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雨中記(うちゅうき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 0:26:56  点击:  切换到繁體中文

底本: 新版・小熊秀雄全集第一巻
出版社: 創樹社
初版発行日: 1990(平成2)年11月15日
入力に使用: 1990(平成2)年11月15日新版第1刷
校正に使用: 1990(平成2)年11月15日新版第1刷

 

電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向つて歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴつたりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合つてゐる。
 男同ママの相合傘といふものは、女とのそれよりも涯かにもつと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがひにかう激しく肩を打ちつけ合ふことはあるまいと考へた。
 彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩ママな傍に添つてゐるだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがつて赤味を帯びて光つてゐる、彼がのしのしと歩るいてゐるのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまひさうな頑健さだ。
 二人は雨の日に銀座の散歩に来たといふことを少しも後悔はして居ない。
「濡れるぞ、もつとこつちへ寄り給へ、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」
 私はかう言つて彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。
 路面には少しの塵芥もなかつた、連日の降雨に奇麗に洗ひ流されたのだらう、数枚の広告ビラらしい小さな紙片が散らばつてゐたが。
 その紙片は実に雨にも流されないほどに執念深く、鋭どい爪をもつた羽のやうに舗石にへばりついてゐた。
 もし塵芥めいたものを、洗ひ流された路面に求めるならば、彼と私との惨めに歪んだ靴であらう、二人の靴は大きな黒い塵芥の凝固のやうにも見えたからである。
 私はその靴の先で、降雨の中の広告ビラの一枚を蹴つて見た。するとこの青味がかつた濡れた紙は、カマキリか小さな蜥蜴かなにかのやうに、カッと口を開いて、赤い舌をさへ見せて不意に私の靴先に噛みつく、
「なんて悪意に満ちた奴だ」
 私は舌打をして、憎々しくビラを微塵になれと強く踏みつける、私は同時にその紙片を二重に憎悪した、それは建物も低く少ない、田舎の街での出来事であつた。
 秋の風が街を幾度も吹きすぎる、私はその激しい風に向つてなんの持ち物もなく、行軍かなにかのやうに一生懸命になつて歩るいてゐる、砂塵がバラバラ頬を散弾のやうに打つ、私は何度も立ち止まつて休息し、風の凪ぎ間を見てまた歩るき出す、すると不意に私の眼と口とをふさいだ大きな掌があつたのだ。
 私はこの寂しい街で露西亜の強盗にでも逢つたやうに驚ろき慌てて、その巨大な掌をはらいのけた、私を窒息させようとした掌は、風に飛んできた活動写真のビラであつた。
 その時私は広告ビラを心から憎んだ、そしてまた人間の顔を掩ふほどの馬鹿気て大きなビラの注文主を憎み、風の日のそのビラの撒布者をも憎んだことがあつた、いままた都会の舗石道で、同じやうなビラで靴を噛まれたのであつた。
 憎悪すべきものや、親愛なものは、こんな愚にもつかない紙片にもある、私はかう感じた、すると憂鬱な気持がどこからともなく襲つてきて、彼と洋傘の柄を握り合つてゐるといふことがとても堪へられない事に思はれだした。
 私はじつと頭上の傘に雨の降つてゐるのを仰ぎ見た、それから彼の横顔を盗み見た、その時、私は二つの感情が一本の洋傘の柄を中にして、微細に働き合つてゐることに気がついた。
 二人は柄を押し合ひ、へし合ひしてゐるのであつた、一本の傘は絶えず一方の肩を濡らさなければ、一人が完全に雨を避けることができない程小さなものだ、そこで彼も私もおたがひに譲歩し合ひ、自分の体が雨にすこしも当らぬときは、必らず相手の肩を濡らしてゐることを考へなければならなかつた。
 その仕事はなかなか苦痛であつた、洋傘の柄を二人で握り合ふことの容易でないことを思つた、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしてゐるのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪ひ去るか、彼にまつたく傘を与へて自分はズブ濡れで歩るくか、どつちかに決めなければ気が済まなかつた、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あつけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押へる、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻さうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさへも、このやうに激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思ひ、笑つてでもゐるかのやうであつた。
 雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもはせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構へなしにどんどん駈けて向ふ側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやつて来るのを待つた。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらはれてゐた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になつて、その附属物のかならず一品を失はふ、例へば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢ふのは嫌だと思つた、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のやうに、だらりと袖をさげてゐた。





底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日新版第1刷発行
底本の親本:「民謡詩人 第2巻12号」
   1928(昭和3)年12月号
初出:「民謡詩人 第2巻12号」
   1928(昭和3)年12月号
入力:八巻美恵
校正:浜野 智
2006年4月28日作成
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