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両国の秋(りょうごくのあき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 0:21:03  点击:  切换到繁體中文


     十一

 それから三日ばかりは御用繁多(はんた)で、林之助は屋敷を出られなかった。九月にはいって晴れた空がつづいた。きょうは夕方から深川に発句(ほっく)の運座(うんざ)があるので、まずお絹の病気を見舞って、それから深川へまわろうと、彼は午(ひる)さがりに屋敷をぬけ出した。
 往来の人はみな袷(あわせ)を着ていた。林之助も新しい袷を着た。澄み切った青い空に秋の風が高く吹いて、屋敷町には赤とんぼの群れが目まぐるしいほどに飛び違っていた。鷹匠(たかじょう)が鷹を据えて通るのも、やがて冬の近づくのを思わせた。町へ出ると、草鞋(わらじ)を吊るした木戸番小屋で鰯を買っているのが見えた。
 柳橋の袂で林之助は友達に逢った。彼はやはり浅草の或る旗本屋敷の中小姓を勤めている男で、これも今夜の発句の会へ出る一人であった。彼は梶田弥太郎といって、林之助よりも三つばかり年長(としかさ)であった。
「やあ。どこへ」と、二人は立ち停まった。今夜の発句の話なども出た。弥太郎はこれから両国へ遊びに行こうと言った。ゆくさきは列び茶屋に決まっているので、林之助はすこし躊躇した。お里に逢うのはなんだか気が咎めるようであった。
「え、お里の顔でも見に行こうじゃないか」と、弥太郎は言った。「それとも、御用かい」
 着流しの林之助は御用に行くとも言われなかった。彼は断わり切れないで一緒に引き摺られてゆくと、不二屋の軒提灯は秋風にゆらめいていた。二人はずっと店へはいって床几に腰をかけると、これも顔なじみのお染という若い女が愛想よく茶を汲んで来たが、茶釜の前にもお里のすがたは見えないので、林之助は一種の失望を感じた。
「きょうはどうしたい、お里は……」と、弥太郎も的(あて)がはずれたような顔をして訊いた。
里(さあ)ちゃんはもう少しさっきまでいたんですけれど、おっかさんが急病だといって、家(うち)から迎いが来たもんですから、びっくりして帰ったんですよ」
「おふくろが急病……」と、林之助も驚いた。「さっきまでここにいたくらいじゃあ、ほんとうの急病なんだね」
「ええ。けさまで何ともなかったんだそうですがね。どうしたんでしょう。迎いの人の口ぶりじゃあもういけないらしいんですよ」と、お染も顔をしかめて言った。「その話を聞くと、可哀そうに里ちゃんはわあっ[#「わあっ」に傍点]と泣き出して……。あの子ふだんから親孝行なんですからね。いよいよいけないとなったら、さぞがっかりするでしょう」
「そりゃあ気の毒だね」
 弥太郎もさすがに顔の色を陰らせた。林之助は茶碗を持っている手さきがふるえた。病身とはかねて聞いていたが、現に先月末の花火の晩には近所の百万遍の数珠(じゅず)を繰りに行ったお里の母が、きょう俄かに死にそうな大病に取りつかれるとは、あんまり果敢(はか)ないように思われた。その母の枕もとに親孝行のお里が取り乱して泣いている、いじらしい姿もすぐに彼の眼にうかんだ。
「虫が知らすとでも言うんですかしら。里ちゃんはこの二、三日なんだかぼんやりしていて、唯うっとりとうしろの川の水を眺めていたりして、人が声をかけても返事をしないこともあるんですよ。今思うと、やはりこんなことがある前兆(しらせ)だったのかも知れませんね」と、お染はまた言った。
 お里がこの二、三日物思わしげに暮らしたのは、母に別れる前兆であったろうか。なんにも知らないお染が一途(いちず)にそう解釈するのは無理もなかった。しかし林之助は、もっと深い意味でこれを考えさせられた。あの以来、ぼんやりするほど思いつめているお里を、自分はどう処分しようと考えているのか。彼は我ながらぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするほどに自分の酷(むご)たらしい心を恐れた。
「里ちゃんの家は都合がいいのかね」と、彼は知れ切ったようなことを訊いてみた。
 お染も知れ切った事をいうような顔をして、すぐ打ち消すように答えた。
「どうでこういうところへ来ているくらいですもの、都合のいいことがあるもんですか。ほかに頼りになるほどの親類もないそうですから。阿母(おっか)さんの病気が長引くようなら勿論のこと、今すぐに死なれても第一にお葬式(とむらい)にも困るくらいでしょうと思うんですよ。ここのおかみさんも幾らか面倒をみてくれるでしょうし、あたし達もまあ、ちっとでも何とかしてやりたいと思っているんです」
 聞けば聞くほど林之助の胸は痛くなった。彼は飲んだ茶を吐き出したくなった。
 弥太郎もよほど気の毒になったのと、一つはお染に対する見得(みえ)もまじっているらしく、幾らかの銀(かね)を紙に包んで、お前の行くついでにこれをお里にやってくれと出した。林之助も見ていられなくなって、彼も紙に包んだものをお染の手へ渡した。
 しかし、この位のことでは済むまい。自分はなんとか特別の算段をしてやらなければなるまいと、彼は胸のなかでその銀(かね)の工面(くめん)を考えた。それにしても、ここに唯ぶらぶらしていてはどうにもならなかった。
 彼はいい加減の口実を作って、弥太郎にわかれてひとまず不二屋を出た。
「どこへ行こう」
 少なくも一両の金がほしいと彼は思った。その工面が付かなければ二歩(ぶ)でも三歩でもいいが、旗本屋敷の中小姓ではその取り分も知れている上に、暇さえあれば遊びあるいて無駄な小遣い銭をつかい尽くしている今の彼は、食うにこそ不自由はないが、百文(ひゃく)でも余分のたくわえなどのあろう筈はなかった。しかもその小遣いの多くはお絹の貢物(みつぎもの)であった。彼もこの場合には、お絹のところへ無心に行きたくなかった。用人や給人にももう幾許(いくら)ずつか借りているので、この上に頼むわけにはいかない。質屋を口説くにしたところで、金目になりそうなものを持っていない。さりとて大小を質に置くわけにもいかない。林之助もこれには行きづまった。それでも彼はどうしても幾らかの金が欲しかった。無理な工面(くめん)をしても直ぐに外神田へ飛んで行って、泣き腫らしているお里の眼の前へ、その金をずらりと投げ出してやりたかった。
「こういう時に人間は悪気(わるぎ)を起すのだ。出来るものなら俺も定九郎でも極(き)めたい」
 彼はこんな途方もないことまで考えた。そうして、自分でぎょっとしてあとさきを見まわした。彼の足は行くともなしに両国橋を渡りかけていた。橋番の小屋で放し鰻を買って、大川へ流してやっている人があった。林之助はその財布を引ったくって逃げたかった。
 焦(じ)れてもあせってももう仕様がない。ひとの物に眼をかけるよりも、いっそお絹に借りた方が無事である。ほかに使う金と違って、これをお絹から借り出すのは何分にも心苦しく思われてならなかったが、今の林之助としてはこれが最もたやすい方法であった。お絹も病気で寝ている。そこへ押し掛けて金の無心をいうのはあまり無面目(むめんぼく)の仕方だとは思いながらも、まさか泥坊もできない以上は、このくらいのことは我慢するよりほかはないと、彼は思い切って橋を渡った。
「やあ、旦那」
 楽屋番の豊吉に不意に声をかけられて、林之助はびっくりしたように立ち停まった。豊吉は楽屋の合い間を見て、お絹さんの家へちょっと見舞いに行って来たと言った。
「お絹さんはどうもよくありませんぜ。なんだかここがひどく切(せつ)ないと言ってね」と、彼はあばらのあたりを叩いてみせた。
「困ったね」
「あなたもいずれお見舞いでしょうが、まあ、いたわっておあげなせえましよ。お絹さんも可哀そうですよ。そう言っちゃ何ですけれども、楽屋の者なんてみんな不人情ですからね。本気になって世話をしているのは、あのちっぽけなお君という子だけでさあね」
 林之助はだまって突っ立っていた。観世物小屋のそうぞうしい鳴物の音も、彼の耳へは響かなかった。豊吉はまたささやいた。
「それから、旦那。まあ当分、不二屋へはいり込むのをお止しなせえましよ。お絹さんはそればかりを苦にしているんですから。ここであんまり心配させると猶(なお)なおからだの毒ですぜ」
「なに、この頃はちっとも行きゃあしねえんだ。お辰やお花のおしゃべりが詰まらねえことを言うんだろう」と、林之助はいい加減にごまかしていた。
「ほんとうですぜ。あたしが先きへ死ねば、きっと林さんを迎いに行くって、お絹さんがそう言っていましたぜ」
 豊吉は嚇(おど)すように言った。林之助はさびしく笑っていた。
「まあ、行っていらっしゃい」
 楽屋へはいってゆく豊吉のうしろ影を見送って、林之助の足はまた重くなった。お絹に金を借りるのはどうしても義理が悪いように思われた。このまま引っ返そうかとも考えたが、お絹がそれほどの容体ならば直ぐに見舞ってやらねばなるまい。ここまで来てから引っ返すという法はない。金の話は別として、ともかくも顔をみせて来なければ人情がないと思い直して、彼は又まっすぐに路を急いだ。
 路地をはいって格子をあけると、お君が出て来た。
「あら、豊さんが引っ返して来たのかと思ったら……。さあ、どうぞ」
 お君は急ににこにこ[#「にこにこ」に傍点]して林之助をお絹の枕許へ導いた。お絹は半分死んだようになってうとうとと眠っていた。その寝顔には、このあいだ見たよりも更にげっそりと痩せが見えて、こめかみ[#「こめかみ」に傍点]の骨があらわになっているのも悼ましい病苦の姿をまざまざと描いているので、林之助は思わずほろり[#「ほろり」に傍点]となった。彼はお君にむかって病人の容体をきくと、やはり豊吉の話の通りであった。お絹はときどきに熱が昇って肋骨(あばら)が痛む、それがひどく切なさそうだとのことであった。
「君ちゃん」
 林之助は小声で彼女を呼んで、次の間の長火鉢の前へ行った。
「それで、お医者はなんと言っているね」
「お医者さまはよっぽど大事にしなけりゃいけないと言っているんです」と、お君は眼をうるませていた。
「そうかい」
 林之助は指さきで眼がしらを撫でると、お君はもうしくしく[#「しくしく」に傍点]と泣いていた。
「楽屋の者も看病に来てくれるかい。お花もお若も……」
 みんな出掛けに一度ずつは見舞いに来てくれるが、親身(しんみ)に看病してゆく者もないと、お君は頼りなげに言った。それでも豊吉はゆうべ来て、四つ少し前までいてくれたと話した。世間にはうわべばかりの親切が多いと、林之助はつくづく思った。しかし振り返ってみると、自分もその仲間ではないかとも危ぶまれた。彼は自分で自分の不人情を責めた。
「わたしは主人持ちで、思うように看病にも来ていられないからね。気の毒だけれども、姐(ねえ)さんの世話はお前ひとりに頼むよ。もし急に模様でも変るようなことがあったら、豊吉にたのんで私のところへ報(しら)せをよこしておくれ。豊吉はわたしの屋敷を知っているから」と、林之助はお君にささやいた。
 お君は目を拭きながらうなずいた。そうして、姐さんを起しましょうかと訊いた。
「いや、折角よく寝ているものを無理に起さない方がいい」
 二人は黙って火鉢の前に坐っていた。
 そのうちにお君は薬鍋を持ち出して来て、火鉢の上で煎じはじめた。林之助は黙って煙草をのみながら、渋団扇で火を煽いでいるお君の小さい手さきを唯ぼんやりと眺めていた。やがて鍋の蓋がごとごと[#「ごとごと」に傍点]おどると、強い匂いを含んだ薬のけむりが靡(なび)くように林之助の袖に白く流れた。お里の家にもこんな匂いが漂(ただよ)っているか、それとも線香のけむりが舞っているかと思うと、どっちを向いても涙を誘われることが多かった。
 林之助はことしの秋のわびしさに堪えられなかった。

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