江戸情話集 |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1993(平成5)年12月20日 |
一
「ことしの残暑は随分ひどいね」
お絹(きぬ)は楽屋へはいって水色の※※(かみしも)をぬいだ。八月なかばの夕日は孤城を囲んだ大軍のように筵張(むしろば)りの小屋のうしろまでひた寄せに押し寄せて、すこしの隙(すき)もあらば攻め入ろうと狙っているらしく、破れた荒筵のあいだから黄金(こがね)の火箭(ひや)のような強い光りを幾すじも射(い)込んだ。その箭をふせぐ楯のように、古ぼけた金巾(かなきん)のビラや、小ぎたない脱ぎ捨ての衣服(きもの)などがだらしなく掛かっているのも、狭い楽屋の空気をいよいよ暑苦しく感じさせたが、一座のかしらのお絹が今あわただしく脱いだ舞台の衣裳は、袂(たもと)の長い薄むらさきの紋付きの帷子(かたびら)で、これは見るからに涼しそうであった。
白い肌襦袢一枚の肌もあらわになって、お絹はがっかりしたようにそこに坐ると、附き添いの小女(こおんな)が大きい団扇(うちわ)を持って来てうしろからばさばさ[#「ばさばさ」に傍点]と煽(あお)いだ。白い仮面(めん)を着けたように白粉(おしろい)をあつく塗り立てたお絹のひたいぎわから首筋にかけて、白い汗が幾すじかの糸をひいてはじくように流れ落ちるのを、彼女(かれ)は四角に畳んだ濡(ぬ)れ手拭で幾たびか煩(うる)さそうに叩きつけると、高い島田の根が抜けそうにぐらぐらと揺らいで、紅い薬玉(くすだま)のかんざしに銀の長い総(ふさ)がひらひらと乱れてそよいだ。見たところはせいぜい十七、八のあどけない若粧(づく)りであるが、彼女がまことの暦(こよみ)は二十歳(はたち)をもう二つも越えていた。
「ほんとうにお暑うござんすね」と、小女のお君(きみ)は団扇の手を働かせながら相槌(あいづち)を打った。
「暑いせいか、木戸も閑(ひま)なようですね」
「あたりまえさ。この暑さじゃあ、大抵の者はうだってしまわあね。どうでこんな時に口をあいて見ているのは、田舎者か、勤番者(きんばんもの)か陸尺(ろくしゃく)ぐらいの者さ」
手拭で目のふちを拭いてしまって、お絹は更に小さいふところ鏡をとり出して、まだらに剥げかかった白粉の顔を照らして視ていた。
「中入(なかい)りが済むと、もう一度いつもの芸当をごらんに入れるか、忌(いや)だ、いやだ。からだが悪いとでもいって、お若(わか)のように二、三日休んでやろうかしら」
「あら、姐(ねえ)さんが休んだら大変ですわ」と、お君はびっくりしたように眼を丸くした。
「お若さんが休んでいるのはまだいいけれど、姐さんに引かれちゃあ、まったく大変だわ」と、茶碗に水を汲んで来た他の若い女が言った。「あたし達は、ほんの前芸(まえげい)ですもの」
「前芸でたくさんだよ、この頃は……。ほんとうの芸当はもう少し涼風(すずかぜ)が立って来てからのことさ。この二、三日の暑さにあたったせいか、あたしは全くからだが変なんだよ」
「そりゃあ陽気のせいじゃありますまい」と、地弾(ぢひ)きらしい年増(としま)の女が隅の方から忌(いや)に笑いながら口を出した。「向柳原(むこうやなぎわら)はどうしたのか、この二、三日見えないようですね」
「二、三日どころか、八月にはいってからは、碌(ろく)に寄り付きゃあしないのさ、畜生、憶えているがいい」
お絹は眼にみえない相手を罵(ののし)るように呟(つぶや)いた。金地に紅い大きい花を毒々しく描いてある舞台持ちの扇で、彼女は傍にある箱を焦(じ)れったそうにとんとん[#「とんとん」に傍点]と叩くと、箱の小さい穴から青い頭の蛇がぬるぬると首を出した。
「畜生、お前の出る幕じゃあないんだよ」
扇で頭を一つ叩かれて、蛇はおとなしく首をすくめて、もとの穴に隠れてしまった。
「八つあたりね、可哀そうに……。ずいぶん邪慳(じゃけん)だこと」と、若い女が笑った。
「あたしは邪慳さ。おまけにこの頃は癇(かん)が起ってじりじり[#「じりじり」に傍点]しているから、たれかれの遠慮はないんだよ」と、お絹は扇で又もやその箱を強く叩いたが、蛇はもう懲りたと見えて、今度は首を出さなかった。
「お察し申しますよ」と、年増はすこし阿諛(おもね)るようにしみじみ言った。「向柳原はほんとうにどうしたんでしょう。まったく不実(ふじつ)ですね。そんな義理じゃないでしょうが……」
「義理なんか知っている人間かい」と、お絹はさも憎いもののように扇を投げ捨てた。「今に見るがいい。どんな目に逢わせるか」
お君は左の手のひらにひと掴みの米をのせて来て、右の指さきで一粒ずつ摘(つま)みながら箱の穴のなかへ丁寧におとしてやると、青い蛇の頭が又あらわれた。ことし十五のお君ももう馴れているとみえて、別に気味の悪そうな顔もしていなかった。
舞台の方でかちかち[#「かちかち」に傍点]という拍子木(ひょうしぎ)の音がきこえると、お絹はそこにある茶碗の水をひと息にぐっと飲みほして、だるそうに立ちあがった。お君はうしろに廻って再び彼女に別の衣裳を着せかえた。
今度は前と違って、吉原の花魁(おいらん)の裲襠(しかけ)を見るような派手なけばけばしい扮装(いでたち)で、真っ紅な友禅模様の長い裾が暑苦しそうに彼女の白い脛(はぎ)にからみついた。お絹は緋縮緬の細紐(しごき)をゆるく締めながら年増の方を見かえった。
「おばさん。きょうは三味線がのろかったぜ。もう少し早間(はやま)にね。いいかい」
「はい、はい」
鬢(びん)をもう一度掻きあげて、お絹は悠々と楽屋を出ると、お君は蛇の箱をかかえてその後について行った。年増も三味線をかかえて起った。
あとに残った若い女はほっ[#「ほっ」に傍点]としたような顔をして、お絹が脱ぎ捨ての※※や帷子(かたびら)を畳み付けていると、今まで隅の方に黙って煙草をすっていた五十ぐらいの薄あばたのある男が、さっきの蛇のように頭をもたげて這い出して来て、若い女に話しかけた。
「お花さん。姐さんはひどくお冠(かんむり)が曲がっているね」
「おお曲がり。毎日みんなが呶鳴られ通しさ。やり切れない」と、お花は舌打ちした。
「だが、無理じゃあねえ。向柳原が近来の仕向け方というのも、ちっと宜(よろ)しくねえからね」
「まったく豊(とよ)さんの言う通りさ。けれども、姐さんもずいぶん無理をいってあの人をいじめるんだからね。いくら相手がおとなしくっても、あれじゃあ我慢がつづくまいよ」
「それもそうだが……」と、豊という五十男はどっちに同情していいか判らないような顔をしてまた黙ってしまった。
この一座の姐さんと呼ばれている蛇つかいのお絹には、仁科林之助(にしなりんのすけ)という男があった。林之助は御直参(ごじきさん)の中でも身分のあまりよくない何某(なにがし)組の御家人(ごけにん)の次男で、ふとしたはずみからこのお絹と親しくなって、それがために実家をとうとう勘当されてしまった。低い家柄に生まれた江戸の侍としては、林之助はちっとも木綿摺(もめんず)れのしないおとなしやかな男であった。相当に読み書きもできた。殊にお家流(いえりゅう)を達者に書いた。
勘当された若い侍はすぐにお絹の家に引き取られた。お絹が可愛がっているものは、林之助と蛇とであった。こうして一年ほども仲よく暮らしているうちに、男はある人の世話で御納戸衆(おなんどしゅう)六百五十石の旗本杉浦中務(すぎうらなかつかさ)の屋敷へ中小姓(ちゅうごしょう)として住み付くことになった。窮屈な武家奉公などしないでも、お前さん一人ぐらいはあたしが立派にすごしてみせると、お絹はしきりにさえぎって止めたが、すなおな林之助もこの時ばかりは無理に振り切って出て行った。杉浦の屋敷は向柳原で、この両国と余り遠くもなかった。それはお絹が可愛がっている三匹の青い蛇がだんだん寒さに弱ってゆく去年の冬の初めであった。
旗本屋敷の中小姓がおもな勤めは、諸家への使番と祐筆(ゆうひつ)代理とであった。人品がよくてお家流を達者にかく林之助は、こうした奉公の人に生まれ付いていたので、屋敷内の気受けも悪くなかった。屋敷へはいってからも、林之助は用の間(ひま)をみてお絹にたびたび逢いに来た。東両国の観世物(みせもの)小屋の楽屋へも時どき遊びに来た。それが今年の川開き頃からしだいに足が遠くなって、お絹の家(うち)にも楽屋にも林之助の白い顔が見えなくなった。焼けるような真夏の暑さにむかって青い蛇は生き生きした鱗(うろこ)の色をよみがえらせたが、蛇つかいの顔には暗い影が始終まつわっていた。
「どう考えても向柳原の仕打ちが其(そ)でねえようだ」と、豊は最後の判決をくだした。「ちっとぐれえ姐さんが無理をいったところで、そりゃあ柳に受けているだけの義理もあろうというもんだ。なにしろ、かれこれ一年の余もああして世話になった以上は……。おいらっちのようなこんな人間でも、人の世話になったことは覚えている。まして痩せても枯れても二本差しているんじゃねえか。堀川のお俊(しゅん)を悪く気取って、世話しられても恩に被(き)ぬは、あんまり義理が悪かろうと思うが……。ねえ、どんなもんだろう」
「そりゃあこっちでばかり言うことで、男の方の身になったら又どんな理屈があるかも知れないからね」と、若いお花は冷やかに言って、扇で胸をあおいでいた。
「お花さんはとかくに男の方の贔屓(ひいき)ばかりするが、こりゃあちっとおかしいぜ」
「そうかも知れない」と、お花はつんと澄ましていた。「向柳原はいい男だからね」
「姐さんより年下だろう」
「ふたつ違いだから二十歳(はたち)さ」
「色男盛りだな」と、豊は羨ましそうに言った。
「世間に惚れ手もたくさんあらあね。姐さんばかりが女でもあるまい」
「悟ったもんだね」
「悟らなくって、こんな稼業ができるもんかね。姐さんはまだ悟りが開けないんだよ」
「そうかしら。だって、蛇は執念深いというぜ」
「蛇と人間と一緒にされて堪まるもんかね」
「よう、よう。浮気者」と、豊は反り返って手をうった。
「静かにおしよ。舞台へきこえらあね」
二人はだまって耳を澄ますと、舞台では見物の興をそそり立てるような、三味線の撥音(ばちおと)が調子づいて賑やかにきこえた。
「姐さんはまったくこの頃は顔色がよくないね」と、豊は又ささやいた。
「癇が昂(たか)ぶって焦(じ)れ切っているんだもの。あれじゃあからだにも障るだろうよ。あんなにも男が恋しいものかね」
「浮気者にゃあ判らねえことさ」
「知らないよ。禿(はげ)あたま、畜生、ももんじい[#「ももんじい」に傍点]」と、お花は扇を投げつけて笑ったが、また急に子細らしく顔をしかめて舞台の方を見かえった。
舞台の三味線の音は吹き消したように鎮まっていた。
「おや、どうしたんだろう」
見物のざわめく声が俄(にわ)かにきこえた。舞台の上をあわてて駈けてゆく足音もみだれて響いた。一種の不安に襲われた二人は、思わず腰を浮かせて舞台の様子を窺おうとするときに、小女のお君が顔色を変えて楽屋へ駈け込んで来た。
「大変。姐さんが舞台で倒れて……」
ふたりも飛び上がって舞台へ駈け出した。
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