古城
――湖水の底に沈めるサロン――ランボオ
1
高層建築の間から私は出た
広々とした場所へ――、
電車の停留所にはさまざまの服装をした人が立つてゐた
人々の頭がかしがつた袋のやうにみえた、
生活の疲労と哀愁とで
ザクザク鳴つてゐる小豆の袋のやうであつた、
一人の乞食が通つて行つて
ボロを長く地に引きずり
電車路を踏みきつて
古城のみえるあたりに出た
彼はそこでじつと城をとりかこむ
みどり色の古い水の面をみてゐた、
なにに感動したのか
或は悪感に襲はれたのか
乞食はブルブルと身ぶるひし突然顔をあげた
それから仕事を思ひ出した事務官のやうに
そはそはと歩るきだした、
その時、私もじつと古い水をみてゐた
乞食の後姿にむかつて
――謙遜といふことは乞食の第一の義務である、
といふ言葉を投げかけた、
そして心の中では呟やいた、
乞食よ、すべての市民は
お前のやうに謙遜だ――そして柔順だ、
かうして広い草地を見渡し
とほく石の門をみるとき
私は人間としての資格を失つたやうに身ぶるひするのだ、
すべての人間の魂は、静かな風景の中に沈む
詩人、ランボオの詩の一行のやうに――、
駅のある方角から
風はやさしくそよそよと吹いてきた
みどり色をたたへた美しさの
水のおもてをさつと吹きすぎる、
風は水のおもてや、水面に浮んでゐる水鳥や
たかく積まれた石にぶつかる、
風は日光を屈折させる、
石垣は光り、水も、風も光り、
みてゐる人間の心も反射する、
光りのいりみだれたチカチカとした白さ
たがひにするどさを競ふ二本の刃物のそれのやうに――
光つてゐないものは
うろつくことより知らない乞食のやうな群であつた、
彼等は謙遜だ、だから何ごとにも反射的ではない、
彼等はすべてを吸収し、収容しようとして
それができない、
彼等は何事もやりかけた仕事も泥の上に投げる、
与へる者が現れなければ
彼等は自分の物を投げて
それを自分で拾つて楽しんでゐる、
2
私はここを立ち去ることができない
私は永久にそこを立ち去らないだらう
丁度、地球の天文学者が
シルシス・マジョル運河とか
マレー・アキダリウム湖とか
さまざまの名前を火星につけてゐるやうに
私は古い城にも、古い水にも、古い石垣にも、
私流に名前をつけて楽しむ
古城の遠い物語りを
近いところから語ること――
逆に古城の近い出来ごとを
遠いところから語らなければならない――、
この二つの矛盾は悲劇であることを知つてゐる
私の心と眼玉は
天文学者の対物レンズのやうに
距離の悲劇を経験してゐる、
3
美しい周囲を
やけつくやうな眼で見渡してゐる
私の視線は石にぶつかつて跳ねかへる、
いつたんぶつかつた視線は
ふたたび眼の中にかへつてくる、
なんといふことだ――、行為は、
ふたたび、もとの位置に戻るために行はれた、
人々はむなしい努力と無力を嘆く、
昼も夜も、あらゆる時を空費し、
夢の中に、更に夢を重ねてゐる、
一人の生きた亡霊は
飾りのついた塗りの箱の上に腰かけてゐる、
箱の中には『歴史』といふ伝来物が充満してゐる、
千の万の生きた亡霊が
ガヤガヤとそのまはりを取り巻く、
亡霊は全部追放者のやうな
顔つきをしてゐる
彼等の凍つた心がときに強い衝撃のために
ふいに溶けようとすると
以前にもまして強烈な寒気が襲つてくる、
心はいつも春がやつてきても溶けることがない、
4
古風な城は壁白く、美しく、
千万の善良な群が時折前を横切る
私は呆然と人々の群をみてゐた
行列は百足のやうにのろのろと進む
私の眼は円の中心にそゝがれ
そこの風景を美しいと思ふ――、
強いものはすべて美しいと思ふ――、
でなかつたら――、醜いほどに美しいか、どつちかだ、
行列は能の面をかぶつて踊りだす、
松の木の間から笛の音はひゞき
柔順な姿で人々は舞ふ
舞ひ終ると人々は面を脱ぐ
肉の密着した面を顔からはぎとる
5
すこしの恐れげもなく浮んでゐる水鳥に
私は石を投げつけてやつた、
古典の美の上にあそび
歴史の微笑の上に散歩する鳥
その悠々とした日常生活をみて
私は一種の嫉妬に似たものを感じた、
しかし水鳥よ、ゆるせ、
私がお前に石を投げつけ驚ろかし、
人間の虚勢を示すべきではなかつた、
水鳥よ、
お前は私といふ人間を、
いや一般的な人間といふものがどんなものか考へてごらん、
人間が精虫から育つたものだといふことがわかるだらう、
それだのに、水鳥と人間との区別よりも
人間同志の間の区別がもつと酷いのだよ、
私に一人の友人がゐる
彼は智恵をもつてはゐるが、
依然として精虫よりも
もつと単純な生き方をしてゐる
半身は裸かで暑い陽の下で、
甲の場所から、乙の場所へ
荷物を運び移しそれを反覆するだけの生活だ、
彼は体を生きた手をもつて撫でてみた
そして確かに自分も生きてゐると呟やいた、
しかし彼はまだ理想を失はない
人間同志の比較を放擲してゐない、
彼は力が強く正義人であつた、
彼は浅草へ手品を見物にでかけた
彼は手品師の不正を見物席からみつけた、
彼は舞台の上に飛び上つて
手品師を石のトランクの中から引き出した
勇気はまだ全く失つたわけではない、
だが水鳥よ、水の上のお前へ
私が石を投げつけたことは
勇気の種類には入らない、
古い城は私の友人にとつては
何の関係もない地域のものである、
しかし私にとつては
古典を愛する私にとつては
眼に美しく映ずる
夢の中の物語りを
このあたりに来ると想ひだす、
悠久といふことがどんなことで
平和とはどんなことであるかわかる
城の上の一つの雲が
千の雲を用意してゐるやうにもみえて
このあたりの自然は全く美しい、
美と、自然に色々な種類のあることを想ひ起す、
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