六
十五夜のあくる日は雨になって、残暑は大川の水に押し流されたように消えてしまった。二十九日は打ちどめの花火というので、柳橋の茶屋や船宿では二十日(はつか)頃からもうその準備に忙がしそうであったが、五月の陽気な川開きとは違って、秋の花火はおのずと暗い心持ちが含まれて、前景気がいつも引き立たなかった。江戸名物の一つに数えられる大川筋の賑わいも、ことしはこれが終りかと思うと、心なく流れてゆく水の色にも冷たい秋の姿が浮かんで、うろうろ船の灯のかずが宵々ごとに減ってゆくのも寂しかった。
両国の秋――お絹はその秋の哀れを最も悲しく感じている一人であった。十四日の夜以来、林之助は思い出したように足近くたずねて来た。しかし、いつもそわそわ[#「そわそわ」に傍点]して忙がしそうに帰って行った。十日(とおか)のあいだに四日も訪ねて来たが、しみじみと話をする間(ひま)もないように急いで帰ってしまった。
「人焦(ひとじ)らしな。いっそ来てくれない方がいい」と、お絹は物足らないような愚痴をいうこともあった。
「来なければ来ないで恨みをいう、来れば来るで愚痴をいう。困ったお嬢さまだ」と、林之助は笑っていた。
まったく林之助の言う通り、どっちにしてもお絹には不足があった。男が屋敷奉公をやめて、再び自分の手許(てもと)へ戻って来ない限りは、ほんとうに胸の休まる筈はないと自分でも思っていた。男を引き戻したい。お絹は明けても暮れても唯そればかりを念じていた。そんなら去年なぜ出してやったかと自分のこころに訊いてみても、確かな返事をうけ取ることが出来なかった。去年は悲しくあきらめて離れた――しかも、いよいよ離れてみると恋い死ぬほどに懐かしくなって来た――お絹は去年おめおめ[#「おめおめ」に傍点]と男を出してやった自分の愚かな心を、笞(むち)うちたいほどに罵り悔まずにいられなかった。
「お菓子はいかがです」
五十を二つ三つも越したらしい女が駄菓子の箱をさげて楽屋へそっとはいって来た。あさってが花火という二十六日のひる過ぎで、お絹が例の水色の※※をぬいで、中入りに一服すっているところであった。
「相変らずお市(いち)か捻鉄(ねじがね)だろうね」と、前芸のお若が蒼い顔を突き出した。お若は病気が癒って五、六日前からようよう舞台へ出るようになったのであった。
「お前さん、ずいぶん意地が綺麗だね。まだお医者の薬を飲んでいる癖に……」と、そばからお花も摺り寄って来た。そうして、「姐さん、いかが」と、笑いながらお絹にきいた。
「たくさん」と、お絹は重そうに頭(かぶり)をふった。「だけども、みんなが食べるならお食べよ。代は一緒に払ってあげるから、君ちゃん、お前もたんとお食べ」
「どうも御馳走さま」
みんなが一度に挨拶して、お若もお花もお君も、地弾きのお辰も、楽屋番の豊吉も、麩にあつまって来る鯉のように四方から菓子の箱を取りまいた。菓子売りはここらの観世物小屋の楽屋の者や列び茶屋の客などを相手に、毎日諸方へ入り込んでいるお此(この)という女であった。姐さんの奢(おご)りというので、みんながここを先途(せんど)と色気なしに、むしゃむしゃ食っているのを、お絹は箱に倚りかかりながら黙って離れて眺めていた。
「おまえさん、列び茶屋へも行くんだね」と、お花は菓子を食ったあとの指をなめながらお此に訊いた。
「はい。まいります」
「不二屋へも行くだろう」
「はい」
お花はお絹に眼くばせをしながら、なに食わぬ顔でお此にまた訊いた。
「おまえさん、あの不二屋の里(さと)ちゃんという子を知っているだろう」
「おとなしい姐さんでございますね」
「あの子に、このごろ情人(いいひと)が出来たってね」
「さあ、そんなことは存じませんが……」と、お此は笑っていた。
「向柳原のほうのお屋敷さんだっていうじゃあないか」と、お花も笑いながらカマを掛けた。「おまえさん、毎日行くんだもの、知っているだろう」
お此の返事はあいまいであった。単に向柳原の屋敷者といえば大勢あるが、お絹の男も向柳原にいることをお此はかねて知っていた。その男がその不二屋へ遊びにゆくこともお此はやはり知っていた。ここでうっかりしたことをしゃべって、どんな当り障りがないとも限らない。諸方へ出入りする自分の商売上、なるべくこんな問題には係り合わない方が利口だと思ったらしく、お此は巧みにお花の問いを避けて、あさっての花火の噂などを始めた。
さっきから少しく眼の色の変っていたお絹は、もう焦れったくて堪まらないという気色で、倚りかかっていた箱をかかえながら衝(つ)と立って、お此の膝の前に詰め寄るように坐った。
「お此さん」
その権幕が激しいので、相手はうろたえた。
「は、はい」
「向柳原といえば大抵判っているだろう。あたしのとこの林さんのことさ。あの人がこの頃むやみに不二屋へ行く。きのうもおとといも、さきおとといも、はいり込んでいたというが本当かえ。そうして、あのお里という子とおかしいというのも本当だろうね」
お此は返事に困ったような顔をしていた。しかし果たして林之助とお里とのあいだに情交(わけ)があるかないか、そんなことは彼女にも鑑定は付かないらしかった。お此はまったくなんにも知らないと正直そうに答えた。
林之助とお里との問題については、お花は初めから情交ありげに吹聴(ふいちょう)している一人であった。現にきょうも楽屋へ来て、林之助がこのごろ毎日のように不二屋へはいり込むという新しい事実を誇張的にお絹に報告した。その矢先きへ丁度お此が来あわせたのであるから、並大抵の言い訳ではお絹はどうしても承知しなかった。
「お此さん。おまえさんも強情を張らないで、知っているだけのことは言っておしまいよ」と、お花もそばから口を出して責めた。
「だって、お前さん。あたしがその本人じゃあるまいし、人のことがどうして判るもんですかね。そんな無理なことを……」
半分言うか言わないうちに、お絹は黙ってお此の腕をつかんだ。
「あ、姐さん。どうなさるんです。ひどいことを……」
振り放そうともがくお此の痩せ腕を、お絹は挫(ひし)ぐるばかりに片手でしっかり掴みながら、片手で箱をとんとん[#「とんとん」に傍点]と叩くと、穴の中から青い蛇が長い首を出した。お絹はその鎌首をつかんでずるずると引き出して、お此の鼻の先へ突きつけた。
「さあ、言わないか」
お此は真っ蒼になって口もきけなかった。彼女は死んだ者のようになって唯ぼんやりしていると、お絹はものすごい眼をしてあざ笑った。
「じゃあ、隠さずに言うかえ。なんでもいいからお前さんの知っているだけのことを言っておしまいよ」
世にもおそろしい蛇責めに逢っては、お此もしょせん逃がれる術(すべ)はないと観念したらしい。自分の知っているだけのことは何でも言うから、ともかくもその蛇をしまってくれと顫(ふる)えながら頼んだ。
「お前さん、知らない筈がないじゃあないか。お前さんがお里の家のすぐ近所にいるということも、あたしはちゃんと知っているんだよ」と、お絹は嚇(おど)すように睨んだ。蛇をつかんでいる手はまだ袂の下に隠していた。
お絹が根ほり葉ほりの詮議に対して、お此も知っているだけのことを何でも答えた。しかし十四日の月を踏んでお里が林之助に送られて帰ったことは、二人のほかに知る者はなかった。お此もむろん知っていなかった。
お絹がお此を残酷にさいなんで、ようよう聞き出した新しい事実は、以前よりもこの頃はお里の店へ林之助が足近く通って来るというだけのことに過ぎなかったが、それだけのことでもお絹の胸の火をあおるには十分であった。
「お此さん、ありがとうよ」と、お絹はわざと落ち着いたような声で言った。「もうそのほかにお前さんの知っていることはなんにもないんだね」
林之助がどんな着物を着ていたとか、どんな菓子を買って食ったとか、お里にどんな冗談を言ったとか、茶代は幾らぐらい置いたらしいとか、そんなことまで残らずしゃべり尽くしてしまったお此は、もうこの上はおそろしい蛇を頸(くび)に巻き付けられても、なんにも口から吐き出す材料はなかった。
「後生(ごしょう)ですからもう堪忍して下さい。まったく何んにも知らないんですから」と、お此は手を合わせないばかりにして、自分に詐(いつわ)りのないことを訴えた。
「もういいでしょうよ。姐さん」
お花も見かねて取りなし顔に言った。自分が先き立ちになってお此を責めたのではあるが、蛇責めのむごい拷問(ごうもん)には彼女もさすがに驚かされた。
罪のないお此をそれほどに窘(いじ)めるのも可哀そうだと思ったので、お花も仕舞いには却ってお絹をなだめる役にまわったのである。
「あんまり窘めて済まなかったね。こりゃあお菓子の代だよ」
二朱(にしゅ)の銀(かね)をお絹から貰って、お此は又おどろいた。お絹は剰銭(つり)はいらないと言った。
「その代りにお前さんにことづけを頼みたいんだがね。不二屋のお里に逢ったらば、これから林さんをいっさい寄せ付けないようにしてくれと、そう言っておくれ。いいかい。よく忘れないようにお里に言っておくれよ。もしこののちも相変らず不二屋に林さんの姿を見掛けるようなことがあると……」
青い蛇の首がお絹の袂の下から出た。
「あたしはこれを持ってお里のところへお礼に行くからね」
「姐さんばかりじゃない。あたし達も加勢に行くよ」と、お花も一緒になって嚇した。
嚇されてお此はまた縮みあがった。
「冗談じゃあない、本当にこれでお里の頸を絞めてやるから」と、お絹の白い手のさきには蛇の頭が気味悪くうごめいていた。
お此は二朱の銀を頂いて早々に逃げて帰った。
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