或る夫婦牛(めをとうし)の話
……私の書斎に、遠くの村祭の、陽気な太鼓の音がきこえてきましたが、昨日からばつたりと、その音が鳴り止(や)んでしまひました。
……この破れた太鼓のお話をしようと思ひます。
*
――爺さんや、わしは今夜はたいへん胸騒ぎがしてならないよ。急にお前さんと、引き離されてしまふやうな、気がしてならないな。
――ああ、婆(ばあ)さんや、わしも胸が、どきん、どきんするよ、きつと明日(あした)は、何か悪るい出来事があるに違ひないな。
爺さん牛と、婆さん牛とは、小さな牛小舎の中に、こんなことを、しやべりあつてゐました、はては気の弱い婆さん牛は、声をあげて泣きだしました。
爺さん牛も、婆さん牛が、泣くので、つい悲しくなつて、大きな声でいつしよに、泣きました。
――婆さんや、お前は何が悲しくて泣くんだい。
――爺さんよ、わしもわからないが、かなしくなるんだよ。
婆さん牛は、小舎の乾藁(ほしわら)に、眼をすりつけて、わいわい言つて泣きました。
すると小舎の戸があいて、飼主が手に蝋燭をもつて入つてきました、そして大きな声で――こん畜生奴、何を喧ましく、揃つて泣きやがるんだい、おれらは明日の仕事もあるんだから、静かにして寝ろよ。
飼主は、かう言つてどなりました。
牛達はそこで、自分達は、何か夜が明けると、悲しい出来事が、身に降りかかつて来るやうな気がして、ならないから泣くのです。と飼主に訴へますと、飼主も急に悲しさうな顔になつて
――お前達は、可哀さうだが、夜があけると屠殺場(とさつば)におくつてしまふのだ。
と言ひました。そして特別に柔らかい草を、どつさり抱へてきて、夫婦牛(めをとうし)にやりましたが、牛はさつぱり嬉しくはありませんでした。
――御主人さま、屠殺場といふのはなにをする処でございませう。
――そこは、お前達を、殺(や)つつけてしまふ場所だよ。
――殺(や)つつけるといふことは、どんなことでございませう。
――殺(や)つつけるといふのは、お前達を殺(ころ)してしまふことだよ。
――殺すといふことは、どんなことでございませう。
――さうだな殺すといふことは、死んでしまふことだな。
――死ぬといふことは、どうなることでございませう。
――どうもわからないな、実はな、わしもよく、その死ぬといふことがわからないが、まだいつぺんも死んで見た事がないんでな。
飼主も、かう言つて、小舎の横木に頬杖をして思案をしました。
――まあ、たとへばお前達を、その屠殺場といふ、街端(まちはづ)れの黒い建物の中にひつぱり込んで、額を金槌でぽかりと殴りつけるのだ、すると額からは、血といふ赤いものが流れだして。
すると爺さん牛は、横合から頓狂な声をだして、
――旦那さま。すると旦那さまが、毎朝わし達を牧場に追ひだすときのやうに、鞭で尻つぺたを、殴りつける時のやうにして、
――あんな、生ぬるいもんぢやないよ、力まかせに、精一杯にな、殴りつけるんだ、お前たちが、大きな地響して、ひつくり返つてしまふほどに殴るのさ。
――あ、わかつた、死ぬといふのは、そのひつくり返る事だな。
――ああ、違ひない、そのひつくり返ることだよ。
飼主は、かう言つて逃げるやうにしてどんどん行つてしまひました。
――爺さん、わしは妙に、そのひつくり返ることが嫌になつた、どんな具合に、ひつくり返るんだらう。
――婆さん、わからんな、これまでにも、わしは石につまづいて、なんべんも転んだことがあるんだが。
――こんどのは、あんなもんぢやないんだよきつと、すばらしく大きな音がするんだよ。
爺さんと婆さんは、そこで牛小舎に、大きな音をたてて、かはるがはる、ひつくり返つて見ましたが、死ぬといふことが、わからないうちに、だんだん東の方が白(しら)んでまゐりました。
*
翌朝、早くから二頭の夫婦牛は、小舎から引き出されて、飼主に曳いてゆかれました。
――旦那さま、わし達は、その死ぬといふことが、嫌になりました。
夫婦牛は、足をふんばつて、屠殺場へ行く途中、さんざん駄々をこねて、飼主をたいへん困らせましたが、飼主はいつもより、太い鞭を、ちやんと用意して来てゐて、ぴしぴし続けさまに、尻を打ちましたので、牛は泣く泣く屠殺場へ行かなければなりませんでした。
――かーん。と大きな響がして、その響が秋の空いつぱいに、拡がつたと思ふと、額を金槌で殴られた婆さん牛は、お日様の光をまぶしさうに、二三度頭を左右に振つたと思ふと、大きな地響をして、地面に倒れました。
倒れた婆さん牛は、太い繩のついた、滑り車で吊りあげられましたが、
――やあ婆さん、綺麗な衣装を着たなあ。
と遠くに見てゐた、爺さん牛が、思はず感嘆をしたほどに、婆さん牛の姿は変つてゐました。それは美しい真赤な着物を着てゐました。
その赤い衣装は、ぽたぽたと音して、地面にしたたり、地面に吸はれました。
屠殺場の男が、白い刃物を光らして、婆さん牛の、その赤い衣装をはぎだしましたが、ちやうど官女の十二単衣(ひとえ)のやうに、何枚も何枚も、赤い着物を重ねてゐました。
――婆さんは、いつの間に、赤い下着をあんなに多くさん着こんでゐたんだらう。
爺さん牛は、これを見て急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひだしました。
*
次は爺さん牛の、ひつくり返る番がまゐりましたが、爺さん牛は、なにか知ら体中が急に寒気がしてきて、ひつくり返ることがたいへん嫌なことに思ひましたから、どんどんと逃げだしました。
――やあ、牛が逃げだした。
飼主が、大変驚ろいて、叫びながら後を追ひかけてきましたが、爺さん牛は腹をたてて
――お前さんは、わしの婆さん牛の手足を、材木を片づけるやうにして、何処へ隠してしまつたかい。
と爺さん牛は、飼主の背中を、ひとつ蹴飛しました、すると飼主は、『ぎやあ』と蛙の鳴くやうな声をだして、其の場にひつくり返つてしまひました。飼主は何時(いつ)までたつても、起きあがらうとせず、ぴくりとも身動きをしないので、爺さん牛は、これを見て、急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひ出しました。
*
――なあ、婆さんや、お前はわしの右足の不自由なことを、百も承知のくせに、わしの身のまはりの世話もしてくれずに、どこを飛び廻つてゐたのかい、この浮気婆奴が。
――なあ、何処(どこ)まで、お前は出掛けたのさ、赤い綺麗な上着も、どこかに忘れてきて
――お前は、急に小さくなつたなあ、こんな吹きざらしの河原で、ひとり何を考へてゐたのさ。なあ婆さんや。
爺さん牛は、かういひながら、くり返しくり返し、河原の石ころの上に、頭ばかりとなつて捨てられてあつた、婆さん牛にむかつて色々のことを質問をしましたが、婆さん牛は、だまりきつてゐて返事をしませんので、爺さん牛は、さびしく思ひました。
爺さん牛は、お婆さん牛が、よほど遠方に旅行してきて、言葉も忘れてしまひ、手足もすりへつて、無くなつてしまつた程に、歩るき廻つてきたのだと思ひました。
そして、その婆さんの、白い一塊(ひとかたまり)の石のやうになつた頭を、蹴つて見ますと
――カアーン。カアーン。
とそれは澄みきつた音が、秋の空にひびきましたので、二三度続けさまに蹴つて見ますと、今度は急に吃驚(びつくり)する程、醜い不快な音をたてて、婆さん牛の頭は、粉々に砕けてしまひましたので、爺さん牛はお可笑くなつて笑ひだしました。
遠くから、たくさんの人々が口々に、
――人殺し牛を発見(みつけ)た。捕まへろ。
と叫んで爺さん牛の方に、走つてきました、中には鉄砲をもつた人も居りました。
牛はさんざん暴れ廻つて、逃げようとしましたが、とうとう捕まつて、この爺さん牛も、婆さん牛と同じやうに、黒い屠殺場の建物の中で、額を力まかせに金槌で殴りつけられて、ひつくり返されてしまひました。
*
――婆さんや、おや、婆さんや、お前はこんな処に居たのかい、わしはどれ程お前を、うらんでゐたかしれないよ。
――まあ、まあ、爺さん、わしもどれほど逢ひたかつたかしれないよ。
爺さん牛と、婆さん牛は、思ひがけない、めぐりあひに、抱き合つて嬉しなきに泣きました。
――どどん、どん。
――どどんが、どんどん。
赤いお祭り提灯が、ぶらぶら風にゆれ、紅白のだんだら幕の張り廻された杉の森の中では、いま村祭の賑はひの最中でした。
爺さん牛、婆さん牛は、その祭の社殿に、それは大きな大きな太鼓となつて、張られてゐたのです。
村の若衆が、いりかはり、たちかはりこの太鼓を、それは上手に敲きました。
――婆さん、わし達はこんな幸福に逢つたことはないなあ。
――わしは、あの丸い棒がからだに触れると急に陽気になつて、歌ひだしたくなる。
――お前とは、いつもかうして離れることがないし。
――あたりは賑やかだしなあ。わし達の若い時代が、いつぺんに戻つて来たやうだ。さあ婆さん、いつしよに歌つた、歌つた。
――どどん、どん。
――どどんが、どんどん。
夫婦牛の太鼓は、七日の村祭に、それは幸福に鳴りつづきました。
お祭りの最後の七日目の事でした。
ひと雨降つて晴れたと思ふまに、凄まじい大きな、ちやうど獣の咆えるやうな、風鳴りがしました。
すると森の木の葉がいつぺんに散つてしまつたのです。
――やあ、風船玉があがる。
――やあ、大風だ、大風だ。
子供達が手をうつて空を仰ぎました。
風船屋が、慌てて風船を捕まへようとしましたが、糸の切れた赤い数十のゴム風船は、ぐんぐんぐん空高く舞ひ上りました。
陽気に鳴り響いてゐた、夫婦牛の太鼓が急に、大きな音をたてて、破れてしまひました。
――爺さん。わしは急に声が出なくなつた。
――うむ、わしも呼吸(いき)が苦しくなつてきた、ものも言へなくなつてきたよ。
――爺さん、またわし達の、ひつくり返るときが、きつとやつて来たのだよ。
――ああ、さうにちがひない、体が寒むくなつてきたな、婆さん。
――では、またわし達は、別れなければならないのかい。
――さうだよ、ひつくり返るのだよ、婆さんまた何処かで、逢へるだらうから、さうめそめそ泣きだすもんぢやないよ。
一陣の寒い、冷たい風が、太鼓の破れを吹きすぎました。(昭2・3愛国婦人)
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