一一
医者の診察によると、留吉の怪我は幸いに差したることでも無かった。しかし吉五郎は寺の納所にたのんで、あしたの朝は駕籠を迎いに遣すから、今夜だけはここへ寝かして置いてくれと云った。寺では少しく迷惑らしいようであったが、相手が相手であるから情なく断わるわけにも行かないので、結局承知して吉五郎を帰した。
さっきからよほどの時を費したので、今さら墓場の探索をするのも無駄だと諦めて、吉五郎はそのまま表へ出た。それから神田へ帰る途中、江戸川橋でお冬のすがたを認め、更に長三郎にも出逢ったことは、前に記した通りである。そこで吉五郎がどんな発見をしたかは、留吉はもちろん知らなかったが、親分が自分ひとりをここに残して行った料簡はよく判っていた。
「あの医者は手軽そうなことを云ったが、なかなかそうは行かねえらしい。腕も足もずきずきと骨が痛んで、自由に身動きもならねえ。あしたは駕籠に乗って骨つぎの医者へ行って、よく診て貰わなけりゃあならねえ」
寺の納所たちへ聞こえよがしに、彼はこんなことを云って、わざと苦しそうに顔をしかめていた。
そこに寝床を敷いてもらって、彼は頭から衾を引っかぶってしまったが、自分には大事の役目のあることを承知しているので、今夜は眠らない覚悟をきめて、しずかに夜の更けるのを待っていると、目白不動の四ツ(午後十時)の鐘を聞いて、寺内もひっそりと鎮まった。
留吉はこのあいだからこのあたりを徘徊して、附近の様子を探っていたので、この寺の相当に大きいことを知っていた。建物は古いが手入れもよく行き届いていて、寺内には住職のほかに納所坊主が二人、小坊主が一人、若い寺男が一人、都合五人が住んでいる。寝床を敷きに来た小坊主に訊くと、住職の名は祐道、納所は善達と信念、寺男は弥七と云うのである。
「ほかの坊主はともかくも、和尚の面つきがどうも気に入らねえ」と、留吉は寝ながらに考えた。
外の風の音はまだ止まないで、枕もとの雨戸も時々に揺れるように響く。その庭さきで何やら人の争うような物音がきこえた。猫や犬が狂っているのではない。確かに人と人とが挑み争っているのである。
留吉は寝床から這い出して、なおも聴き耳を立てていると、そとの人は息をはずませて争っている。さらに障子をそっとあけて、縁側まで這い出して雨戸越しに窺うと、外の人は二人であるらしく、一人は男、一人は女であることも、その息づかいで大かたは想像された。かれらは得物を取って闘っているのでなく、空手の掴み合いであるらしかった。
夜ふけの寺の庭さきで、男と女が息を切って掴み合い、むしり合っている。それだけでも唯事ではない。留吉は雨戸の隙間から覗いてみようと燥ったが、何分にも戸締まりが厳重に出来ている上に、長い縁側の戸袋は遠いところにあるので、そこまで這って行って雨戸を繰り明けるのは容易ではなかった。よんどころなく雨戸の隙間に耳を押し付けて、一心に外の物音を聴き澄ましていると、その物音は吹き消されたように忽ち鎮まって、風の音のほかには何んにも聞こえなくなった。
留吉は不思議に思った。なんだか気味が悪いようにも感じた。今まで聞こえていた物音は自分の空耳であったのか、あれほどの格闘が俄かにひっそりと鎮まる筈がない。一方が倒れたならば、尚更その物音がきこえる筈であるのに、何事も無しに忽ち鎮まってしまうのは可怪しい。しかも自分の耳にきこえたのは、風音でもなく、木の葉の摺れ合う音でもなく、たしかに人と人とが挑み合う音であった。
「変だぞ」
暫く縁側に這い屈んで、留吉は外の様子を窺っていたが、怪しい物音は再び聞こえなかった。根負けがして寝床へ戻ったが、彼はいよいよ眼が冴えて眠られなかった。
どうで夜明かしと度胸を決めているのであるから、眠られぬのは平気であったが、今夜の出来事について彼はいろいろに考えさせられた。男は誰か、女は何者か、なんのわけで夜更けに庭さきで、掴み合っていたのか。自分もその物音を聞いたばかりで、その正体を見とどけないのであるから、物に馴れている留吉にも見当が付かなかった。
張り詰めている気もゆるんで、彼は暁け方から思わずうとうとと眠った。再び眼をあくと、いつの間にか雨戸は開け放されて、縁さきには朝の光りが流れ込んでいた。手足のまだ痛むのを堪えながら、留吉は寝床の上に起き直ると、枕もとの煙草盆には新らしい火が入れてあった。自分の寝ているうちに、小坊主が覗きに来たものと見える。彼は自分の油断を後悔しながら、不自由の手で煙草を一服すった。
「寝首を掻かれねえのが仕合わせだった」と、彼は独りで苦笑いした。
寺では寝巻を貸してやろうと云ったのを断わって、彼はゆうべからごろ寝をしていたので、そのまま這い起きて羽織をかさねた。例の物音が気になるので、彼はそっと縁側へ出てみると、庭さきはもう綺麗に掃いてあって、そこで掴み合いのあったらしい形跡は残されていなかった。それでも彼は庭下駄を突っかけて、覚束ない足どりで庭に降りた。
ゆうべの風はいつか吹きやんで、今朝はうららかに晴れていた。庭のまん中にある桜の大樹も、もうひと雨でほころびそうに紅らんで、春をよろこぶ小鳥の声が賑やかに聞こえた。よく見ると、その木の下には古い苔を踏み荒らした足跡が残っている。怪しい物音は自分の空耳でなかったことを確かめて、留吉は又もや独りで笑いながら、身を屈めてそこらあたりを見まわしたが、別にこれぞという物も見いだされなかった。
痛むからだを我慢して、さらに墓場の方へ行きかかる時、ふと見かえると住職の祐道が法衣すがたで自分のうしろに突っ立っていたので、留吉はすこし慌てながら挨拶すると、祐道はその蒼ざめた顔に笑みを含みながら云った。
「お痛み所はいかがですな」
「おかげさまで、よほど楽になりました」
「それは結構でござる。まあ、ご大切になさい。昨夜も申し上げた通り、わたしも風邪で引き籠って居りましたが、今朝はよんどころない法用で唯今から外出いたします。吉五郎どのが見えましたらば、宜しくお伝えください」
「行ってらっしゃい」と、留吉も丁寧に会釈した。
「では、御免」
祐道はそのまま立ち去った。そのうしろ姿が植え込みの八つ手の大きな葉かげに隠れるのを見送っているうちに、八つ手の葉が二、三枚新らしく折れているらしいのが留吉の眼についた。近寄って見ると、下葉は果たして折れていた。しかも何者かが無理に掴んで引き折ったらしく見えた。おそらく昨夜の格闘の際に、一方の相手が何かのはずみに下葉を掴んだのであろう。そう思いながら更に見まわすと、その折れかかった下葉の裏に白い糸屑が引っかかっていた。早朝に掃除をした者も、さすがにそこまでは気がつかなかったらしい。留吉はその糸屑をとって、朝のひかりに透かしてみると、糸の長さは四、五寸で、俗に菅糸という極めて細いものであった。
女の住んでいない寺中では、僧侶が針や鋏を持つことが無いとも云えない。その糸屑が庭さきに散っていたとて、さのみ怪しむにも足らないかも知れないが、留吉はゆうべの一件を思い合わせて、この糸屑にも何かの仔細があるらしく疑われたので、あたりを窺いながらそっと自分の袂に忍ばせた。
庭さきに余り長く徘徊していて、他の僧らに怪しまれては何かの邪魔であると思ったので、留吉は縁側に這いあがって、再び元の寝床の上に坐っていると、やがて小坊主が朝飯を運んで来て、きょうは起きられるかと訊いたので、どうにか起きられるようにはなったが、まだ手足の自由が利かないから、迎いの駕籠の来るまでは斯うして置いてくれと、留吉は頼んだ。小坊主はこころよく承知して、どうぞごゆっくりと答えて去った。
午に近い頃に、吉五郎は迎いの駕籠を吊らせて来て、納所坊主や寺男に礼を云って、留吉を受け取って出た。出るときに、吉五郎は寺男の弥七に幾らかの銀をつつんでやった。
「親分。不動さまの境内まで駕籠をやってください」と、留吉は小声で云った。
駕籠は音羽の大通りへ出ないで反対の方角にむかって目白坂をのぼった。不動の門前に駕籠をおろさせて、駕籠屋をそこに待たせて置いて、留吉は親分に扶けられながら門内にはいったが、人目を憚る彼等は、客をよぶ掛茶屋をよそに見て、鐘撞堂の石垣のかげに立った。
「どうだ、留。早速だが、なにか種は挙がったか」と、吉五郎は頬かむりの顔をすり寄せて訊いた。
「別に面白いこともありませんでしたが……。でも、一つ二つ……」
留吉は先ず夜なかの格闘の一件を話した。それから彼の糸屑を出してみせると、吉五郎は一と目見て笑い出した。
「はは、これだ、これだ。実はこの菅糸をおれも見たよ」
「どこで見ました」
「江戸川橋の上で……。ゆうべおめえに別れてから、風の吹くなかを帰って行くと、橋の上で火の番の娘を見つけたんだ」
「お冬があんな所をうろついていましたか」
「一旦ここを逃げてから、どこをどう迂路ついていたのか知らねえが、橋の上で若い侍と話していて、おれの足音を聞きつけると直ぐにまた逃げてしまった」
「その侍は何者です」
「その侍は御賄組の瓜生長三郎……。このごろ家出をしたお北という娘の弟だ。いや、それはまあ後のことにして、おれがその侍と話しているうちに、一つの白い蝶々がひらひらと舞いあがった」
「ふうむ。白い蝶々が又出ましたかえ」と、留吉も眼をみはった。
「おれの鑑定では、お冬の袂から地面に一旦落ちたのを、強い風に吹きあげられて……。まあ、そう思うより仕方がねえ」と、吉五郎は説明した。「侍の持っている提灯の火で透かして視ると、その蝶々には細い糸が付いている……。細くって、光っているのを見ると、これだ、この菅糸だ。中途で切れたと見えて、やっぱり七、八寸ぐらいしか付いていなかったが、おれの眼には確かに菅糸と見えたんだ」
「その蝶々はどうしました」
「つかまえようと思ううちに、風の吹きまわしで川のなかへ落ちてしまったが、蝶々も生き物じゃあねえ、薄い紙か絹のような物で上手に拵えたんだろうと思う。暗いなかで光るのは、羽に何かの薬が塗ってあるんだな。早く云えばお化けのような物だ」
この時代には、子供の玩具に「お化け」と云うものがあった。燐のたぐいを用いたもので、それを水に溶かして人家の板塀または土蔵の白壁などに幽霊や大入道のすがたを書いて置くと、昼ははっきりと見えないが、暗い夜にはその姿が浮いたように光って見えるのである。もちろん、子供の幼稚な悪戯に過ぎないので、それに驚かされる者は少ないのであるが、気の弱い娘子供などは、やはりこの「お化け」を恐れ嫌った。怪しい蝶が闇夜に光るのは、それに類似の手段を用いたのであろうと、吉五郎はひそかに想像していたのであった。
「そうかも知れませんね」と、留吉もうなずいた。「さもなけりゃあ、寒い時節に蝶々の飛び出す筈がありませんからね」
「そこで、その蝶々がどうして飛ぶか……。拵え物を飛ばせる以上、誰か糸を引く奴がなけりゃあならねえ。おれがだんだん調べてみると、その蝶々が飛び出すのは風の吹く晩に限っているらしい。そうなると、いよいよ怪しい。といって、小さい蝶々を飛ばせるには、どんな糸を使うのか、それとも何かの機関仕掛けにでもなっているのか。おれは上野の烏凧から考えて、多分この菅糸を使うんだろうと鑑定していた。おめえも知っているだろう。花どきになると、上野じゃあ菅糸の凧を売っている。薄黒いから烏凧というのだ。あの凧は紙が薄い上に、糸が極細の菅糸だから風のない日でもよくあがる。今度の蝶々にも菅糸をつけて、風の吹く晩に飛ばせるんだろう。そうして、暗い晩を狙ってやりゃあ自分の姿はみえねえ、蝶々だけが光る……。まあ、こんな手妻だろうと思っていた。ところが案の通り、ゆうべの蝶々には菅糸が付いていた。おめえも寺の庭で菅糸を拾った。万事が符合する以上は、もう間違いはあるめえ。蝶々の正体は大抵判ったと云うものだ」
「そうです、そうです」と、留吉は又うなずいた。「成程、親分の云う通り、お化けと烏凧で、手妻の種はすっかり判った。ところで、それを使う奴は……」
「お冬という奴だろう」
「なぜそんな事をするんでしょう。唯の悪戯でもあるめえが……」
「唯のいたずらじゃあねえに決まっている。それにはお冬を使って、何かの仕事を目論んでいる奴があるに相違ねえ。誰かがお冬の糸を引いて、お冬がまた蝶々の糸をひくと云うわけだから、順々に手繰って行かなけりゃあ本家本元は判らねえ。それにしても、ここまで漕ぎ付けりゃあ大抵の山は見えているよ」と、吉五郎は笑っていた。
「そうすると、お冬はゆうべ又あの寺へ舞い戻って来たんでしょうか」と、留吉はまた訊いた。
「そうのようにも思われる。そうでねえようにも思われる。おれもそれを考えているんだが……」
「でも、その菅糸が落ちていたんですよ」
「この一件はお冬ばかりじゃあねえ。大勢の奴らが係り合っているらしいから、糸屑だけでお冬とも一途に決められねえ」と、吉五郎はまだ考えていた。「だが、まあ、今の話はこれだけにしよう。来たついでと云っちゃあ済まねえが、不動さまにお詣りをして別れようぜ」
二人は本堂の方へ足を向けた。
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