糸繰りの歌
たまらなく私の胸を親切に掻きたてゝくれる
私の祖国日本よ
これ以上私はお前に
親切にしてもらふことは堪へられない
もし私の母親のお腹が
五人の兄弟を一度に生んだのなら
一人を日本へ
一人をフランスへ
一人をスペインへ
一人を支那へ
一人をロシヤへ
みんな離れ離れに旅立つてしまつたであらう
でも幸ひなことに私は一人息子であつた
私の日本は私を優しく
横向けに、ときには
さかさまに抱いてくれる
そして私は無事に大人になつた
貧乏をする自由も
女に恋することも覚えた
留置場の見学団にも加はれば
鞭でうたれると私の尻が
鶯のやうに鳴くことも発見した
暁はくりかへされた
見聞はひろまつた
夜がやつてきた
売娼婦が私を抱へた
おゝ、祖国の運命よ、いつまでも
気狂ひじみないでくれ
新聞売子の鈴の前で
私を飛びあがらさないでくれ
のべつにさう熱いアスファルトを
舗道に流さないでくれ
私の心の底はあつても
靴の底はないのだから
私の父と、私の母と、私の祖国のために
私は祈らう、十字を切らう
私の運命はしづかに糸を
くるやうにほどけてゐる
愛する人が一方でそれを巻いてゐる
祖国よ、お前の糸も動いてゐる
誰が巻いてゐるのか
フランスかドイツか
オーストラリヤか
それは悲しいことだ
祖国よ、かつてお前が土の上に
うみおとしたお前の子である
私に巻かしてくれ
私はいま心から
親切に酬いようと思ふ
それは決してお前の糸を
まつ白のまゝではおかないだらう
私はほんとうに美しく彩つてあげようから。
日本的精神
今更 日本的精神とは何か――、と
僕は疑ふほど、非国民ではない、
常識的な議論のテーマを持ちだして
彼等は日本人を強調する、
少くとも議論に加はつてゐない人が
非国民であるかのやうに――、
狡猾な無邪気さで、
この可哀さうな子供は
一番真先に非国民であると
いはれることを怖ろしがつて泣きだした、
その泣き方の中でソロバンを弾く、
どれだけ泣きすぎて、
どれだけお釣りが自分の手元に残るか、
彼はちやんと知つてゐるのだ、
片眼だけ泣いて
片眼はじつと父親の顔色をうかがつてゐる
日本精神を強調する点では
彼の父親は彼を叱らないことを
狡猾な子供はよく知つてゐる、
言ひ過ぎたとき、たしなめてくれる
良い父親をもつてゐる、
さあ、日本精神を勉強なさい、
ピアノは買ふことができた
でもいまは歌を弾くどころか
ピアノを調律する方が忙がしい、
日本精神のドレミファから始めて
この深い洞穴から
どんなに進歩的な良い音が出るか聴きたいものだ、
青年達は古い日本の夢さへ
見る力を失つた
新しい現実主義者になつた
彼等だけが白髪を殖やすために
古い日本の夢を見ようとする
万葉精神は遠いといふよりも
カユイところにある、
明治精神は近いといふよりも
痛いところだ、
そして現代は、カユクテ痛くて
くすぐつたくて何とも言へない、
いまさら万葉時代や、明治時代へまで
現代の精神に水を割りに
出かける必要もない、
現実の痛さを知らぬものだけが
理由を附して復古主義を復活させる
自分で脇の下をくすぐつて
一人で猿のやうに
日本主義を騒いでゐる
腹の空かない連中だけが
日本精神といふ茶碗を論じてゐる
飯の必要なものにとつては
容器は問題ではない、
諸君も日本的とは何か――と
疑ふほど非国民であつてはいけない、
日本の土の上でオギァと鳴いたものは
みんな日本的だ――。
一九三八年
坊主の頭の上を
はだしで歩くやうな
気持の悪い日がつづくのだらう、
街には白い光沢のある布に
黒い太い文字を書いた旗がならび
情熱をさらけだして
誠意をもつて汽車の窓を追ふ群
叫びはつゞき酔の中で国家を思ふ、
もし私が肺が悪いのでなければ
一九三八年度はどんなに
すべての出来事を
片つ端から呼吸しつくす
ズックの袋のやうな大きな肺をもちだすのに
いまはそれができない
連続的な叫びは
いつ絶えるとも知れない
出来事のために
底の知れない情熱を
人々に割り当てる
心の病人にとつても肉体の患者にとつても
喧騒によつて全く安静は破られて
脅迫的な泥酔漢の
音頭取りに従はねばならない
ほこりをまひ立てて街をゆくものは
鉄の車と褐色の箱車
すべての民衆は黙々として
坊主の頭をはだしで渡りあるくやうな
不快な危なつかしさで街をゆく
おゝ、お前一九三八年よ
意地の悪いコヨミの早さで
もう二三枚でお前も忙がしく去つてゆくのか、
もうお前とも逢ふことができない
悲劇で満たされたお前は
ふたたび次の歳に悲劇を渡すか
それとも喜劇を渡すか
私はそれがせめてもの想像の喜びだ
情死
真実を最後のところまで押してゆかう
海の上の高い崖際まで
下ではどうどうと波が岩をうつてゐる
そこから下をみおろして泣かう、
女よ、
真実よ、
お前を先に突落して
逃げかへるやうな
私は薄情な男ではない
人生とは
その日、その日の、
情死の連続のやうなものさ、
あの男は生活と抱きあつてゐるし、
あそこでは芸術と抱きあつてゐる、
こつちでは味方と抱きあつてゐれば
あつちでは敵と組みあつてゐる、
私はプロレタリアに心から惚れた
どこまでもお前と抱きあつて離れない。
寸感
笑へ 女よ
お腹の中の打楽器をうち鳴らせ
若き日の楽譜は
ケラケラと歌ふ
若き日のお腹の中の打楽器は
やがてオギャ、オギャと
鳴るであらう
学生の頭の問題
――ちかごろの学生は頭が悪いとか、
――髪が長すぎる刈つてしまへとか、
昔から学生の頭は
為政者の問題の中心になる、
それほど学生の頭は政治に尊重されてゐる
ふたこと目には、学生の頭、頭だ
しかし学生の頭を論ずる者があつても
学生の靴下の穴を論ずる者はゐない、
まず政策の手始めはいつも学生層から
それから漸次、国民の総員に及ぶ、
命令により、髪を斬り、鼻毛をぬきとり
マツゲを焼いた国民が生れさうだ
たゞし収税吏だけはザンギリでは
先方に子供扱ひされると
斬髪令から除外される
思想は頭の中に宿る露のことだ
青年の髪は若い木の苗だ
山の樹はいたづらに乱伐するなかれ
よろしく慎重たるべし。
朝の歌
この朝の瞬間の
新鮮な場所で
神よ たすけ給へ
ニコライ・インテリゲンチャ氏や
イワン・インテリゲンチャ氏が
大きな口をあけて
ロレツの廻らぬ苦しみの
夜通し吸つたメタン瓦斯を吐いてゐる
この清らかな朝を
汚れた智慧のアクビを連発し
定職もなく
労働もなく街にコーヒーを飲みにゆく
ぐうたらな生活を
神よ、ゆるし給へ、
無責任な言葉と
文字をもてあそぶこと
人後におちず
街の悪い溜りで
芸術と人生を論じて尽きず
ものうく手元に引きよせた
朝刊新聞に
「午前零時
西部防衛司令部発表
最近
蒋軍閥は我が国土の空襲を
企図しあるが如し」と
あゝ、驚ろくべし 永生きすれば悔多し
空の不安を満喫する
夕焼色の雲の断片
或るとき私はたくさんの血を吐いた、
意地の悪い悪魔が
肉体の中にかくれてゐて
私に生命の自覚を与へようとするかのやうに――、
べつべつと唾をするたびに
いつまでも執念ぶかく血がとびだした、
すると私はそのとき驚ろきもしない
悪魔よりも一層意地悪になつて
悪魔よりも一層執念ぶかく
いつまでも赤い唾を吐いてゐた、
私はそのとき位幸福を味つたことがない
――すべてが運命通りにやつてきた
さう思ふと運命といふものは
空間の中をもつともリズミカルに
踊つてすぎる『時』といふものだと考へついた、
それから心も体も調子づき
友達にも愛そが良くなり、
自分もたまらなく可愛くなつた、
それからはポケットに三枚も
ハンカチを用意して外出するほど
用心ぶかくもなつた
染物屋のかめのやうなものが私の体の中にある
いつ私がハンカチを染めるかわからない
私はおどろかないが
他人を驚ろかさないやうにするためには
あんまり体をゆすつたり駈けたりできない、
心の中から宿命的なものが
みんな逃げだしてしまつた
まもなく病気を忘れることに成功して
ハンカチも忘れて外出した
味方はもう沢山だ、
生きてゐる間にむしやぶりつく
敵を発見することに熱心になりだした
心をうちつけたところで
無数な鈴が鳴るやうに思ふのは
味方のためには銀の音
敵にとつては狼の歯の音、
私は生きてゐる自覚を
悪魔から与へたことを奴に感謝しよう、
をえつもなくすぎた人生ではなかつた、
悲哀もとほりすぎたやうだ、
のこされたものは何もない
ただ吐きだす唾だけとなつた、
しかも生命の自覚にこゝろをどる
それは小さな無数の夕焼け色をした雲の断片のやうなものだ、
生命、愛、貧困、闘ひ、
あゝ、私のためのものはすべて終つたやうだ、
いまは強く唾を吐き
良き敵を求めることだけとなつた
(一三、一一、八夜)
作家トコロテン氏に贈る
思ひあがつた血走つた眼で
みるみるうちに人生の疑ひを解きほどし
いとも見事に書きあげた詩や小説
なんと嘔吐する程の数で
糞尿のやうに嫌悪されつつ
世間の中に撒きちらされてゐることか
これらの書きものの氾濫は
一層国民の気持をコジらして
手で書かれた言葉が口から吐かれる言葉よりも
価値もなく軽蔑されてしまふのだ
国民を文学の恐怖症に陥らせる者よ
お前、すでに去勢されたものよ
何の主張する意志をもたないものが
何かを主張しようとする
空しい努力を払ふもの
その名を文筆家と呼び作家と称す
お前の心の中のグウタラな慾望が
暴君のやうに他人に
人生の物語りを注ぎこまふとする
水にうすめられた牛乳よりも
もつと何の営養ともならないものを
吐瀉するやうに書きなぐり
読者の心を下痢させるために供給する
つぎはぎだらけの貧民の夜具に
眠る勇気ももたないくせに
いつぱしはつきりとした自分の
座つてゐる階級的場所を知つてゐるかのやうな
デレリとした思想のぬき衣紋で
観客ばかり気にしてゐる興業師のやうな根性で
読者の数を気にしながら通俗な小説を書く
物語りの中にお座なりの進歩的分子を
ちらりと顔をださせる常套手段
この自分で書いた作中人物の
批判にさへ到底堪へられさうもないやうな
哀れな成り上り根性の神経質さで
そつと作中人物を出したり引つこめたりする
箱詰めにして花嫁を送る
惨酷な犯人の一人に加担して
得々として犯跡をくらますために
自分で犯人になつたり弁護士になる自由を
書いてゐる文章の中で見事にやつてのける
おゝお前、砂のまじつたトコロテンのやうな
味もそつけもない散文をつきだすものよ。
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