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寄席と芝居と(よせとしばいと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 0:18:05  点击:  切换到繁體中文

底本: 綺堂芝居ばなし
出版社: 旺文社文庫、旺文社
初版発行日: 1979(昭和54)年1月20日
入力に使用: 1979(昭和54)年1月20日初版
校正に使用: 1979(昭和54)年1月20日初版

 

  一 高坐の牡丹燈籠

 明治時代の落語家はなしかと一と口に云っても、その真打しんうち株の中で、いわゆる落とし話を得意とする人と、人情話を得意とする人との二種がある。前者は三遊亭円遊、三遊亭遊三、禽語楼小さんのたぐいで、後者は三遊亭円朝、柳亭燕枝、春錦亭柳桜のたぐいであるが、前者は劇に関係が少ない。ここに語るのは後者の人情話一派である。
 人情話の畑では前記の円朝、燕枝、柳桜が代表的の落語家と認められている。就中なかんずく、円朝が近代の名人と称せられているのは周知の事実である。円朝は明治三十三年八月、六十二歳を以て世を去ったのであるから、私は高坐こうざにおける此の人をよく識っている。例の「牡丹燈籠」や「累ヶ淵かさねがふち」や「塩原多助」も聴いている。私の十七、八歳の頃、即ち明治二十一、二年の頃までは、大抵の寄席の木戸銭(入場料などとは云わない)は三銭か三銭五厘であったが、円朝の出る席は四銭の木戸銭を取る。僅かに五厘の相違であるが、「円朝は偉い、四銭の木戸を取る。」と云われていた。
 さてその芸談であるが、落語家の芸を語るのは、俳優の芸を語るよりも更にむずかしい。俳優の技芸は刹那に消えるものと云いながら、その扮装の写真等によって舞台のおもかげを幾分か彷彿させることも出来るが、落語家に至ってはどうすることも出来ない。したがって、ここで何とも説明することは不可能であるが、早く云えば円朝の話し口は、柔かな、しんみりとした、いわゆる「締めてかかる」と云うたぐいであった。もし人情話も落語の一種であるというならば、円朝の話し口は少しく勝手違いの感があるべきであるが、自然に聴衆を惹き付けて、常に一時間内外の長丁場をツナギ続けたのは、確かにその話術の妙に因るのであった。
 私は円朝の若い時代を知らないが、江戸時代の彼は道具入りの芝居話を得意とし、赤い襦袢の袖などをひらつかせて娘子供の人気を博し、かなりに気障きざな芸人であったらしい。しかも明治以後の彼は芝居話を廃して人情話を専門とし、一般聴衆ばかりでなく、知識階級のあいだにも其の技倆を認めらるるに至ったのである。彼はその当時の寄席芸人に似合わず、文学絵画の素養あり、風采もよろしく、人物も温厚着実であるので、同業者間にもおお師匠として尊敬されていた。
 明治十七、八年の頃とおぼえている。速記術というものが次第に行なわれるようになって、三遊亭円朝口演、若林坩蔵かんぞう速記の「怪談牡丹燈籠」が発行された。後には種々の製本が出来たが、最初に現われたのは半紙十枚ぐらいを一冊の仮綴かりとじにした活版本で、完結までには十冊以上を続刊したのであった。これが講談落語の速記本の嚆矢こうしであろうと思われるが、その当時には珍しいので非常に流行した。それが円朝の名声をいよいよ高からしめ、あわせて「牡丹燈籠」を有名ならしめ、さらに速記術というものを世間にひろく紹介することにもなったのである。
 私は「牡丹燈籠」の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談のくだりを読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようであるが、恰もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ。」と、母はおどすように云った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ。」
 速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息をんで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸のあたりは何だか冷たくなって来た。周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにも拘らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日こんにちと違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音がきこえる。それらのことも怪談気分を作るべく恰好の条件になっていたに相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席のねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
 この時に、私は円朝の話術の妙と云うことをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖ろしくも感じられない怪談が、高坐に持ち出されて円朝の口にのぼると、人をおびえさせるような凄味を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹きまくっている。学校にかよう生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売り物にして、東京じゅうの人気をほとんど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとは云え、確かに円朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じている。
 春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。これは円朝自身が初めてこの話を作った時に、心おぼえの為にその筋書を自筆でしるして置いたのであるという。自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺い知られる。円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野こうずけ下野しもつけ道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。実に立派な紀行文である。
「牡丹燈籠」の原本が「剪燈せんとう新話」の牡丹燈記であるとは誰も知っているが、全体から観れば、牡丹燈籠の怪談はその一部分に過ぎないのであって、飯島の家来孝助の復讐と、萩原の下人げにん伴蔵の悪事とを組み合わせた物のようにも思われる。飯島家の一条は、江戸の旗本戸田平左衛門の屋敷に起こった事実をそのまま取り入れたもので、それに牡丹燈籠の怪談を結び付けたのである。伴蔵の一条だけが円朝の創意であるらしく思われるが、これにも何か粉本ふんぽんがあるかも知れない。ともかくも、こうした種々の材料を巧みに組み合わせて、毎晩の聴衆をませないように、一晩ごとに必ず一つの山を作って行くのであるから、一面に於いて彼は立派な創作家であったとも云い得る。
 前にもいう通り、話術の妙をここに説くことは出来ないが、たとえば、かの孝助が主人の妾お国の密夫源次郎を突こうとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷をぬけ出して、将来の舅たるべき相川新五兵衛の屋敷へ駈け付けて訴えるくだりなど、その前半は今晩の山であるから面白いに相違ないが、後半の相川屋敷は単に筋を売るに過ぎないで余り面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々けいけい過ごされてしまう所である。ところが、それを高坐で聴かされると、息もつけぬ程に面白い。孝助が誤って主人を突いたという話を聴き、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎……と声をかけて突かないのだ。」と叱る。文字に書けば唯一句であるが、その一句のうちに、一方には大事出来しゅったいに驚き、一方には孝助の不注意を責め、又一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現われて、新五兵衛という老武士の風貌を躍如たらしめる所など、その息の巧さ、今も私の耳に残っている。団十郎もうまい、菊五郎も巧い。しかも俳優は其の人らしい扮装つくりをして、其の場らしい舞台に立って演じるのであるが、円朝は単に扇一本を以て、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙をつくしたものと云ってよい。名人はおそるべきである。
 そこで考えられるのは、今日こんにちもし円朝のような人物が現存していたならば、寄席はどうなるかと云うことである。一般聴衆は名人円朝のために征服せられて、寄席は依然として旧時の状態を継続しているのであろうか。さすがの円朝も時勢には対抗し得ずして、寄席はやはり漫談や漫才の舞台となるであろうか。私はおそらく後者であろうかと推察する。円朝は円朝の出づべき時に出たのであって、円朝の出づべからざる時に円朝は出ない。たとい円朝が出ても、円朝としての技倆を発揮することを許されないで終わるであろう。
 田村成義なりよし翁の「続々歌舞伎年代記」には、どう云うわけか、明治二十年度に於ける春木座の記事を全部省略してあるが、私の記憶によれば、かの「牡丹燈籠」が初めて劇化されたのは、春木座の明治二十年八月興行であったと思う。春木座は本郷座の前身である。狂言は、「怪談牡丹燈籠」の通しで中幕の「鎌倉三代記」に市川九蔵(後の団蔵)が出勤して佐々木高綱を勤めていたが、他は俗に鳥熊の芝居という大阪俳優の一座で、その役割は萩原新三郎(中村竹三郎)飯島の娘お露(大谷友吉)飯島の下女お米、宮野辺源次郎(中村芝鶴)飯島平左衛門(嵐鱗昇)飯島の妾お国(市川福之丞)飯島の中間孝助、山本志丈(中村駒之助)伴蔵(市川駒三郎)伴蔵女房おみね(中村梅太郎)等であった。さらに註すれば、右の中村芝鶴は後の伝九郎で、現在の芝鶴の父である。市川福之丞は後の門之助で、男女蔵の父である。市川駒三郎は後に団十郎の門に入って、宗三郎と改名した。中村梅太郎は後の富十郎で、現在の市川団右衛門の父である。この通し狂言の脚色者は何人なんぴとであるかを知らなかったが、後に聞けばそれは座付の佐橋五湖という上方作者の筆に成ったのであった。
 その当時、私は十六歳、八月は学校の暑中休みであるから、初日を待ちかねて春木座を見物した。一日の午前四時、前夜から買い込んで置いた食パンをかかえて私は麹町の家を出た。

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