランスの美食家、プリヤサブアランのことをおもひだした。それは彼女もフランスの美食家に負けをとらない、珍奇な喰べ物を探しだしたからであつた。
『鶉の油で、はうれん草を揚げたもの』や『極く新鮮なカキのあとに喰べるものは、串で焼いた腎臓と、トリュッフを附けたフォア、グラと、それからチーズとバタとを溶いた香料と桜酒で味をつけた』などゝ注文をいひだし兼ねなかつたが、幸彼女は飢ゑたやうにがつがつと歯を鳴らして、夏蜜柑に砂糖をかけたのを、一日に七ツも八ツも貪り喰ひ無性にうれしがつてゐた。
俺は幸にも手籠を提てパリーの公設市場まで、買ひだしに行かなくてもよくて済んだのであつた。
それから間もなく欺されてゐることを知つた。
肺病などゝいふ上品な、はいからな病気でもなんでもなかつた。彼女は妊娠をしてゐたのであつた。
精一杯な我儘を始めた。
殴りつけようとすると、女は素早く拳骨の下に、腹を突きだした、かうすると俺が殴れないことを、ちやんと知つてゐた。
当時俺たちは極度の貧乏をしてゐたのだが、彼女は不経済にも喰べた物を片つ端しから盛んに吐きだした、そして吐き気が二ヶ月もつゞいたのであつた。
――殴るなら殴つてご覧、吐くものがなんにも無いんだから、血を吐いて見せますから。
事実血を吐かうとおもへば、吐けるらしかつた。
女の感情は、毎日猫の瞳のやうに変つた。
女などゝいふものは理由なしによく泣くものではあるが、この数ヶ月間は殊に理由なしに泣つゞけた。
この妊娠の期間、俺は彼女に馬車馬のやうに虐使された。
胎児と彼女の臍とは、長い管のやうなものでつながつてゐて、高いところに、彼女が手を挙げるやうなことがあると、ばちんと音がして、臍の緒が切断され、腹の中の赤ん坊は死んでしまふと、彼女は脅かしたのであつた。
俺は仕かたなく棚から摺鉢や片口などの重いものを、をろしてやつたり、漬物石をとつてやつたりしなければならなかつた。
重い物は男たちが持つてやらなければならないなどといふ家憲のある家庭もあるさうだが、俺はそんなことはきらひだ、殊に幸なことには彼女は俺より大力であつたから。
しかし妊娠してから女は急に力が抜けてしまつたのだ。
(四)
腹の中の子供に、聖書を読んできかしたり、ベートーベンの交響楽を弾いてやつたりする、馬鹿気た教育法がある。
これを胎教とかいふさうだ。
神様の存在をも信じられないやうな俺が、どうしてこんな電信柱に説教をする様な愚にもつかない実験を信じることができ様か。
それまではてんで鼻汁もひつかけなかつた、この教育法を、その頃から妙に真理の様にも考へさせられだした。
――ずいぶん、お飯を喰ふぢやないか、
彼女は楽隊にはやし立てられてゐるかの様に、調子に乗つて何杯も何杯も、お替りをして喰べた。
――でも赤ん坊と二人分喰べるんですもの。
と嬉しさうに答へた。
成程、彼女と胎児とは、同じ血脈に結びつけられ、同じ呼吸に生きてゐるものに相違ない、彼女が怒れば腹の子も怒り、悲しめば胎児もともに、悲しむものであるらしい。
そこで俺は彼女を、興奮させる様なことのない様に心掛た。台所の雑巾がけをしたり、水汲みをしたり惨めな下僕となつた。
決して彼女の機嫌を伺つたり、血を吐くと脅喝されたので、それを怖れたからではない、やがて出産するであらう『我等の仲間』のために敬意を表したのである。
或る日、まつ青な顔になつて彼女は室中を歩き
――亀の子たはし、の様な刺の生へた球が、お腹の中を駈廻る、きつと子宮外妊娠に違ひないと思ふわ。
と泣わめいた。
しかしこれは嘘の皮であつた。何ごとかの前兆であつたのだ。
その後数十日経ち彼女は『我等の仲間』を、ろく/\陣痛もせず馬よりも容易に分娩したのであつた。
いまでは全く健康体となつた、皮膚は頑丈で、反撥力に富み何程殴つても傷つくことがない、赤児もすく/\と生長した。
健康が恢復するとともに彼女は日増に嘘をいひだした。
しかも彼女は、プロレタリア精神の欠けた、もつとも恥づべき大それた陰謀を企てゝゐた。
『料理と色彩』『料理と立体感』『料理と感覚』等の料理の絵画的方面を主題とした争ひ、のあつた日の出来ごとであつた。
またキャベツの味噌汁を三日続けて喰はしたことに端を発し、二人は獣のやうに罵り合つた。
俺は不意に彼女を襲つた。
彼女は泣そしてすべてを理解した。
――食物の調理などを、そんなに単純に考へてゐるのか、我々の生活に重大なものを、よく考へて御覧、同じ大根でもこんな無態な切様があるか、豚だつてもつと食物に敏感さはあるよ。
――貴様はふたこと目には、金を掛ればといふが、金をかけて美味いものをつくりあげるのは誰でも出来るんだ。栄養価値の問題ぢやない、美の問題だ。
彼女は実際口に入れることが出来るものは、何でも嚥み下すことが出来るもの位に単純に考へてゐるらしかつた、だまつてゐれば革帯でも切つてお汁の実に入れ兼ねない女であつた。
そこで俺は味覚心理学を、約三十分間程も長講し、飯を炊くことの下手な女は愚鈍な女であるといふ結論で小言を結んだ。
(五)
彼女は恭しくひれ伏して謹聴した。俺はその場の不快な、焦々とした空気を一刻も早く脱れようとしたのであつた。
――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金をだせ。
二人の生活には十日も以前から一銭の小遣ひ金もなくなつてゐた。で俺はその無理難題であることをちやんと知つてゐた。
――そんなことを仰言つても、四五日もお風呂に行かれないことを貴方も知つてゐる癖に。
――風呂位、一年行かなくても死ぬものか、文句をいふな、ぐづぐづして見ろ。
勝ち誇つてゐたので、畳かけて惨忍な言葉を、頭上から浴びせかけ、またもや拳骨を喰らはしたのである。
ところが俺が予期してゐないのに、すつくと立ちあがり、彼女は勝手元から踏み台を持ちだし、その踏み台を、石版刷りの西洋名画の額のある高い壁の下に据た。
彼女は泣ながら、そしてごそごそいはしながら、額の後の手探りを始めた。
――なにを探してゐるんだ、汚いぢやないか。
ぱつと埃が舞ひ上つた、彼女は隠してをいた品物を発見した。
堅く丸いもので、白木綿で包まれたものだ、中からは新聞紙包みが出て来た。
なんといふ念入りなことであらう、その新聞の中には、青い活動写真の広告紙があり、その紙の中から最後に、塵紙で包んだ五十銭銀貨が一枚飛びだした。
――貯金するなんて、汚い根性をだしたら承知しないぞ。
俺は一喝して、五十銭玉を彼女の手からひつたくると、ぱつと戸外に出た。
街には夕暮の沈んだ空気が漂つてゐた。俺は洋食店に飛び込んで大コップ五杯のビールを飲み充分に酔ふことができた。
――たとい五十銭銀貨一枚にしろ我々階級にとつて、貯蓄するとは大きな、陰謀でなくてなんであらう。
――私有財産を認めず。
――彼女は詐欺師、しかし偉いぞ俺は全く泥酔したり悪罵したりまた無性にうれしがつたりした。
その後ある日、
電燈の笠を拭いてをかなかつたことから俺は再び暴力をふるつた。
――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金、をだせ。
すると彼女は、めそめそ泣ながら、押入れの上の段に泥棒犬のやうによつ這ひになつて入り込んだ。
押入の天井板は、移転して来た当時、電燈の取り付けにきた電燈屋が、天井板をはづしつ放しにして帰つたが、この暗い所に手を突込んでゐたが、そこから小さな五十銭銀貨一枚を包んだ紙包を取りだした。
まるでお伽話しではないか。
その隠し場所の思ひつきのすぐれてゐることには、俺も彼女に敬意を表した。
粉おしろいの粉の中に隠されてあつたり、無造作に紙に包んで糸巻き代用にしてゐたりしたので、彼女の留守に家中を探したことがあつたが容易に発見されなかつた。
以前にも増て殴ることに興味を覚えだした。
――しかし自重しなければならないぞ、一撃が五十銭を生むのだ。
俺は殴ることを自重した、しかし彼女の貯へは長くつゞかなかつた。其後彼女は泣くばかりで遂に立ちあがらなかつた。
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裸婦
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