九
お時が再び蚊いぶしの火を吹いていると、蚊帳の中から外記が声をかけた。
「気の毒だがいつもの通り、なにか酒と肴を見つくろって来てくれ」
「はい、はい。この辺には碌なものもござりませんから、田町(たまち)までひと走り行ってまいります」
お時は金を受取ってすぐに出て行った。秋の夜のくせで、雨もない空から稲妻が折りおりに走った。
ここの家では古い蚊帳がひと張りしかなかったのを、綾衣を預かるようになってから、外記が金を出して品のいい蚊帳を買わせたのである。見るからすがすがしいような新しい蚊帳は萌黄(もえぎ)の波を打たせて、うす穢(ぎたな)いこの部屋に不釣合いなのもかえって寂しかった。その蚊帳越しのあかりに照らされた二人の顔も蒼く見えた。
「おれはいよいよ甲府勝手になりそうだ」
口ではむぞうさに言っているが、そのひとみの据えかたで綾衣ももうさとった。
「たしかにそう決まりなんしたか」
落ち着いているつもりでも、彼女の声は少し顫えていた。男はすぐにうなずいた。
「きょう叔父が来て言った。嘘ではあるまい。ひと間住居などと騒いでいるうちに、一足(いっそく)飛びに地獄が来た。親類共も驚くのは無理がない。叔父はおれを手討ちにすると言ったよ」
「ぬしを殺そうとしなんしたか」と、綾衣は呆れたような顔をした。「まあ、馬鹿らしい。それでもよく怪我もありんせんでしたね」
「むやみに切られて堪まるものか。これでも命が惜しい」と、外記はほほえんだ。「いくら叔父でも無法の成敗をしようとすれば、おれもこれを持っている」
外記は蚊帳の外へ手をのばして枕もとの刀を引き寄せた。遊女屋に大小は禁物で、腰の物はいつも茶屋に預けて来るので、綾衣は一度も外記の刀を見たことはなかった。ここへ来てからも別に気にも止めなかったが、今夜はふと思い出した。
「もし、いつか仲の町の草市で摺れちがった時の刀というのは、やっぱりこれでありんしたかえ」
「むむ、そうだ。お前の袖に引っかかった刀はこれだ。鍛えは国俊(くにとし)、家重代。先祖はこれで武名をあげたと、年寄りどもからたびたび聞かされたものだ」
「その刀は二人のためには結ぶの神とでも言うのでおざんしょう。わたしにもよく見せておくんなんし」
綾衣は袖の上に刀をのせて、鞘のままでじっと見入っているうちに、不思議な縁ということも考えられた。その晩、草市を見物に出た遊女も大勢(おおぜい)あった。大門(おおもん)をくぐった侍も大勢あった。その大勢と大勢とのなかで、外記と自分とが偶然に行きちがって、偶然に自分の袖がこの刀の柄(つか)に絡(から)んだ。そうして、二人を恋におとして、さらに暗いところへ導いてゆく。たとい二人が摺れちがっても、この刀さえなかったらなんにも起らずに済んだかも知れない。
それを思うと、この刀と自分たちの間には、人には判らない一種の不思議が絡み付いているらしく、自分たちはどうしてもこの刀で亡ぼされなければならない因縁をもっているようにも信じられた。剣難の相があると言った占い者の予言が、いよいよ嘘でないように思い当られてきた。
「今だから打ち明けて話しんすが、わたしには剣難の相があると上手な占(うらな)い者さんが言いんした。そんなことがあるかも知れえせんね」
「そんなことがあるかも知れない」
外記は綾衣のような宿命論をもってはいなかった。占い者を信ずることも出来なかった。彼はただ、燃えるような熱い情けにただれて、そのままとろけて消えてしまいたかった。
「いよいよ甲府勝手とやらに決まりなんしたら、ぬしに再び逢う瀬はありんせんね」と、綾衣はもう判り切っていることに念を押した。
彼女の眼は吸い付けられたように刀を離れなかった。蚊帳の波は少しゆらいで、水のような夜風が窓から流れて来た。二人の襟もとは冷たかった。もうなんにも言うことはない。今更どう考える余地もない。二人は迷わずに自分たちの行くべき道を歩むよりほかはなかった。まっすぐな路が彼らの前に開かれていた。
「ごめんください」
不意に案内を乞われて二人は少しくあわてた。お時も十吉もあいにくに留守である。二人は息をのんで暫く黙っていた。
「ごめんください、お留守ですか、もし、ごめんください。どなたも居ないんですか」
外ではつづけて呼んだ。そうして何かささやくような声もきこえた。綾衣は一種の不安におそわれて、男の手を思わず固く握りしめた。
「裏口を用心しろ」と、外ではささやく声が又きこえた。外記は無言で女の手を振り払って、蚊帳をするりと刎(は)ね退(の)けた。片手には刀を持って、しずかに襖をあけて出ると、一人の男が縁に腰をかけていた。ほかにも提灯を持った男が二人立っていた。
「あ、殿様でございましたか」
腰をかけている男が案外丁寧に挨拶した。彼は大菱屋の喜介という若い者であった。
「おお、喜介か。なにしにまいった」
外記はわざと落ち着いて訊いた。相手も面(つら)の憎いほどに落ち着いていた。
「へえ、花魁のお迎いにまいりました」
「花魁とは誰だ」
「へへへへへ」と、喜介は忌(いや)に笑った。「先々月駈け出したぎりで、音沙汰なしの花魁でございます。相手も大体見当が付いてはおりますが、表沙汰にしましてはまた御迷惑をする方もあるだろうと、内所(ないしょ)で手分けをして探していましたが、眼と鼻の間のこんなところに隠れていようとは、今の今までちっとも知りませんでした。まことに恐れ入りますが、どうかあなた様から花魁によく仰しゃって、ここはまあ一旦素直に帰るように願いとうございます」
「いや、綾衣はここにはおらぬ」
外記は居ないと言った。喜介は居るに相違ないと言い張って、しまいには家探(やさが)しをするとまで言い出したので、外記ももう面倒になった。
「たとい綾衣が隠れて居ようとも連れて帰ることは相成らぬ。外記が不承知だと、立ち帰って主人に申せ」
喜介はせせら笑った。
「へへ、子供の使いじゃございません。じゃあ、殿様、どうしても綾衣さんの花魁を渡しちゃあ下さいませんか」
「知れたことだ。帰れ、帰れ」
「へえ、さようでございますか」
こんなことを言いながら、喜介の料簡ではまず不意に相手の刀を取りあげてしまって、そのすきに奥から女を奪い出そうとする魂胆であったらしいが、外記の方にも油断はなかった。喜介が蛇のような手をそっと伸ばすと同時に、彼の腕はもう外記にしっかりと掴まれていた。
「武士の腰の物に眼をかける、おのれは盗賊だな」
掴まれた腕が外記の手を離れた時には、彼は狗(いぬ)ころのように庭さきに投げ出されていた。
つづいて外記の手は刀の柄にかかったので、彼はうろたえて這い廻って逃げた。ほかの二人も度を失ってばらばら[#「ばらばら」に傍点]と逃げ出した。空(から)駕籠をおろして門口(かどぐち)に待っていた駕籠屋も面食らって逃げた。
もとより斬る気はないが、おどしのために外記は縁を飛び降りて門口まで追って出た。彼らの遠くなったのを見とどけて再び内へ引っ返して、手水鉢(ちょうずばち)の水で足の泥を洗っていると、綾衣は手拭を持って来て綺麗に拭いてやった。
一旦はおどして追い返しても、ここの隠れ家を突き留めた以上は、大菱屋が泣き寝入りに済まそう筈がない。また出直して押して来るか、あるいは思い切って表沙汰にするかも知れない。女はもう眼に見えない網にかかっているのであった。
二人は黙って顔を見合せた。浄閑寺の鉦がまたきこえた。
綾衣は起って仏壇の燈明をかき立てると、白地に撫子(なでしこ)を大きく染め出した艶(はで)な浴衣が裾の方から消えて、痩せた肩や細った腰が影のようにほの白く浮いて見えた。仏壇の花生けには蓮の花が供えてあった。綾衣はそのひと枝を押し戴いてとって、重なり合った花びらをしずかにむしり取ると、匂いのある白い花は彼女の袖に触れてほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]とこぼれて、うす暗い畳の上に雪を敷いた。
外記は無言で笑った。
星は隠れていよいよ暗い夜になった。お米と十吉は帰って来た。途中で折りおりに稲妻が飛ぶので、お米は怖がっていた。
内へはいって二人は更に怖いものを見せられた。蒼い蚊帳のなかに、外記は腹を切っていた。綾衣は喉を突いていた。男も女も書置きらしいものは一通も残していなかった。多くの場合、書置きというたぐいのものは、この世に未練のある者が亡き後をかんがえて愚痴を書き残すか、あるいはこの世に罪のある者が詫び状がわりに書いて行くのであるが、二人はこの世に未練はなかった。また懺悔(ざんげ)するような罪もないと信じていた。褒めようが笑おうが、それは世間の人の心まかせで、二人の心は二人だけが知っていればいいと思っていたらしい。
お時もやがて帰って来た。かねて彼女をおびやかしていた悪夢がいよいよ現実となったのを知った時に、お時は正体もなく泣きくずれた。死んだ二人の唇に微かな笑みを含んでいるのを見いだしたときに、彼女はいよいよ堪まらなくなって声をあげて泣き叫んだ。
外記の死骸は藤枝家に引き取られたが、綾衣の死骸は浄閑寺に埋められた。新造の綾浪も綾鶴も一応の吟味を受けたが、綾衣の駈落ちや心中に就いて自分たちはいっさい知らないと申し立てた。禿(かむろ)の満野も調べられたが、七つの彼女は勿論なんにも知ろう筈はなかった。調べられた時に、彼女はなんにも答えずに、姉さまが恋しいと泣き出して、居あわした人びとの眼をうるませた。
江戸時代にも五百石の旗本と廓の遊女との相対死には珍らしかった。五百石は五千石と誇張されて、その噂はいよいよ高くなった。無名の詩人が二人の恋を唄い出して、その声は江戸の町々に広く伝えられた。
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※君と寝やろか、五千石取ろか。なんの五千石、君と寝よ。
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底本:「江戸情話集」光文社時代小説文庫、光文社
1993(平成5)年12月20日初版1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:かとうかおり
ファイル作成:かとうかおり
2000年6月15日公開
青空文庫作成ファイル:
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【表記について】
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
二※(ふたとき) 半※(はんとき)
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第3水準1-85-25 |
※ぼんぼん盆は ※君と寝やろか
|
第3水準1-3-28 |
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