新版・小熊秀雄全集第1巻 |
創樹社 |
1990(平成2)年11月15日 |
幻影の壺
けだものの子
産科院よるのさびしさ夕食の鈴のしづかに鳴りにけるかな
おぎや……たかくさびしく産科院けだものの子のうまれけるかな
けだものの子はかたくもろ手を胸にくみしつかりなにかにぎり居るかも
うすら毛のけだものの子は四つ足をふんばりにつつ呼吸づきにけり
けだものの子は昼としなればひそまりて小鼻かすかにうごめけるかも
おそるおそるけだものの子の心臓のあたりに指を触れにけるかな
けだものの子は瞼かすかにうごかしつ外面の草の戦(そよ)ぐきくかな
けだものの子は生れながらにものを食(お)す術(すべ)しりたればうらがなしかり
黒薔薇はなにか予言(かねごと)まむかいのけだものの子にいひにけるかな
けだものの子はとつぜんに手足ふり狂乱となり泣きにけるかな
けだものの子は現世いやとかぶりふり土ひた恋ひて泣きにけるかも
ひえびえの秋風ふけばけだものの子にも感づとふるひけるかな
入りつ日をけだものの子はあびしかばうぶ毛金毛となりにけるかも
ひそかにひそかにけだものの子のその親を柩(ひつぎ)のなかにいれにけるかな
ひそかにひそかにけだものの子のその親の柩は門をいでにけるかな
入りつ日のかがやく野辺のさいはてにあかき柩はかくれたるかな
河豚(ふぐ)の腹
ひろがれる靄うみにみち沖のへに鐘鼓ひまなくなりしきりなり
あまりにもいろ濃き空よ見つむれば紫紺(しこん)堕(お)つるとおもはるるかな
海ぎしに河豚の腹などたたきつつこどもごころとなりにけるかな
なぎさにいで貝のかけらを千万にくだけど遂にけむりとならず
童子らは青藻のかげの夜光珠(やこうしゆ)の粗玉(あらたま)などをさがすなりけり
鶺鴒(いしたたき)ひねもす岩に尾をたたき砂地(すなぢ)だんだんくれにけるかな
悲しき夢
支那人は黄なる歯をみせ鞭(むち)をあげさてこれよりと言ひいでしかな
ぬば玉の闇よりぱつとあらはれし青き男はわれなりしかな
いろ青き天鵞絨服(びろうどふく)のつめたさを素肌にきれば秋が身にしむ
ましろなる顔の瞼(まぶた)をくまどりて鏡にむかひ笑ふわれなり
窪みたるまなこしみじみ愛(いと)ほしと鏡にむかひ摩(さす)るわれなり
くるはしき踊りにつかれ天鵞絨(びろうど)のゆかに倒れてねむるわれなり
『現身(うつしみ)のうれしき糧は酒なり』とまなこにつげといふはわれなり
この床に踊りつかれてねいるごといのちをはれば満足ならむ
こもり居て親をおもへば金鼓(きんこ)うち踊るわれなり歌ふわれなり
聖人(ひぢり)のまね
日の落つる丘に手をくみ眼をつぶり聖人(ひぢり)のまねをなしにけるかな
まねなれど聖人(ひぢり)の真似(まね)のたうとけれ海にむかひておもふことなし
めをつぶるひぢりの腹にしんしんとさびしくひくく潮鳴りきこゆ
にせものの聖人は腹のすきければ聖人をやめてたちにけるかな
眼ひらけば入日は海にひろがりてあかくするどく眼に沁みしかな
にんげんのこころとなりてたちあがり着物の土を払ひけるかな
つぶる眼のまぶたあかるく入つ日は海にかがやきしづかなるかな
潜水夫(もぐり)
寒天をたたえしごとき重々し海のうねりに潜水夫(もぐり)あらはる
みな底のもぐりの男かなしけれ妻のポンプをたよるなりけり
築港(ちくこう)の真昼の砂にさかしまに潜水夫(もぐり)の服のほされたるかも
ぶくぶくと水面に泡(あわ)のたちければ潜水夫の死ぬとおもひけるかな
国境
山道に赤き苺(いちご)の雨にぬれいろあざやかにこぼれあるなり
たえがたきうらさびしさにゆきずりの野草にふれぬ露にぬれつつ
みかへればはるかわが村一望のうちにおさまり河遠白く
らんまんに盆花さける隣国に一歩ふみいれなみだながしぬ
雑詠
朝の湯の湯気のくもりに老人がしんじつひたり念仏もうす
土手にゆけば土手の臭(にほ)ひのかなしけれ萌えてまもなき青草の土手
ダッタンの海のくろきに白鳥のうかべば羽のそまるとおもふ
春の夜の窓の硝子に頬よせて海のあかりにみいるなりけり
ひつそりとあたりしづかに風凪ぎの海のなぎさに砂音きこゆ
船子どもは声をそろへてくらがりの沖に夜網をおこすなりけり
ぬば玉の闇にかがり火たく船のふなばら赤く海にうつれり
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页 尾页