十三
「困った奴だ」
林之助は口のうちで幾たびか罵った。
お此と別れて屋敷へ帰る途中で、彼はお絹を憎むの念が胸いっぱいに溢れ切っていた。彼はお絹があまりに執念ぶかいので憎くなった。罪もないお里をそれほどに苦しめようとするお絹の妬み深い心には、どう考えても同情することが出来なくなった。一種の意地と、一種の江戸っ子かたぎとが彼をあおって、彼は弱いお里をあくまでも庇ってやらなければならない、それが男の役目であるというようにも考えはじめた。
先月までの林之助はともあれ、今の彼はお絹に対してあまり立派な口をきけた義理でもないのであるが、彼はもうそんなことを考えている余裕がなかった。お此を蛇責めにして、さらにお里を蛇責めにしようとするお絹の残酷な復讐手段に対して、彼の胸には強い反抗心が渦巻いて起った。彼はいっそお絹を殺してしまいたいほどに腹が立った。
また一方から考えても、自分はもうお里を振り捨てることの出来ない破目になって来た。今朝まではなんとかして、お里に詫びて、いっそ綺麗に手を切ろうかとも考えていたのであるが、そのお里の母は死んで、彼女はかねて口癖のように果敢(はか)なんでいる悲しい頼りない身の上にいよいよ沈んでしまった。それを今さら無慈悲に突き放すことが出来るだろうか、お里が素直に承知するだろうか。おとなしい彼女は泣く泣く承知するかも知れないが、そんな弱い者いじめをして仁科林之助、江戸っ子でござると威張っていられるだろうか。林之助は眼にみえないきずながお絹の蛇以上に自分を絞め付けていることをつくづく覚った。
そんなことを思い悩んで、林之助は今夜も眠られなかった。夜があけると、今朝も拭ったような秋晴れで、となり屋敷の大銀杏の葉が朝日の前に金色(こんじき)にかがやいていた。高い空には無数の渡り鳥が群れて通った。その青空をみあげているうちに、林之助の頭はまた新しくなった。
ゆうべは一途(いちず)にお絹を憎んでいたが、罪はやはり自分にある。こうした関係をいつまでも繋いでいたら、お絹もお里も自分もますます深い苦しみの底へ沈んでゆくばかりである。気を弱く持っていては果てしがない。どうしてもここでお里に因果をふくめて赤の他人になるよりほかはない。無慈悲のようでもいっそ一日も早い方がいい、一寸(いっすん)逃がれに日を延ばしてゆくほどいよいよ二進(にっち)も三進(さっち)もいかないことになる。
彼女はお里の母の初七日(しょなのか)でも済んだ頃にもう一度その家へたずねて行って、おだやかに別れ話をきめようと思った。自分はそれほど無慈悲な男でもないが、こうなったらどうも仕方がないと、林之助は悲しく諦めた。こうした諦めを付けるまでには、彼の眼からは男らしくもない涙が幾たびかにじんだ。
その日は御用があって、林之助はどこへも出られなかった。きょうもきっと来てくれとお君に口説かれたことを思いながらも、彼はどうすることも出来なかった。彼はお絹の怨みを恐れながらも、とうとう両国橋を渡る機会がなかった。あくる日もまた忙がしかった。彼は白金や渋谷の果てまで使いにやられた。この頃は意地の悪いように屋敷の用があるので、彼はすこし焦(じ)れったくなって来た。なるほどお絹のいう通り、屋敷奉公をやめた方が気楽かも知れないと思うこともあった。
しかし林之助は大小を捨てて町人になろうとは思わなかった。お絹の縁に引かれながらも、手ぶらでいつまでも彼女の厄介になっていたくもなかった。屋敷をやめれば忌でも応でもお絹のふところへ戻らなければならない。朝晩におそろしい蛇の眼と睨み合っていなければならない。林之助は第一にそれを恐れていた。やはり今のように遠く懸け離れていて、そうして時どきに逢っているのが一番無事であると信じていた。
九月八日の午前(ひるまえ)に、林之助はちょっとの隙きを見て両国へ行った。あしたは重陽(ちょうよう)の節句で主人も登城しなければならない。その前日の忙がしい中をくぐりぬけ、彼はもう堪まらなくなって、屋敷を飛び出したのであった。
両国の秋はいよいよ深くなって、路傍(みちばた)には栗を焼く匂いが香ばしく流れていた。しかしここの名物の観世物小屋の野天商人(のでんあきんど)が商売をはじめるのは午(ひる)過ぎからで、午まえの広小路は青物の世界であった。夜明けから午までは青物市がここに開かれるので、西両国には荒筵を一面に敷きつめて、近在の秋のすがたを江戸のまん中にひろげていた。
霜に染められたかと思う川越芋の紅いのに隣り合って、秋茄子の美しい紫が眼についた。どこの店にも枝豆がたくさん積んであるので、やがて十三夜の近づくのが知られた。これから神明(しんめい)の市(いち)の売物になろうという生姜(しょうが)の青い葉や紅い根には、白い露と柔かい泥とが一緒にぬれてこぼれていた。江戸じゅうの混雑を一つに集めたかと思われるような両国にも、暮れゆく秋の色と匂いとが漲(みなぎ)っているように見えるのが、このごろの薄寒い朝の景色であった。その青物の露を蹈(ふ)んで、林之助は橋を渡った。
「あら、いらっしゃい」
格子をあけると、お君はすぐに駈け出して来た。うす暗いお絹の枕もとには楽屋番の豊吉も坐っていた。前芸のお若もしょんぼりと坐っていた。いつも留守番を頼むという隣りのお婆さんもぼんやりと屈(かが)んでいた。どことなしに薬のけむりがしめって匂っていた。
「おや、いらっしゃい」と、豊吉は振り返ってまず声をかけた。そうして、すぐに入口へ起って来た。
「旦那。いけませんぜ。あれほど私が言って置いたのに……。あなたはどうも不実ですぜ。きょうはよっぽどお迎いに出ようと思っていたんですが……」と、彼は林之助をたしなめるように言った。
「いや、なにしろ御用が忙がしいんでどうもこうもならねえ。あしたは節句という忙がしいなかを、きょうはようよう抜け出して来たくらいなんだから、まあそう叱って貰いたくない」と、林之助は苦笑(にがわら)いをした。「そうして、どうだね、病人の容体は……」
豊吉は顔をしかめて首を振った。
「悪くなるばかり」
「困ったもんだ。医者もあぶないと言っているかね」
「はっきりとは言わねえが、もう匙(さじ)を投げているらしいんですよ。なにしろ咳が出て、胸から肋骨(あばら)が痛んで熱が出て……。どうもこの秋は越せまいと思うんです。わたくしも長らくお世話になった姐さんですが……」
もう今にも死ぬもののように豊吉は溜め息をついていた。こうなったらいっそお絹が死んでくれればいいというような考えが、林之助の頭を稲妻のように掠めて通った。
彼はだまって内へはいると、お若もお君もお婆さんもみな眼を赤くしていた。林之助は自分の不人情が急に恥かしくなって、肩身が狭いような心持ちで病人の枕もとにそっと坐ると、お絹はもう正体がなかった。もう誰の見境いもないらしかった。時どきに苦しそうに胸をかかえながら、彼女は髪を振り乱して、衾(よぎ)を跳ねのけて、夢中で床の上に起き直ろうとしてまた倒れた。と思うと、溺れた人が何物をか掴んですがろうとするように、彼女は痩せた手をのばして寝床の上を這いまわった。それが傷ついた蛇ののたくっているようにも見えて、林之助にはものすごかった。
彼はいよいよ気が咎めてならないので、まわりの人たちにむかって頻りに自分の無沙汰の言い訳をした。屋敷の御用の忙がしいことを話した。主人が節句の登城の前日に、たとい半※(はんとき)でも屋敷をぬけてこうして見舞いに来たことが、彼の不実でないという十分の証拠にはならないらしく、どの人も彼に対して冷たいような眼を向けていた。
「なにしろ、わたしも主人持ちだから、毎日見舞いに来るわけにもいかない。まあ、皆さん、なにぶん願いますよ」と、林之助はみんなにくれぐれも頼んでいた。
まったくきょうは忙がしいからだであるので、ゆっくりとここに坐り込んでいることを許されなかった。彼は小半※ばかりで病人の枕もとを起った。
帰るときに豊吉が格子の外まで送って出た。
「旦那、ようござんすかえ。姐さんは九死一生という場合なんですぜ。お屋敷の御用は仕方がありませんが、ほかの何事をおいてもここへ来なけりゃあ義理が済みませんぜ。どうで死ぬもんだからなんて薄情なことはしっこなしですぜ」
林之助はだまってうなずいた。
「不二屋のお里のおふくろが死んだそうですね」と、豊吉はまた言った。
どこか急所をえぐられたように、林之助ははっ[#「はっ」に傍点]と顔色を変えて、すぐには返事が出来なかった。
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