二
貝の役はひとりでなく、幾人もあります。わたくしも素人で詳しいことは知りませんが、やはり貝の師範役というものがあって、それについて子供のときから稽古するのだそうです。森垣さんの藩中では大館宇兵衛という人が師範役でした。その人は貝の名人で、この人が貝を吹くと六里四方にきこえるとか、この人が貝を吹いたら羽黒山の天狗山伏が聴きに来たとか、いろ/\の云い伝えがあるそうです。年を取っても不思議に息のつゞく人でしたが、三年まえに七十幾歳とかいう高齢で死にました。この人に子はありましたが、歯が悪くて貝の役は勤められず、若いときから他の役にまわされていたので、その家にある貝の秘曲を伝え受けることが出来ませんでした。
わが子にゆずることの出来ないのは初めから判っているので、宇兵衛という人は大勢の弟子のなかから然るべきものを見たてて置きました。見立てられたのが森垣さんで、宇兵衛は自分の死ぬ一年ほど前に、森垣さんを自分の屋敷へよびよせて、貝の秘曲を伝授しました。伝授すると云っても、その譜をかいてある巻物をゆずるのです。座敷のまん中にむかい合って、弟子はその巻物をひろげて一心に見ていると、師匠が一度ふいて聞かせる。たゞそれだけのことですが、秘曲をつたえられるほどの素養のある者ならば、その譜を見ただけでも十分に吹ける筈だそうです。笙の秘曲なぞを伝えるのも矢はりそれだそうで、例の足柄山で新羅三郎義光が笙の伝授をする図に、義光と時秋とがむかい合って笙を吹いているのは間違っていて、義光は笙をふき、時秋は秘曲の巻を見ているのが本当だということですが、どうでしょうか。
宇兵衛は三つの秘曲を伝授して、その二つだけは吹いて聞かせましたが、最後の一つは吹かないで、たゞその譜のかいてある巻物をあたえただけでした。
「これは一番大切なものであって、しかも妄りに吹くことは出来ぬものである。万一の場合のほかは決して吹くな。おれも生涯に一度も吹いたことは無かった。おまえも吹く時のないように神仏に祈るがよい。」
それは落城の譜というのでありました。城がいよ/\落ちるというときに、今が最後の貝をふく。なるほど、これは大切なものに相違ありません。そうして、めったに吹くことの出来ないものです。これを吹くようなことがあっては大変です。貝の役としては勿論心得ていなければならないのですが、それを吹くことの無いように祈っていなければなりません。
「万一の場合のほかに決して吹くな。」
師匠はくり返して念を押すと、森垣さんもかならず吹かないと誓を立てゝ、その譜の巻物をゆずられました。それも畢竟は森垣さんの伎倆が師匠に見ぬかれたからで、芸道の面目、身の名誉、森垣さんも人に羨まれているうちに、その翌年には師匠の宇兵衛が歿しました。こうなると森垣さんの天下で、ゆく/\は師匠のあとを嗣いで師範役をも仰せつけられるだろうと噂されていましたが、前にも云った通り、こゝに飛んでもない事件が出来したのです。
森垣さんは師匠から三つの秘曲をつたえられましたが、そのなかで最も大切に心得ろと云われた例の落城の譜――それはどうしても吹くことが出来ない。泰平無事のときに落城の譜をふくと云うことは、城の滅亡を歌うようなもので、武家に取っては此上もない不吉です。ある意味に於いては主人のお家を呪うものとも見られます。師匠が固く戒めたのもそこの理窟で、それは森垣さんも万々心得ているのですが、そこが人情、吹くなと云われると何うも吹いて見たくて堪らない。それでも三年ほどは辛抱していたのですが、もう我慢が仕切れなくなって来ました。うっかり吹いたらばどんなお咎めをうけるかも知れない、まかり間違えば死罪になるかも知れない。それを承知していながら、何分にも我慢が出来ない。どうも困ったことになったものです。
それでも初めのうちは一生懸命に我慢して、巻物の譜を眺めるだけで堪えていたのですが、仕舞にはどうしても堪え切れなくなって来ました。なんでも八月十四日の晩だそうです。あしたが十五夜で、今夜も宵から月のひかりが皎々と冴えている。森垣さんは縁側に出てその月を仰いでいると、空は見果てもなしに高く晴れている。露のふかい庭では虫の声がきこえる。森垣さんはしばらくそこに突っ立っているうちに、例の落城の譜のことを思い出すと、もう矢も楯も堪らなくなりました。今夜こそはどうしても我慢が出来なくなりました。
「その時は我ながら夢のようでござった。」と、森垣さんはわたくしに話しました。
まったく夢のような心持で、森垣さんは奥座敷の床の間にうや/\しく飾ってある革の手箱のなかから彼の巻物をとり出して、それを先ずふところに押込み、ふだんから大切にしている法螺の貝をかゝえ込んで、自分の屋敷をぬけ出しました。夢のようだとは云っても、さすがに本性は狂いません。城下でむやみに吹きたてると大変だと思ったので、なるべく遠いところへ行って吹くつもりで、明るい月のひかりをたよりに、一里あゆみ、二里あゆみ、とう/\城下から三里半ほど距れたところまで行き着くと、そこはもう山路でした。路の勝手はかねて知っているので、森垣さんはその山路をのぼって、中腹の平なところへ出ると、そこには小さい古い社があります。うしろには大木がしげり合っていますが、東南は開けていて、今夜の月を遮るようなものはありません。城の櫓も、城下の町も、城下の川も、夜露のなかにきら/\と光ってみえます。それを遠くながめながら、森垣さんは社の縁に腰をおろしました。
「こゝなら些とぐらい吹いても、誰にも覚られることはあるまい。」
譜はもう暗記するほどに覚えているのですが、それでも念のためにその巻物を膝の上にひろげて、森垣さんは大きい法螺の貝を口にあてました。その時は、もう命はいらないほどに嬉しかったそうです。前に云った足柄山の新羅三郎と時秋とを一人で勤めるような形で、森垣さんはしずかに吹きはじめました。夜ではあり、山路ではあり、こゝらを滅多に通る者はありません。たまに登ってくる者があったところで、それが何という譜を吹いているのか、とても素人に聞き分けられる筈はないので、森垣さんも多寡をくゝっていました。
それでもやはり気が咎めるので、初めの中は努めて低く吹いていたのですが、月はいよ/\明るくなる、吹く人もだん/\興に乗ってくる。森垣さんは我をわすれて、喉一ぱいに高く/\吹き出すと、夜がおい/\に更けて、世間も鎮まって来たので、その貝の音は三里半をへだてた城下まで遠くきこえました。
その晩は月がいゝので、殿様は城内で酒宴を催していました。もう夜がふけたからと云って席を起とうとしたときに、彼の貝の音がきこえたので、殿様も耳をかたむけました。家来達も顔を見合せました。幕末で世間がなんとなく騒がしくなっていましたが、まさかに隣国から不意に攻めよせて来ようとは思われないので、今ごろ何者が貝をふくのかと、いずれも不思議に思いました。家来達がすぐに櫓にかけ上って、貝の音のきこえる方角を聞きさだめると、それは城下から三里あまりを隔てゝいる山の方角であることが判りました。なんにもせよ、夜陰に及んで妄りに貝をふきたてゝ城下をさわがす曲者は、すぐ召捕れという下知があったところへ、家老のなにがしが俄に殿の御前へ出て、容易ならぬことを言上しました。
「唯今きこえまする貝の音は一通りの音色ともおぼえませぬ。」
勿論、それが落城の譜であるか何うかは確かに判らなかったのですが、さすがは家老でも勤めている人だけに、それが尋常の貝の音ではないことだけは覚ったとみえたのです。扨そうなると、騒ぎはいよ/\大きくなって、召捕の人数がすぐに駈け向かうことになりました。
そんなことゝは些とも知らない森垣さんは、吹くだけ吹いて満足して、年来の胸のかたまりが初めて解けたような心持で、足も軽く戻って来る途中、召捕の人数に出逢いました。貝を持っているのが証拠で、なんとも云いぬけることが出来ず、森垣さんはその場から城内へ引っ立てられました。これはしまったと、森垣さんももう覚悟をきめたのですが、それでも途中で気がついて、ふところに忍ばせてある落城の譜の一巻を竊と路ばたの川のなかへ投げ込みました。夜のことで、幸いに誰にも覚られず、殊にそこは山川の流れがうず巻いて、深い淵のようになっている所であったので、巻物は忽ちに底ふかく沈んでしまいました。
三
城内へ引っ立てられて、森垣さんは厳重の吟味をうけましたが、月のよいのに浮かれて山へのぼり、低く吹いているつもりの貝の音が次第に高くなって、お城の内外をさわがしたる罪は重々おそれ入りましたと申立てたばかりで、落城の譜のことはなんにも云いませんでした。家老はどうも普通の貝の音でないと云うのですが、所詮は素人で、それがなんの譜であるかと云うことは確かに判りません。もと/\秘曲のことですから、ほかに知っている者のあろう筈はありません。もしそれが落城の譜であると知れたら、どんな重い仕置をうけるか判らなかったのですが、何分にも無証拠ですから、森垣さんはとう/\強情を張り通してしまいました。それでも唯では済みません。夜中みだりに貝を吹きたてゝ城下をさわがしたという廉で、お役御免のうえに追放を申渡されました。
森垣さんは飛んだことをしたと今更後悔しましたが、どうにも仕方がない。それでも独り身の気安さに、ふだんから親くしている人達から内証で恵んでくれた餞別の金をふところにして、兎にかくも江戸へ出て来たというわけです。落城の譜が祟って森垣さん自身が落城することになったのも、なにかの因縁かも知れません。
「いや、一生の不覚、面目次第もござらぬ。」と、森垣さんも額を撫でていました。
こう判ってみると、わたくしも気の毒になりました。屋敷をしくじったと云っても、別に悪いことをしたと云うのでもない。この先、いつまでも浪人しているわけにも行くまいから、なんとか身の立つようにしてあげたいと思ってだん/\相談すると、森垣さんは再び武家奉公をする気はないという。しかしこの人は字をよく書くので、手習の師匠でもはじめては何うだろうと云うことになりました。幸いわたくしの町内に森垣さんという手習の師匠があって、六七十人の弟子を教えていましたが、これはもう老人、先年その娘のお政というのに婿を取ったのですが、折合がわるくて離縁になり、二度目の婿はまだ決らないので、娘は二十六になるまで独身でいる。こゝへ世話をしたら双方の都合もよかろうと、わたくしが例のお世話焼きでこっちへも勧め、あっちをも説きつけて、この縁談は好い塩配にまとまりました。森垣さんはそれ以来、本姓の内田をすてゝ養家の苗字を名乗ることになったのです。
「朝鮮軍記の講釈で、小早川隆景が貝を吹く件をきいている時には、自分のむかしが思い出されて、もう一度貝をふく身になりたいと思いましたが、それはその時だけのことで、武家奉公はもう嫌です。まったく今の身の方が気楽です。」と、その後に森垣さんはしみ/″\と云いました。
そういう関係から森垣さんとは特別に近しく附合って、今日では先方は金持、こちらは貧乏人ですが、相変らず仲よくしているわけです。わたくしは世話ずきで、むかしから色々の人の世話もしましたが、森垣さんのような履歴を持っているのは、まあ変った方ですね。
森垣さんのお話はこれぎりですが、この法螺の貝について別に可笑しいお話があります。それはある与力のわかい人が組頭の屋敷へ逢いに行った時のことです。御承知でもありましょうが、旗本でも御家人でも、その支配頭や組頭には毎月幾度という面会日があって、それをお逢いの日といいます。組下のもので何か云い立てることがあるものは、その面会日にたずねて行くことになっているのですが、ほかに云い立てることはありません、なにかの芸を云い立てゝ役附にして貰うように頼みに行くのです。定めてうるさいことだろうと思われますが、自分の組内から役附のものが沢山出るのはその組頭の名誉になるので、組頭は自分の組下の者にむかって何か申立てろと催促するくらいで、面会日にたずねて行けば、よろこんで逢ってくれたそうです。
そこで、その与力は組がしらの屋敷に逢いに行ったのです。こう云うことを頼みに行くのは、いずれも若い人ですから、組頭のまえに出てやゝ臆した形で、小声で物を云っていました。
「して、お手前の申立ては。」と、組頭が訊きました。
「手前は貝をつかまつります。」
組頭は老人で、すこしく耳が遠いところへ、こっちが小声で云っているので能く聴き取れない。二度も三度も訊きかえし、云い返して、両方がじれ込んで来たので、組頭は自分の耳を扇で指して、おれは耳が遠いから傍へ来て大きい声で云えと指図したので、若い与力はすゝみ出てまた云いました。
「手前は貝をつかまつる。」
「なに。」と組頭は首をかしげた。
まだ判らないらしいので、与力は顔を突き出して怒鳴りました。
「手前は法螺をふく。」
「馬鹿。」
与力はいきなりにその横鬢を扇でぴしゃりと撲たれました。撲たれた方はびっくりしていると、撲った方は苦り切って叱りつけました。
「たわけた奴だ。帰れ、帰れ。」
相手が上役だから何うすることも出来ない。ぶたれた上に叱られて、若い与力は烟にまかれて早々に帰りました。すると、その晩になって、組がしらから使が来て、なにがしにもう一度逢いたいから来てくれと云うのです。今度行ったらどんな目に逢うかと思ったのですが、上役からわざ/\の使ですから断るわけにも行かないので、内心びく/\もので出かけて行くと、昼間とは大違いで、組頭はにこ/\しながら出て来ました。
「いや、先刻は気の毒。どうも年をとると一徹になってな。はゝゝゝゝ。」
だん/\聴いてみると、この組がしらの老人、ほらを吹くと云ったのを、俗に所謂ほらを吹くの意味に解釈して、大風呂敷をひろげると云うことゝ一図に思い込んでしまったのでした。武士は法螺をふくとは云わない、貝を吹くとか、貝をつかまつるとか云うのが当然で、その与力も初めはそう云ったのですが、相手にいつまでも通じないらしいので、世話に砕いて「ほらを吹く」と云ったのが間違いの基でした。役附を願うには何かの芸を申立てなければならないが、その申立ての一芸が駄法螺を吹くと云うのでは、あまりに人を馬鹿にしている、怪しからん奴だと組頭も一時は立腹したのですが、あとになってから流石にそれと気がついて、わざ/\使を遣って呼びよせて、あらためてその挨拶に及んだわけでした。
組がしらも気の毒に思って、特別の推挙をしてくれたのでしょう、その与力は念願成就、間もなく貝の役を仰せ附かることになりました。それを聞きつたえて若い人たちは、「あいつは旨いことをした。やっぱり人間は、ほらをふくに限る。」と笑ったそうです。なんだか作り話のようですが、これはまったくの実録ですよ。
老人の話が丁度こゝまで来たときに、表の門のあく音がして三四人の跫音がきこえた。女や子供の声もきこえた。躑躅のお客がいよ/\帰って来たらしい。わたしはそれと入れちがいに席を起つことにした。
[#改段]
権十郎の芝居
一
これも何かの因縁かも知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところで、わたしが屡
こゝに老人の家をたずねたことは、読者もよく知っている筈である。
老人は已にこの世にいない人であるが、その当時にくらべると、大久保の土地の姿もまったく変った。停車場の位置もむかしとは変ったらしい。そのころ繁昌した躑躅園は十余年前から廃れてしまって、つゝじの大部分は日比谷公園に移されたとか聞いている。わたしが今住んでいる横町に一軒の大きい植木屋が残っているが、それはむかしの躑躅園の一つであるということを土地の人から聞かされた。してみると、三浦老人の旧宅もこゝから余り遠いところではなかった筈であるが、今日ではまるで見当が付かなくなった。老人の歿後、わたしは滅多にこの辺へ足を向けたことがないので、こゝらの土地がいつの間にどう変ったのか些ともわからない。老人の宅はむかしの百人組同心の組屋敷を修繕したもので、そこには杉の生垣に囲まれた家が幾軒もつゞいていたのを明かに記憶しているが、今日その番地の辺をたずねても杉の生垣などは一向に見あたらない。あたりにはすべて当世風の新しい住宅や商店ばかりが建ちつゞいている。町が発展するにしたがって、それらの古い建物はだん/\に取毀されてしまったのであろう。
昔話――それを語った人も、その人の家も、みな此世から消え失せてしまって、それを聴いていた其当時の青年が今やこゝに移り住むことになったのである。俯仰今昔の感に堪えないとはまったく此事で、この物語の原稿をかきながらも、わたしは時々にペンを休めて色々の追憶に耽ることがある。むかしの名残で、今でもこゝらには躑躅が多い。わたしの庭にも沢山に咲いている。その紅い花が雨にぬれているのを眺めながら、今日もその続稿をかきはじめると、むかしの大久保があり/\と眼のまえに浮んでくる。
いつもの八畳の座敷で、老人と青年とが向い合っている。老人は「権十郎の芝居」という昔話をしているのであった。
あなたは芝居のことを調べていらっしゃるようですから、今のことは勿論、むかしのことも好く御存じでしょうが、江戸時代の芝居小屋というものは実に穢い。今日の場末の小劇場だって昔にくらべれば遙かに立派なものです。それでもその当時は、三芝居だとか檜舞台だとか云って、むやみに有難がっていたもので、今から考えると可笑いくらい。なにしろ、芝居なぞというものは町人や職人が見るもので、所謂知識階級の人たちは立ち寄らないことになっていたのですから、今日とは万事が違います。
それでは学者や侍は芝居を一切見物しないかと云うと、そうではない。芝居の好きな人は矢はり覗きに行くのですが、まったく文字通りに「覗き」に行くので、大手をふって乗り込むわけには行きません。勿論、武家法度のうちにも武士は歌舞伎を見るべからずという個条はないようですが、それでも自然にそういう習慣が出来てしまって、武士は先ずそういう場所へ立寄らないことになっている。一時はその習慣もよほど廃れかゝっていたのですが、御承知の通り、安政四年四月十四日、三丁目の森田座で天竺徳兵衛の狂言を演じている最中に、桟敷に見物していた肥後の侍が、たとい狂言とはいえ、子として親の首を打つということがあろうかというので、俄に逆上して桟敷を飛び降り、舞台にいる天竺徳兵衛の市蔵に斬ってかゝったという大騒ぎ。その以来、侍の芝居見物ということが又やかましくなりまして、それまでは大小をさしたまゝで芝居小屋へ這入ることも出来たのですが、以来は大小をさして木戸をくゞること堅く無用、腰の物はかならず芝居茶屋にあずけて行くことに触れ渡されてしまいました。
それですから、侍が芝居を見るときには、大小を茶屋にあずけて、丸腰で這入らなければならない。つまり吉原へ遊びに行くのと同じことになったわけですから、物堅い屋敷では藩中の芝居見物をやかましく云う。江戸の侍もおのずと遠慮勝になる。それでもやっぱり芝居見物をやめられないと云う熱心家は、芝居茶屋に大小をあずけ、羽織もあずけ、そこで縞物の羽織などに着かえるものもある。用心のいゝのは、身ぐるみ着かえてしまって、双子の半纏などを引っかけて、手拭を米屋かぶりなどにして土間の隅の方で竊と見物しているものもある。いずれにしても、おなじ銭を払いながら小さく見物している傾きがある。どこへ行っても威張っている侍が、芝居[#「芝居」は底本では「芸居」]へくると遠慮をしているというのも面白いわけでした。
前置がちっと長くなりましたが、その侍の芝居見物のときのお話です。市ヶ谷の月桂寺のそばに藤崎余一郎という人がありました。二百俵ほど取っていた組与力で、年はまだ二十一、阿母さんと中間と下女と四人暮しで、先ず無事に御役をつとめていたのですが、この人に一つの道楽がある。それは例の芝居好きで、どこの座が贔屓だとか、どの俳優が贔屓だとか云うのでなく、どこの芝居でも替り目ごとに覗きたいというのだから大変です。ほかの小遣いはなるたけ倹約して、みんな猿若町へ運んでしまう。侍としてはあまり好い道楽ではありません。いつぞやお話をした桐畑の太夫――あれよりはずっと優しですけれども、やはり世間からは褒められない方です。
それでも阿母さんは案外に捌けた人で、いくら侍でも若いものには何かの道楽がある。女狂いよりは芝居道楽の方がまだ始末がいゝと云ったようなわけで、さのみにやかましく云いませんでしたから、本人は大手をふって屋敷を出てゆく。そのうちに一つの事件が出来した。というのは、文久二年の市村座の五月狂言は「菖蒲合仇討講談」で、合邦ヶ辻に亀山の仇討を綴じあわせたもの。俳優は関三に団蔵、粂三郎、それに売出しの芝翫、権十郎、羽左衛門というような若手が加わっているのだから、馬鹿に人気が好い。二番目は堀川の猿まわしで、芝翫の与次郎、粂三郎のおしゅん、羽左衛門の伝兵衛、おつきあいに関三と団蔵と権十郎の三人が掛取りを勤めるというのですから、これだけでも立派な呼び物になります。その辻番附をみただけでも、藤崎さんはもうぞく/\して初日を待っていました。
なんでも初日から五六日目の五月十五日であったそうです。藤崎さんは例の通りに猿若町へ出かけて行きました。さっきも申す通り、家から着がえを抱えて行く人もあり、前以て芝居町の近所の知人の家へあずけて置いて、そこで着かえて行く人もありましたが、藤崎さんはそれほどのこともしないで、やはり普通の帷子をきて、大小に雪踏ばきという拵え、しかし袴は着けていません。茶屋に羽織と大小をあずけて、着ながしの丸腰で木戸を這入る。兎も角も武家である上に、毎々のおなじみですから茶屋でも粗略には扱いません。若い衆に送られて、藤崎さんは土間のお客になりました。
たった一人の見物ですから、藤崎さんは無論に割込みです。そのころの平土間一枡は七人詰ですから、ほかに六人の見物がいる。たとい丸腰でも、髪の結い方や風俗でそれが武家か町人か十分に判りますから、おなじ枡の人たちも藤崎さんに相当の敬意を払って、なるだけ楽に坐らせてくれました。ほかの六人も一組ではありません、四人とふたりの二組で、その一組は町家の若夫婦と、その妹らしい十六七の娘と、近所の人かと思われる二十一二の男、ほかの一組は職人らしい二人連でした。この二組はしきりに酒をのみながら見物している。藤崎さんも少しは飲みました。
いつの代の見物人にも俳優の好き嫌いはありますが、とりわけて昔はこの好き嫌いが烈しかったようで、自分の贔屓俳優は親子兄弟のように可愛がる。自分の嫌いな俳優は仇のように憎がるというわけで、俳優の贔屓争いから飛んでもない喧嘩や仲違いを生じることも屡
ありました。ところで、この藤崎さんは河原崎権十郎が嫌いでした。権十郎は家柄がいゝのと、年が若くて男前がいゝのとで、御殿女中や若い娘達には人気があって「権ちゃん、権ちゃん」と頻りに騒がれていたが、見巧者連のあいだには余り評判がよくなかった。藤崎さんも年の割には眼が肥えているから、どうも権十郎を好かない。いや、好かないのを通り越して、あんな俳優は嫌いだと不断から云っているくらいでした。
その権十郎が今度の狂言では合邦と立場の太平次をするのですから、権ちゃん贔屓は大涎れですが、藤崎さんは少し納まりません。権十郎が舞台へ出るたびに、顔をしかめて舌打をしていましたが、仕舞にはだん/\に夢中になって、口のうちで、「あゝまずいな、まずいな。下手な奴だな。この大根め」などと云うようになった。それが同じ枡の人たちの耳に這入ると、四人連れのうちの若いおかみさんと妹娘とが顔の色を悪くしました。この女たちは大の権ちゃん贔屓であったのです。そのとなりに坐っていて、権十郎はまずいの、下手だのとむやみに罵っているのだから堪りません。おかみさんも仕舞には顳
に青い筋をうねらせて、自分の亭主にさゝやくと、めん鶏勧めて雄鶏が時を作ったのか、それとも亭主もさっきから癪に障っていたのか、藤崎さんにむかって「狂言中はおしずかに願います。」と咎めるように云いました。
藤崎さんも逆らわずに、一旦はおとなしく黙ってしまったのですが、少し経つと又夢中になって「まずいな、まずいな。」と口のうちで繰返す。そのうちに幕がしまると、その亭主は藤崎さんの方へ向き直って、切口上で訊きました。
「あなたは先程から頻りに山崎屋をまずいの、下手だの、大根だのと仰しゃっておいでゝございましたが、どう云うところがお気に召さないのでございましょうか。」
前にも申す通り、その当時の贔屓というものは今日とはまた息込みが違っていて、たといその俳優に一面識が無くとも、自分が蔭ながら贔屓している以上、それを悪く云う奴等は自分のかたきも同様に心得ている時節ですから、この男も眼の色をかえて藤崎さんを詰問したわけです。こういう相手は好い加減にあしらって置けばいゝのですが、藤崎さんも年がわかい、おまけに芝居気ちがいと来ている。まだその上に、町人のくせに武士に向って食ってかゝるとは怪しからん奴だという肚もある。かた/″\我慢が出来なかったとみえて、これも向き直って答弁をはじめました。むかしの芝居は幕間が長いから、こんな討論会にはおあつらえ向きです。
権十郎の芸がまずいか、拙くないか、いつまで云い合っていたところで、所詮は水かけ論に過ぎないのですが、両方が意地になって云い募りました。ばか/\しいと云ってしまえばそれ迄ですが、この場合、両方ともに一生懸命です。相手の連の男も加勢に出て、藤崎さんを云い籠めようとする。おかみさんや妹娘までが泣声を出して食ってかゝる。近所となりの土間にいる人達もびっくりして眺めている。なにしろ敵は大勢ですから、藤崎さんもなか/\の苦戦になりました。
ほかの二人づれの職人はさっきから黙って聴いていましたが、両方の議論がいつまでも果しがないので、その一人が横合から口を出しました。
「もし、皆さん。もう好い加減にしたらどうです。いつまで云い会った[#「云い会った」はママ]ところで、どうで決着は付きやあしませんや。第一、御近所の方達も御迷惑でしょうから。」
藤崎さんは返事もしませんでしたが、一方の相手はさすがに町人だけに、のぼせ切っているなかでも慌てゝ挨拶しました。
「いや、どうも相済みません。まったく御近所迷惑で、申訳もございません。お聴きの通りのわけで、このお方があんまり判らないことを仰しゃるもんですから……。」
「うっちゃってお置きなせえ。おまえさんが相手になるからいけねえ。」と、もう一人の職人が云いました。「山崎屋がほんとうに下手か上手か、ぼんくらに判るものか。」
「そうさな。」と、前の一人が又云いました。「あんまりからかっていると、仕舞には舞台へ飛びあがって、太平次にでも咬いつくかも知れねえ。あぶねえ、あぶねえ。もうおよしなせえ。」
職人ふたりは藤崎さんを横目に視ながらせゝら笑いました。
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