三
廿日正月という其の日も暮れて、宵闇の空に弱い星のひかりが二つ三つただよっていた。今夜も例のごとく寒い風が吹き出して、音羽の大通りに渦巻く砂をころがしていた。
「寒い、寒い。この正月は悪く吹きゃあがるな。ほんとうに人泣かせだ」
この北風にさからって江戸川橋の方角から、押し合うように身を摺り付けて歩いて来たのは、二人の中間である。どちらも少しく酔っているらしく、その足もとが定まらなかった。
「いくら寒くっても、ふところさえ温かけりゃあ驚くこともねえが、陽気は寒い。ふところは寒い。内そとから責められちゃあやり切れねえ」と、ひとりが云った。
「まったくやり切れねえ」と、他のひとりも相槌を打った。
「仕方がねえ。叱られるのを承知で、また御用人を口説くかな」
「いけねえ、いけねえ。うちの用人と来た日にゃあとてもお話にならねえ。それよりもお近に頼んだ方がいい。たんとの事は出来ねえが、一朱や二朱ぐれえの事はどうにかしてくれらあ」
「お近に……。おめえ、あの女に借りたことがあるのか」
「ほかの者にゃあどうだか知らねえが、おれには貸してくれるよ」
「まさか情夫になった訳じゃあるめえな」
「情婦になってくれりゃあいいが、まだそこまでは運びが付かねえ」
「それにしても、不思議だな。あの女がおめえに金を貸してくれると云うのは……。どうして貸してくれるんだよ」
「はは、それは云えねえ。なにしろ、おれには貸してくれるよ。おれが口説けば、お近さんは貸してくれるんだ」
「それじゃあ、おれも頼んでみようかな」
「馬鹿をいえ。おめえなんぞが頼んだって、四文も貸してくれるもんか。はははははは」
こんなことを話しながら、押し合ってゆく二人のうしろには、又ひとつ黒い影が付きまとっていた。音羽の七丁目から西へ切れると、そこに少しばかりの畑地がある。そこへ来かかった時に、むこうから拍子木の音が近づいて、火の番の藤助の提灯がみえた。
「今晩は」と、藤助が先ず声をかけた。
「やあ、御苦労だな」と、中間のひとりが答えた。「べらぼうに寒いじゃあねえか」
「お寒うございますな」
「いくら廻り場所だって、こんなところを正直に廻ることもあるめえ。ここらにゃあ悪い狐がいるぜ」と、他のひとりが笑いながら云った。
「なに、狐の方でもお馴染だから大丈夫ですよ」と、藤助も笑いながら云った。「おまえさん方は今夜も御機嫌ですね」
「あんまり御機嫌でもねえ。無けなしの銭でちっとばかりの酒を飲んで、これから帰ると門番に文句を云われて、御用人に叱られて、どうで碌なことじゃあねえのさ」
「そう云っても、こいつにはお近さんと云ういい年増が付いているのだから仕合わせだよ」
「ええ、つまらねえことを云うな」
「お近さん……」と、藤助の眼は暗いなかで梟のように光った。「お近さんと云うのは、お屋敷のお近さんですかえ」
「むむ、そうだ」
中間はなま返事をして、そのまま歩き出した。
他のひとりも続いて行った。藤助はまだ何か訊きたそうな様子で、ふた足ばかり行きかけたが、又思い直したらしく、中間どものうしろ姿を見送ったばかりで引っ返して大通りへ出ようとするとき、彼は何かに驚かされたように、俄かに畑のかたを見返ると、そこには小さくうずくまっている物があった。それは狐ではない。人であるらしかった。
人は這うように身をかがめて、畑から往来へ忍び出たかと思うと、草履の音をぬすんで、かの中間共のあとを追って行くらしかった。それと同時に、藤助の提灯の火は風に吹き消されたのか、わざと吹き消したのか、たちまちに暗くなった。彼もまた抜き足をして、その黒い影のあとを追って行った。
一方にこういう事のあるあいだに、又一方には目白坂下の暗い寺門前に、二つの暗い影がさまよっていた。それは黒沼伝兵衛と瓜生長三郎で、かれらは昼間の約束通りに、白い蝶の正体を見とどけに来たのである。長三郎は小声で云った。
「小父さん。この辺ですね」
「この辺だ。きのう源蔵に案内させて、よく調べて置いた。蝶々はあの生垣をくぐって、墓場へ舞い込んだと云うことだ」と、伝兵衛は暗いなかを指さした。
「毎晩ここらへ出るのでしょうか」
「それは判らない。だが、まあ、ここらに網を張っているよりほかはあるまい。風を避けるために、この門の下にはいっていろ」
「なに、構いません。わたしはそこらへ行って見て来ましょうか」
「むむ、犬もあるけば棒にあたると云うこともある。ただ突っ立っているよりも、少し歩いてみるかな」
「小父さんはここに待ち合わせていて下さい。わたしがそこらを見廻って来ます」
云うかと思うと、長三郎は坂の上へむかって足早に歩き出した。風はなかなか吹き止まないで、寺内の大きい欅の梢をひゅうひゅうと揺すって通ると、その高い枝にかかっている破れ紙鳶が怪しい音を立ててがさがさと鳴った。
強い風をよけながら、暗いなかに眼を配って、長三郎は坂の上まで登り切ると、とある屋敷の横町から提灯の火がゆらめいて来た。どこをどう廻って来たのか知らないが、火の番の藤助はここへ出て来たのである。彼は拍子木を鳴らしていなかったが、その提灯のひかりで長三郎は早くも彼を知った。
「おい、火の番。今夜はここらで蝶々の飛ぶのを見なかったかね」と、長三郎は近寄って声をかけた。
「おお、瓜生の若旦那ですか」と、藤助は少しく提灯をかざして、長三郎のすがたを透かし視た。「あなたは蝶々を探しておいでなさるんですか」
「おとといの晩、うちの姉さんがここらで白い蝶々を見たと云うから、わたしも今夜さがしに来たのだ。おまえも見たことがあるそうだね」
藤助はそれに答えないで、また訊いた。
「その蝶々をさがして、どうなさるんです」
「どうと云うことも無いが、その蝶々が何だかおかしいから、つかまえて見ようと思うのだ」
「つかまえて……どうなさるんです」
「唯、つかまえるだけの事だ」と、長三郎はその以上のことを洩らさなかった。
「それならばお止めなさい」と、藤助は諭すように云った。「白い蝶々の飛ぶことはあります。寒い時に蝶々が飛ぶ。……考えてみれば不思議ですが、それには又なにか仔細があるのでしょう。お武家のあなた方がそんなことにお係り合いなさらぬ方がよろしいんです」
「いや、少し訳があるので係り合うのだ。それで、おまえは今夜も見たのか」
藤助は首を振った。
「その蝶々の飛ぶのは、ここらに限ったことじゃありません。毎晩屹度ここらへ出ると決まっているんじゃありませんから、探してお歩きなすっても無駄なことですよ。今夜はあなたお一人ですか。それともお連れがあるんですか」
なんと答えてよいかと、長三郎はやや躊躇したが、やがて正直に云った。
「実は黒沼の小父さんと一緒に来たのだ」
「黒沼の旦那……」と、藤助は冷やかに云った。「その旦那はどこにおいでです」
「坂下の門前に待っているのだ」
「はあ、そうですか」
藤助の声はいよいよ冷やかに聞こえたばかりでなく、提灯の火に照らされた其の顔には冷やかな笑いさえ浮かんだ。
「今も申す通り、ここらを探しておいでになっても、白い蝶々はめったに姿を見せやあしませんよ。かぜでも引かないうちに、早くお引き揚げになった方が、よろしゅうございましょう」
彼はこう云い捨てて、軽く会釈したままで立ち去ったが、長三郎はまだ其処にたたずんでいた。
拍子木の音は坂を横ぎって、向う横町の方へだんだんに遠くなるのを聞きながら、長三郎は考えた。藤助の話によると、白い蝶は毎晩ここらに出ると限ったわけでも無いと云う。それは自分も覚悟して来たのであるが、ここらを毎晩廻っている火の番がそう云う以上、めったに姿を見せない蝶をたずねて、いつまでも寒い風のなかに徘徊しているのは、なんだかばかばかしいように思われて来た。
「いっそ小父さんに相談して来ようか」
彼は引っ返そうとして、また躊躇した。折角ここまで踏み出して来ながら、まだ碌々の探索もしないで引っ返しては気怯れがしたようにでも思われるかも知れない。長三郎は意気地なしであると、黒沼の小父さんに笑われるのも残念である。ともかく、もう少し歩いてみた上の事だと、長三郎は思い直して又あるき出したが、闇のなかには彼の眼をさえぎる物もなかった。
まだ五ツ半(午後九時)を過ぎまいと思われるのに、ここらの屋敷町はみな眠ってしまったように鎮まっていた。唯きこえるのは風の音ばかりである。
長三郎はあても無しに其処らを一巡して、坂の上まで戻って来ると、だんだんに更けてゆく夜の寒さが身に沁み渡った。
「小父さんも待っているだろう」
もうこのくらいで引っ返してもよかろうと思って、長三郎は坂を降りた。もとの寺門前へ来かかった時に、彼は俄かに立ちどまって、口のうちであっと叫んだ。大きい白い蝶が闇のなかにひらひらと飛んでゆくのを見たのである。彼は眼を据えて、その行くえを見定めようとする間に、怪しい蝶の影は忽ち消えるように隠れてしまった。
早くそれを小父さんに報告しようと、彼は足早に門前へ進み寄ったが、そこに伝兵衛のすがたは見いだされなかった。わたしの帰りの遅いのを待ちかねて、小父さんもどこへか出て行ったのかと、長三郎は暗い門前を見まわしているうちに、その足は何物にかつまずいた。それが人であるようにも思われたので、彼はひざまずいて探ってみると、それは確かに人であった。しかも大小をさしていた。
長三郎ははっと思って慌てて其の人をかかえ起こした。
「小父さんですか。黒沼の小父さん。……小父さん」
人はなんとも答えなかった。しかもそれが伝兵衛であるらしいことは、暗いなかにも大抵は推察されたので、長三郎はあわてて又呼びつづけた。
「小父さん……小父さん……。黒沼の小父さん」
その声を聞き付けたらしく、どこからか提灯の火があらわれた。それは火の番の藤助である。彼は提灯をかざして近寄った。
「どうかなすったんですか」
「あかりを見せてくれ」と、長三郎は忙がわしく云った。
その火に照らされた人は、まさしく黒沼伝兵衛であった。彼は刀の柄に手をかけたままで、息が絶えていた。慌てながらもさすがは武家の子である。長三郎は直ぐにその死骸をひきおこして身内をあらためたが、どこにも斬り傷または打ち傷らしい痕も見いだされなかった。
「早く水を持って来てくれ」と、長三郎は藤助を見かえった。
藤助は提灯をかざした儘で、唯だまって突っ立っているので、長三郎は焦れるように又云った。
「おい。この寺へ行って、早く水を貰って来てくれ」
「寺はもう寝てしまいましたよ」と、藤助はしずかに云った。
「それじゃあ井戸の水を汲んで来てくれ」
「水を飲ませたぐらいで、生き返るでしょうか」
「なんでもいいから、早く水を汲んで来い」と、長三郎は叱り付けるように叫んだ。
藤助は無言で寺の門内にはいった。提灯は彼と共に去ってしまったので、門前はもとの闇にかえった。その暗いなかで、長三郎は黒沼の小父さんの死骸をかかえながら、半分は夢のような心持で、氷った土の上に小膝をついていた。
その夢のような心持のなかでも、彼はかんがえた。小父さんが急病で仆れたので無いことは、刀の柄に手をかけているのを見ても判っている。小父さんは何物にか出会って、刀をぬく間もなしに仆れたのであろう。長三郎はかの白い蝶を思い出した。自分はたった今、こちらで怪しい蝶の影をみたのである。小父さんはかの蝶のために仆されたのではあるまいか。長三郎は一種の恐怖を感ずると共に、又一方にはおさえがたい憤怒が胸をついた。
「畜生、おぼえていろ」
彼は肚のなかで叫びながらあたりの闇を睨んでいるとき、藤助の提灯の火が鬼火のように又あらわれた。彼は片手に小さい手桶をさげている。
血のめぐりが悪いのか、あるいは意地が悪いのか、こういう場合にも彼はさのみに慌てている様子もみせず、いつもの足取りで徐かに歩いて来るらしいのが、又もや長三郎を焦燥たせた。
「おい。早く……早く……」
呶鳴り付けられても、彼はやはり騒ぎもせず、無言で門へ出て来ると、長三郎は引ったくるようにその手桶を受け取った。手桶に柄杓が添えてあるので、長三郎はその柄杓に水を汲んで、伝兵衛の口にそそぎ入れた。
「小父さん……小父さん……。しっかりして下さい」
伝兵衛は答えなかった。柄杓の水も喉へは通らないらしかった。それが当然であると思っているかのように、藤助は黙って眺めていた。
「仕方がない。寺へ連れ込んで、医者を呼ぼう」と、長三郎は柄杓を投げ捨てながら云った。
藤助はやはり無言で立っていた。どこかで梟の声がきこえた。
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