三 円朝の旅日記
次は「塩原多助一代記」である。これも円朝の作として有名なものであるが、この作の由来について円朝自身が語るところに拠ると、彼が最初の考案は多助の立志譚を作るのではなくして、やはり「牡丹燈籠」式の怪談を作る積りであったと云う。怪談が変じて立志譚となったのは面白い。その経路は、こうである。
円朝は生涯に百怪談を作る計画があって、頻りに怪談の材料を蒐集していると、その親友の画家柴田是真翁から本所相生町二丁目の炭屋の怪談を聞かされた。それは二代目塩原多助の家にまつわる怪談で、二代目と三代目の主人が狂死を遂げ、さしもの大家もついに退転するという一件であった。
成程それは面白そうであるから、それを材料にして一編の怪談を組み立てようと云うことになったが、その当時、円朝はそれに就いて何の予備知識もなかった。塩原多助という人の名さえも知らなかった。そこで、まず相生町二丁目へ行って、土地の故老に塩原家のことを尋ねたが、何分にも年代を経ているので、一向にわからない。ようようのことで、塩原家の墓が浅草高原町の東陽寺にあることを探り出して、更にその寺へ尋ねてゆくと、墓は果たしてそこにあったが、寺でもやはり詳しいことは判らなかった。しかし住職と話している間に、円朝の眼についたのは、日本橋長谷川町の待合「梅の屋」の団扇が出ていることであった、そこで、梅の屋は檀家であるかと訊くと、檀家というわけではないが、塩原家の墓については当寺に附け届けをする者は梅の屋だけであると、住職は答えた。梅の屋は円朝も識っているので、さらに梅の屋へ行って聞き合わせると、その老女将は塩原家の縁者であったが、これも遠い昔の事はよく知らないと云う。しかも女将の口から、初代の多助は上州沼田在から江戸へ出て来た者であると云うことを聞き出したので、その翌日すぐに上州沼田へ向かった。明治九年八月二十九日である。
それから先きの紀行は「上野下野道の記」に詳しく書いてある。円朝は千住から竹の塚、越ヶ谷を経て、第一日の夜は大沢町の玉屋という宿屋に泊まった。この方面には汽車の開通しない時代であるから、道中は捗取らない。その夜の宿は土地で有名の旧家であるが、紀行には「蚤と蚊にせめられて思ふやうに眠られず。」とある。翌三十日は粕壁、松戸を経て、幸手の駅に入り、釜林という宿屋に泊まる。まことに気の長い道中である。
この旅行に、円朝は弟子を伴わず、伝吉という車夫一人を供に連れて行ったので、道中はかなりに退屈したらしい。おまけに、今夜の宿もよろしくなかったらしく、紀行には「其夜は雨ふりて寝心も好からんと思ひのほかにて、蚤多く眠りかね、五時に起き出で、支度なしたり。」とある。行く先きざきで蚤や蚊に責められていたのは気の毒である。円朝は決して下等な宿屋に泊まったのではないが、毎晩この始末。むかしの旅の不自由が思いやられる。
三十一日は利根の渡を越えて、中田の駅を過ぎる。紀行には「左右貸座敷軒をならべ、剥げちょろ白粉の丸ポチャちら/\見ゆる。」とあって、ここで「あだし野や馬に食はるゝ女郎花」という俳句を作っている。一々紹介することは出来ないが、この紀行の詳細を極めているのは実に驚くべき程で、途中の神社仏閣、地理風俗、旅館、建場茶屋、飲食店、諸種の見聞、諸物価など、ことごとく明細に記入してある。後日の参考に書き留めて置いたのであろうが、円朝ほどの落語家となれば、一編の人情話を創作するにも、これだけの準備をしている。彼が一代の名人と呼ばれたのも決して偶然でない。
その晩は真間田の駅で旧本陣の青木方に泊まる。紀行に「この宿は蚊帳も夜具も清らかにて、快く臥しぬ。」とあるから、円朝も今夜は助かったらしい。読んでいても、やれやれと安心する。九月一日、半田川を渡って飯塚の駅へ休み、それから小金井の駅へ出ようとする時、路に迷って難儀する。さんざん行き悩んだ末に二十町ほどの山を越えて、午後二時頃にようよう小金井の駅に辿り着いたが、眼がまわるほど空腹になったという。ここで飯を食って出ると、途中で夕立、雷鳴、その夜は石橋駅の旧本陣伊沢方に泊まり、町へ出て盆踊りを見物する。紀行に「昨年まで娼妓も踊に出でたるに、税金一夜に付き一人金二両二分を差出せとの布告ありしより、今年は懲り/″\して出る者無し。」とある。
二日は雀の宮を過ぎて宇都宮に着く。東京から五日間を費したわけである。ここでは午前十一時頃に手塚屋に泊まる。豊竹和国太夫がここに興行中であると聞いて、その宿屋をたずねると、和国太夫も悦んで迎えて、思いがけなき面会なりと、たがいに涙をながした。紀行には「実に朋友の信義は言の葉に述べ難きものなり。」とて、その当時の光景を叙してある。円朝が多感の人であったことは、これで察せられる。
あくる三日は宇都宮を立って、日光街道にかかる。上戸祭村で小休みをすると、「わが作話の牡丹燈籠の仇討に用ひた十郎ヶ峰はここから西北に見える。」とあるから、牡丹燈籠はこの以前の作であることが判る。今市駅の櫛田屋に休むと、同業三升屋勝次郎の忰に出逢った。これは和国太夫と違って、長の旅中困難の体に見受けたので、幾らか恵んで別れて出ると、途中で大雨、大雷、ずぶ濡れになって日光の野口屋に着いた。四日は好天気で、日光見物である。これは例の筆法で詳細に記入、ほとんど一種の日光案内記の体裁をなしている。その夜は野口屋に戻って一泊。五日は登山して、湯元温泉の吉見屋に泊まる。日光の奥で夜は寒く、「行燈にわびし夜寒の蠅ひとつ」の句がある。
六日の朝はいよいよ沼田へ下ることになって、山越えの案内者をたのむと、宿の主人が大音で「磯之丞、磯之丞」と呼ぶ。紀行には「山道の案内者は強壮の人こそよけれ、磯之丞とは媚めきたる弱々しき人ならんと心配してゐる折からに、表の方より入り来る男は、年ごろ四十一二歳にて、背は五尺四五寸、頬ひげ黒く延び、筋骨太く、見上ぐるほどの大男、身には木綿縞の袷に、小倉の幅せまき帯をむすび、腰に狐の皮の袋(中に鉄砲の小道具入り)をさげ、客の荷物を負ふ連尺を細帯にて手軽に付け、鉈作りの刀をさし、手造りのわらじを端折り高くあらはしたる毛脛の甲まで巻き付けたる有様は、磯之丞とは思はれぬ人物なり。」とある。磯之丞という名を聞いて不安心に思っていると、熊のような大男が現われたので、大いに安心したというのも面白い。殊にその磯之丞の人品や服装について、精細の描写をしているのを見ても、円朝の観察眼に敬服せざるを得ない。この磯之丞はよほど円朝の気に入ったと見えて、塩原多助の話の中にもそのまま取り入れてある。
この山越しは頗る難儀であったばかりでなく、かの磯之丞の話によると、熊が出る、猪が出る。殊にうわばみが出るというので、供の伝吉はおどろき恐れて中途から引き返そうと云い出したが、円朝は勇気を励まして進んだ。紀行には「何業も命がけなりと胸を据ゑ」とある。わが職業については一身を賭する覚悟である。この紀行の一編、読めば読むほど敬服させられる点が多い。
小川村という所まで行き着かず、途中の温泉宿に泊まる。ここにも山の湯の宿屋の光景について精細の描写がある。温泉は河原の野天風呂で、蛇が這い込んで温まっているのを発見して、驚いて飛びあがる。その夜は相宿の人々と炉を囲んで、見るもの聞くもの一々日記帳に書き留めるので、警察の探索方と誤られて、非常に丁寧に取り扱われたなどという話がある。
七日の朝は磯之丞に別れて、村を過ぎ、山を越え、九里の道を徒歩して、目的地の沼田の町に行き着いた。宿は大竹屋。早速に主人を呼んで、塩原多助の本家はどこにあるかと尋ねると、原町という所に塩原という油屋があるから、ともかくも明日呼び寄せますと云う。明くる八日の朝、宿の女房が原町の塩原金右衛門という人を案内して来た。年の頃は六十二、三で、人品賤しからず、ひどく丁寧に挨拶されて円朝も困った。紀行には「わたくしは東京長谷川町梅の屋の親類の者なり。少しお尋ね申したき事ありと、先づ日記の手帳を膝元に置き、初代多助の出生の跡は依然として在りやなど、さま/″\深く問ひけるに、その老人いぶかしく思ひしか、恐る/\申すやうは、先代塩原の家は当所より北の方(三里余)へ隔たりし下新田村と申すなりと、こま/″\と物語り、わたくしは初代の甥にあたる金右衛門と申す者の家にて、下新田を出でて当今は当駅の原町にて油屋を業としてゐると聞き、あら/\事情も解りしが、云々。」とある。
それから出発して、その夜は前橋駅の白井屋に一泊。九日には同駅の紺屋町に料理屋を営んでいる妹お藤をたずね、兄妹久々の対面があって、ここでも円朝は泣かされている。その夜はここに一泊して、十日の早朝から帰途に就く。例の筆法で帰途の日記も詳しく書いてあるが、その日は太田の駅に着いて、呑竜上人の新田寺に参詣、はせを屋に一泊。十一日は足利に着いて、原田与左衛門方に一泊。十二日は猿田川岸から舟に乗って栗橋に着き、さらに堺川岸から舟を乗り換えて、その夜は舟泊まりとなる。蚊の多いのに困ったとある。十三日は流山、野田を過ぎて、東京深川の扇橋に着く。八月二十九日から十六日間の旅行である。
梅の屋の女将の話を聞いて、翌日すぐに出発は頗る性急のようでもあるが、その当時の習いとして、八月中は劇場、寄席、その他の興行物がすべて夏休みである。九月もまだ残暑が強いので、円朝などのような好い芸人は上半月を休むのが普通であった。その休業の時間を利用して、この旅行を企てたものと察せられる。この地方にはすべて汽車がないので、人力車又は舟の便を仮るのほかなく、大抵は徒歩であったから、旅馴れない円朝は定めて疲れたことであったろう。
こういうわけで、最初は塩原家二代目三代目の怪談を作る予定が中途から変更して、初代の立志譚となったのである。その変更の理由は別に説明されていないが、おそらく梅の屋の女将の談話から何かのヒントを得た上に、更に沼田へ行って塩原家の遺族から昔話を聞かされ、却って初代の伝記に興味を感じるようになったのであろう。初代の塩原多助が江戸へ出て、粉炭を七文か九文の計り売りして、それで大きい身代を作りあげたのは事実で、現にその墓は浅草高原町の東陽寺内に存在したのであるが、詳細の伝記は判然していないらしく、かの「塩原多助一代記」は殆んど円朝の創作で、大体は大岡政談の「越後善吉」を粉本にしたものであると云う。私も大方そうであろうと察している。
果たして然らば、かの有名な「馬の別れ」のくだりなどは、なかなかよく出来ていると思う。勿論、これにも黙阿弥作の「斎藤内蔵之助の馬の別れ」という粉本が無いでもないが、多助の方が情味に富んで、聴衆を泣かせるように出来ている。わたしは運わるく、円朝の高坐で「馬の別れ」を聴かなかった。私の聴いたのは、お角婆の庵室へ原丹次とおかめの夫婦が泊まり合わせる件りであった。
それについて思われるのは、円朝は人物の名を付けることが巧いことである。又旅のお角などは先ず普通であるが、その子が胡麻の灰で道連れ小平、その同類が継立の仁助などは、いずれも好く出来ている。落語でも芝居でも、人名などは一種の符牒に過ぎないように思われるが、決してそうで無い。道連れの小平などという名を聞けば、いかにもそれが道中の胡麻の灰で、忌な眼を光らせて往来の旅人を窺っているらしく連想される。こういう点にも、円朝は相当の苦心を払っていたらしい。
たとい越後善吉があるにしても、斎藤内蔵之助があるにしても、それだけの粉本では十五席の長い人情話は出来あがらない。一席ごとに皆それぞれの山を作って、昨晩の聴衆を今晩へ、今晩の聴衆を明晩へと引き摺って行かなければならない。その点は新聞の続き物と同様であるが、新聞は忌でも応でも毎日配達されて毎日読まされる。寄席の聴衆は自宅から毎晩わざわざ通って来るのであるから、よほど面白くないと毎晩つづけて来ることは無い。そこに多大の苦心が潜んでいるわけである。円朝をして今の世に在らしめば、その創意、その文才、いわゆる大衆作家としても相当の地位を占め得たと思う。
この旅行は、彼が三十八歳の秋であった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页 尾页