新版・小熊秀雄全集第3巻 |
創樹社 |
1991(平成3)年2月10日 |
序
僕が詩の仕事の上で、抒情詩の製作に許り、執着してゐないで、長い形式の叙事詩をも手掛け今後もそれを続けてゆかうとする気持には、色々の理由があります。
その一つの理由に挙げられることは叙事詩は、短かい詩とはまたちがつた持味があつて、将来大衆の詩に対する興味と愛着を、この叙事詩の完成によつて一層ふかめられると考へてゐるからです。
それに詩人にしても、抒情詩から、叙事詩へ移ることが、はるかに詩人の感情発展のすがたとしても、詩から小説へ移るよりもかなり必然的なものが多いのです。
また叙事詩は、小説の面白さのもつてゐない、面白さ、良さがあり、感情的な高さに於いても、詩は散文の比ではありません。日本には古来から短い形式でなかなか完成された表現形式をもつて、俳句短歌などがあるだけにこの根強い短詩形の伝統をうち破るといふ叙事詩の仕事は形式が長いだけそれだけ長さの量を質的に充実させてゆくといふ企ては一層仕事の困難さを伝へます。僕はいま日本に叙事詩が生れなければならない現実的な環境と必然性とを考へ当分この長詩の形式を追求していきたい考へです。茲[くさかんむりのない玄玄の形の字]に一冊まとめ一般大衆の批評にうつたへることが出来得たことを僕は作者として悦こばしく思ふものです。
一九三五年六月
小熊秀雄
綱渡りの現実
――綱渡りは公衆の面前に、真逆さまに墜落して横死した、この詩は彼のポケットにあつたものである
おゝ、愛する観客諸君よ、
遺書とは――結局死んでゆく人間の
最後の理屈ぢやないか、
しかもこの最後の理屈をいふことが
死ぬ人間にとつて
何といふ難かしいことなんだらう。
難かしい理由――それは死んでゆく者の
感傷性と理屈とが一致しにくいものだから。
――お父さん、さよなら。
――お母さん、さよなら。
私は死んでゆきます
先立つ不幸はゆるして下さい。
かう短かく単純に走り書して
死んでいつた沢山の民衆に私は敬意を表する。
医者の診断書から心臓痲痺を、
新聞記事から神経衰弱が抹殺されて、
民衆の死因の
公平なる発表がされるのは
いつたい何時のことだらう。
民衆の死因の単純化は
彼等の現実隠蔽の手段の一つ、
自殺とは大衆の現実への
もつとも消極的な方法による
もつとも積極的な抗議の仕方だから、
舞台の上で俳優が殺された、
田舎芝居では
赤い毛布をもつた男がでゝきて
すぐ毛布で死骸をかくして引つ込めてしまふ、
図々しいのは良心のない都会の芝居さ、
倒れた俳優の腹をたち割り、
そこから赤い真綿を一米突もひきだす、
観客は、生々しい死の姿を
いつまでも見せつけられて
――あゝ、可哀さうに、可哀さうに。
田舎の芝居にはユーモアがある、
倒れた役者は
舞台下から吹つこむ寒いすきま風に、
ぶるぶるつ、と身ぶるひしながら横になり
相棒の女形を下からみあげて
――なんて、あいつの脛は毛だらけだらうと
つぶやきながら眼をあけたり閉ぢたり、
退屈になると袂から
南京豆をつまみ出して、ボリボリ喰ふ
自分に都合の悪い死に方をした者は
直ぐ棺桶へ放りこむし
都合がよければ何時までも
毎日、毎日書きたてゝ
大衆に見せびらかしてをくジャアナリズム、
そいつをあやつる成り上り者、
彼等の社会政策は死者から始まる、
――生者に対する礼
おそらく、そんなものは遠い昔のことだらう。
ゴーゴリは死に際に言つた、梯子を梯子を――と
モオパッサンは言つた、暗い、暗い――と
バイロンは言つた、進め――進めと、
なんと三人共、
味のある遺言だらうね
諸君はこのうちの、どれが好きかね、
私は三つの内でバイロンの遺言が一番好きだ。
武藤山治は撃たれて倒れるとき叫んだ。
――火葬場問題だ、と
なんて慌てた政治家の遺言の通俗的なことよ。
将校は支那兵を撃つて
***身を支へながら絶叫した、
*****
*************
私はかうした人の心理が判らない
その時戦地には、こほろぎが
コロコロコロと鳴いてゐた
――謎か、若しくは
コホロギの鳴く音こそ、
疑惑に対する似合ひの答、と歌つた
ウヰ[ヰは小文字]リアム・ブレイクの詩の一章を思ひだす、
戦地の血のしたたり、
無念――とさけび倒れる人は
いづれも今は*****、
*****謎は、コホロギにきけ、
私の綱渡りは軽わざ小屋の大てつぺんから
観客が、アッと叫ぶ瞬間に墜ちる、
地面にはげしく、たたきつけられて、
私の頭の皮ははげ
むきだしのザクロのやうに赤い
夕刊ではかう書くだらう、
――軽わざ師某は
前夜少しく酒をのみすぎてゐたと。
この報告の単純化は
とんでもない嘘つぱちだ、
綱渡りの現実を知らない人間のために、
私はこの長詩をポケットに
何時も忍ばしておくのだ、
私たち綱渡りは最初みな経験主義者だつた
私たちは最初落ちることから教はつた、
低いところに綱を張つて
渡つては落ち、落ちては渡る、
フローベルといふ小説家が、
ヱンマといふ人物の毒死を書くのに
自分で砒素をなめて味はつてみたやうに、
私達綱渡りは実験的用意から始めた
私にとつて現実とは
綱の上より他にはない。
綱の上を渡ることが生活の全部だ。
親方の鞭は、ピューピュー私の後で鳴る。
私の少年綱渡りたちは泣いた。
――現実を渡ることは
なんといふ神経の悩みだらう。
あの兄弟子たちは
見あげるやうな恐ろしい高さを
どうして危なげもなく
上手に渡れるんだらうね。
私は間もなく幾分高い綱を渡ることができた、
下から親方は私に向つて叫ぶ、
――そんな格好ぢや、落つこちるぞ、
姿勢を崩しちやだめだ、
危いつ――もつと突込んで、
もつと突込むんだ、
私は最初は親方のいふ、
突込めといふ掛声の意味が判らなかつた、
――突込めとは
お前の生きた二つの眼で
綱を力いつぱい凝視(みつ)めろつてことだ、
綱渡り商売は
すべて現実主義者でなくちや駄目だ、
綱の上で惚れた女のことを
考へちやー真逆さまだぞ、
一度は落ちて腰をくぢいた
一度は額を割つた
なんて綱を渡ることの血まみれのことよ
ある日、親方の部屋へ駈けこんで
――親方、
けふは一番てつぺんを渡らして貰ひませう、
と言うと親方はハタと膝をうつて
――おゝ、たうとうお前も
一人前になつたのか、
どうだ、綱が四斗樽のやうに
太く見えるだらう――。
――親方ほんとうに綱が四斗樽のやうに太く、
あゝ、なんといふ不思議なことだらう、
血と肉と神経とを費して、
綱を渡つた
見おろす綱の下、空間は
私にとつては横たはる死であつた、
現実とは死の上に
かけられた一本の綱か
そして何といふ綱の細さよ、
生命の継続の飢ゑよ、
生と死との矛盾の見世物よ、
お客さん達は
私の渡ることよりも
私の落ちることを待ち構へてゐるやうだ
無事に綱を渡つて
高い竹梯子を降りてくると
お客は腹では残念がつて、
手ではカッサイした、
私は嬉しいよりも癪にさはつた、
私はお客に向つて心に怒鳴つた
――お客よ、
靴屋よ、
お前の現実は
靴以外には無いくせに、
お前が靴の寸法を間違へたら
私が喝采してやらうか。
――お客よ、
文士よ、
お前の現実は
原稿紙の枠を埋める以外にないくせに、
お前が駄作を書いたら
私が喝采してやらうか。
綱の上の私をして間もなく
新しい生活が悦こびを充満させた。
じつと綱をみつめてゐると
綱の細い輪郭はふくれ
しだいに太く見えだした。
四斗樽ほどにも太い連続に――、
そこへ一歩を踏みだすことが容易になつた、
現実の拡大か。
それとも現実からの
新しい現実のつまみ出しか。
とにかく、私は平地を歩るくやうな
安心さで、高いところの綱の上を渡る。
一粒の米をみてゐると、
こいつも味噌樽位の大きさに見える、
すばらしいぞ、
失業をしたら、一粒の米に、
般若心経二百六十二字を書いて
売つて暮らさうか――。
私はこの経験を兄弟子に語ると
兄弟子は眉をひそめながら私に言ふ
――可愛いタワリシチよ
おゝ、それは正しくない、
綱は決して四斗樽の太さぢやない、
綱はあくまで綱の太さに尽きる、
君の綱の見方は
顕微鏡的現実だよ、
君は正しいリアリストぢやないよ、
君は間もなく落つこちるだらう、
批評家、親方の――突込めの掛声に
うつかり乗つたら大変なことになるよ、
親方はまた私に言ふのだ、
――綱の上で、もつと愛嬌をふりまくんだね、
あんなしかめつらでは
お客の人気が悪い
恐怖そのものだ、
私の生きた眼は顕微鏡になつたのだらうか、
あゝ、しかも死の上の現実には
しかめ面(つら)以外に表情がないではないか、
それに親方は笑へといふ、
真珠釦に、茶褐色筋入半ズボン
髪は鳶色、青い靴下、
薔薇の花を帽子にさして簪のやうだ、
幅広のカラーに
ゆつたりと結んだ桃色ネクタイ
これが私の服装、
オスカア・ワイルド風の
唯美派の道化服の手前、
綱の上で悲劇的なツラをすることが
調和的でないことを私は知つてゐる
だが別な批評家は私にいふのだ、
それで良いんだと――、
現実主義とはすべて悲劇的なツラであると――。
私もそれを正しいと思つた、
苦痛の中から
どうして笑ひをヒリ出すことが出来るか、
親方の私に要求する笑ひは
彼の営業政策からだらう、
それは先づいゝとして、私は私自身で
綱の上から真実に笑ひたいんだ――。
観客に向つて、こぼれるやうな、
笑ひを伝へたい、
兄弟子は私に言ふ、
――君は、綱をもつと動かすんだね、
私は驚ろいて彼の顔を見あげた、
顕微鏡的眼ではなくて、
生きた眼で綱をみよう、
また綱を正しい綱の太さとしてみよう、
然し綱は危険にさらされてゐるのだ、
これは動かぬものとして考へる以外に
渡り方があらうか、
それに兄弟子は――
綱を現実を――更に動かせといふ
私はすべてを諒解した
ゆらり、ゆらり、と綱を動かして見た、
私はその動かし方を次第に強く
もつとも調和的な形で
綱を自分自身で牽制してみた、
すべてが、うまくいつた、
何といふ現実だらう、
おゝ、綱よ、私のものよ、
自由よ、
私は綱に勝つたのだ、
すばらしいことだ、私は綱の上で笑ふ
観客が一人一人はつきりと見える、
私は綱の上でげらげらと笑ひ、
観客に向つて叫ぶ
――理想が人間をとらへるんぢやない。
――人間が理想をとらへるんだ。
――綱がおれを動かすんぢやない。
――おれが綱を動かしてやるんだ。
――友よ、観客よ、靴屋よ、文士よ、
君等も君等の現実を
狼のやうに咬へてふりまはせ。
観客諸君――、
私は何時かこの綱の上から墜ちて死ぬだらう、
私の墜落はニュートンの引力の法則に依る、
だが友よ、
綱渡りが現実を踏みはずして落ちて死ぬ必然性を
私は頭から信じはしない、
ブハーリンならかういふだらう、
綱渡りが偶然に落ちることなどはない
みな必然的な理由によると、
彼氏一流の偶然性の否定をやるだらう、
だが私の綱渡りの経験では
困難な仕事には、
それだけ大きな偶然性も現れるのだ、
私の墜死を自殺として片附けてくれるな、
脱落者の心理を
理解し得ないものは
君もまた脱落者となる資格があるぞ――
私は落ちた――。
だが見給へ私の兄弟子や
たくさんの綱渡りたちは立派に
今でも依然として綱を渡つてゐる
事実に眼を向け給へ、
その方がずつと重要なのだ、
おゝ、私は綱と格闘しよう、
おゝ、更に私の綱に私の力を加へよう、
そして私の綱は小屋掛けをさへゆり動かす、
嵐はしだいに強く小屋をゆりうごかす、
私が綱とたたかふこと
それは私が嵐と闘つてゐることになる
私は笑ふ生活のために、
高い綱の上から諸君をながめながら。
観客の中でいちばん美しい娘さんに秋波(ながしめ)した、
私の浮気よ、
余裕綽綽たる私の現実、
小屋がはねて人々は去つた、
舞台の上のアセチリン瓦斯は吹き消され、
巨大な獣の舌のやうな
赤い緞帳がガランとした、
小屋の中に垂れさがつてゐる、
楽屋で私はオスカア・ワイルドの服をぬぎすてて、
外出しようと木戸口へ廻ると、
そこの暗がりに一人の若い女が立つてゐた、
あゝ、それは私が生命がけの綱の上で
娘に投げたかりそめの恋のながしめに、
娘は私を待つてゐてくれた
私は娘を抱いて熱い熱い接吻した、
おゝ、現実とはこのやうに素晴らしいものか
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