一〇
お冬は長三郎の手を固く握ったままで、更にささやいた。
「あなたの探している人は見付かりましたか」
なんと答えようかと長三郎はまた躊躇したが、結局思い切って正直に云った。
「見付からない」
「教えてあげましょうか」
「おまえは知っているのか」
「知っています」
「ほんとうに知っているのか……。教えてくれ」と、長三郎は疑うように訊いた。
「あなたの探している人は……。御近所にかくれています」
「近所とは……。どこだ」
「佐藤さまのお屋敷に……」と、お冬は左右を見かえりながら声を低めた。
「佐藤……孫四郎殿か」と、長三郎は意外らしく訊き返した。「どうして知っている」
それにはお冬も答えないので、長三郎は摺り寄って又訊いた。
「そこには幸之助と……。まだほかにも隠れているのか」
自分の姉の名をあらわに云い出し兼ねて、長三郎は探るようにこう訊くと、お冬は頭をふった。
「いいえ、黒沼のお婿さんだけです」
長三郎は失望した。勿論、幸之助の詮議も必要であるが、さしあたりは姉のゆくえを探しあてるのが自分の役目である。その姉は佐藤の屋敷にいないと聞いて、彼は折角の手がかりを失ったようにおもった。それでも再び念を押した。
「黒沼幸之助だけは確かに佐藤の屋敷に忍んでいるな」
「はい」
長三郎は焦れて来たので、とうとう姉の名を口にした。
「わたしの姉のお北は一緒にいないのか」
「おあねえさんは御一緒じゃありません」
「姉の居どころをおまえは知らないか」
お冬は又だまってしまった。あくまでも焦らされているように思われて、年の若い長三郎は苛々した。
「これ、正直に教えてくれ。頼む」
「お頼みですか」
「頼む、頼む」と、長三郎は口早に云った。
「わたくしもお頼み申したいことがありますが……」と、お冬は自分の顔を男の頬へ摺り付けるようにして、訴えるようにささやいた。
もうこうなっては前後を省みる暇もないので、長三郎は素直に答えた。
「おまえの頼むこと……。なんでも肯いてやる。早く教えてくれ」
「では、一緒においでなさい」と、お冬は立ち上がった。
彼女はやはり男の手を掴んで放さなかった。
この上は彼女の心のままに引き摺られて行くのほかは無いので、長三郎も無言で歩み出した時、宵からの生あたたかい風が往来の砂をまいてどっと吹き付けた。その砂を顔に浴びて、男も女もあわてて両袖を掩ったので、繋がっている手と手が自然に離れた。長三郎の持っている提灯の火もあやうく吹き消されそうになった。
その風のうちに、お冬はなんの音を聞いたのか、俄かにうしろを見返ったかと思うと、長三郎のそばを颯と離れて、橋を南へむかって飛鳥のごとくに駈け去った。取り残された長三郎は呆気に取られて、再びそれを追い捕える気力もなく、唯ぼんやりと其のゆくえを眺めていると、やがて草履の音が北の方から近づいて、頬かむりをした男がうしろから彼に声をかけた。
「あなたはあの女とお知合いでございますか」
相手が何者か判らないので、長三郎は突っ立ったまま睨んでいると、男は頬かむりの手拭を取って丁寧に会釈した。
「わたくしは神田の三河町に居りまして、お上の御用を勤めている吉五郎という者でございます。失礼ながらあなたは……」
長三郎も黙っていられなくなった。
「わたしは音羽の御賄屋敷にいる瓜生長三郎……」
「はあ、瓜生さんの御子息でございましたか」
丁度いい人に出逢ったと云うように、吉五郎は馴れなれしく摺り寄って来た。
「あの女は音羽の火の番の娘じゃございませんか」
長三郎はうなずいた。
「御近所ですから、前から御存じなんでしょうな」と、吉五郎はまた訊いた。
「知っています」
「そこで、くどくおたずね申すようですが、今ここでどんなお話をなすったんでしょう。いや、こんなことを申し上げてはたいへん失礼でございますが、これも御用とおぼしめして御勘弁をねがいます。実は先刻あの女を取り押さえて、少々取り調べて居ります処へ、思いもよらない邪魔がはいりまして……」
云いかけた時に、強い南風が又もやどっと吹き寄せて来て、二人の顔をそむけさせたが、その風のなかで何を見付けたのか、吉五郎はあわててふた足三足かけ出した。一羽の白い蝶が風に吹き揚げられたように、地を離れてひらひらと空を舞って行くのである。長三郎もそれを見つけて、思わずあっと声をあげた。
「若旦那。つかまえて下さい」
吉五郎はすぐに蝶を追った。長三郎も一緒に追った。しかも、あいにくに強い風が又吹き付けたので、蝶は橋の上から斜めに飛んで、川の上に吹きやられてしまった。
「水に落ちたかな」と、長三郎は提灯をかざしながら、残念そうに云った。
「そうでしょう。川の方へ吹き飛ばされちゃあ仕様がありません」と、吉五郎も残念そうに水の上を覗いていた。「しかし若旦那。あなたは何か御覧になりませんでしたか」
「なにを見たかと云うのだ」
「あの蝶々の飛んで行くときに、何か御覧になりませんでしたか」
「いや、別に……」
「そうでしたか」と、吉五郎は微笑みながらうなずいた。
その一刹那に、長三郎はふと心付いた。怪しい蝶はよそから飛んで来たのでなく、そこらの地面から吹き揚げられたらしい。暗いなかで不意に起こったことであるから、もちろん確かには判らないが、地に落ちていた蝶が強い風のために空中へ吹き揚げられたのではあるまいか。生きた蝶か死んだ蝶か。あるいはお冬が怪しい蝶を袂にでも忍ばせていて、故意か偶然に落として行ったのではあるまいか。その疑いを解こうとして、彼は更に訊き返した。
「おまえは何か見たのか」
「いや、別に……」と、吉五郎は笑っていた。
自分の返事を鸚鵡[#ルビの「おうむ」は底本では「おおむ」]返しにして、冷やかに笑っているような岡っ引の態度を、長三郎は小面が憎いようにも思った。彼は何をか見付けたに相違ない。そうして、意地わるく秘しているのである。秘されるほど聞きたがるのが人情であるのに、まして今の場合、長三郎はあくまでもその秘密を探り知りたいので、忌々しいのを堪えながらおとなしく訊いた。
「おまえは何か見たらしい。見たなら見たと云って正直に教えてくれ。わたしもあの蝶々について詮議をしているのだから……」
「そうですか」と、吉五郎はすこし考えながら答えた。「折角ですが、それは申し上げられません。あなたも御覧になったのなら格別、わたくしの口からは申されません。こう申したら、定めて意地のわるい奴だとおぼしめすかも知れませんが、御用を勤めている者はみんなそうです。そこで、あなたはどういうわけで、あの蝶々を御詮議なさるんです」
「別にどうと云うこともないが、このごろ世間で評判が高いから……」
「唯それだけの事でございますか」と、吉五郎は相手の顔色をうかがいながら云った。「まだほかに、何か仔細があるのじゃあございませんか」
「ほかに仔細はない」と、長三郎は強く云い切った。
「仔細がなければよろしいのですが……」と、吉五郎は又もや意味ありげに云った。「時におあねえ様はもうお屋敷へお帰りになりましたか」
長三郎はぎょっとした。さすがは商売だけに、岡っ引は早くも姉の家出を知っているのである。さてその返答をどうしたものかと、彼も即座の思案に迷っていると、吉五郎は諭すように云った。
「若旦那。わたくしは大抵のことを知っています。蝶々のことも大抵は見当が付きました。やっぱりわたくしの鑑定通りでした。近いうちにきっと埒をあけてお目にかけます。おあねえ様の御安否もやがて判りましょう。御姉弟のことですから、おあねえ様のゆくえをお探しなさるのはあなたの御料簡次第ですが、蝶々の一件はあなた方がお手出しをなさらずに、どうぞわたくし共にお任せください。素人がたに荒らされると、かえって仕事が面倒になりますから……。お父さまにもよくそう仰しゃって下さい」
こうなると、多年の功を積んだ岡っ引と、前髪のある若侍とは、まったく相撲にならないのは判り切っているので、長三郎も意地を張るわけには行かなくなった。
「おまえは姉のありかを知っているのか」
「それは存じません。しかし探索の糸を手繰って行けば、自然に判ることだと思います。もし知れましたらば早速におしらせ申します。自分の手柄をするばかりが能じゃあありません。お屋敷の御迷惑にならないようにきっと取り計らいますから、御安心ください。もうおいおいに夜が更けます。今晩はこれでお別れ申しましょう」
行きかけて、吉五郎はまた立ち戻った。
「唯今も申した通りですから、あなた方は決して蝶々の一件におかかわり合いなさるな。悪くすると、あなた方のおからだに何かの間違いが無いとも限りませんから……」
嚇すように云い聞かせて立ち去るうしろ姿を、長三郎は無言で見送っていた。
吉五郎が最後の一言はあながちに嚇しばかりでは無い、現に黒沼伝兵衛は目白の寺門前で怪しい横死を遂げたのである。それを思うと、長三郎も今更のように一種の不安を感じて、どこにどんな奴が自分を付け狙っているかも知れないと、俄かに警戒するような心持にもなった。そうして、風の音にも油断なく耳と眼とを働かせながら、暗い夜道を提灯に照らして帰る途中、彼はいろいろに考えた。
今夜のことはすべて謎である。お冬の云うことも、吉五郎の云うことも、半分は判っているようで半分は判らない。お冬は自分をどこへ誘って行くつもりであったのか、吉五郎はなにを見付けたのか、長三郎にはよく判らないのである。彼は怪しい娘と岡っ引とに焦らされているようにも感じた。
予想以上に帰りが遅かったので、瓜生の父も母もやや心配していたが、無事に戻って来た我が子の顔をみて、まず安心した。長三郎はきょうの探索の結果を報告して、どこにも姉の立ち廻ったらしい形跡のないことを説明すると、父の顔色は陰った。
「不孝者め。困った奴だ。あしたは非番だから、おれも探しに出よう。まだほかにも心あたりはある」
長三郎はお冬に出逢ったことを報告すると、長八の眉はまた皺められた。
「してみると、お冬という女はお北のゆくえを知っているのか。おれも最初から火の番のことが気にかかっていたのだが、やはり何かの係り合いがあると見えるな。それにしても黒沼幸之助が佐藤孫四郎殿の屋敷に忍んでいるとはいいことを聞き出した。どういう訳があるか知らないが、本人をいったん隠まった以上、ひと通りの掛け合いでは素直に本人を渡すまい。存ぜぬ知らぬとシラを切るに相違ないから、なんとか手だてをめぐらして、無事に幸之助を受け取る工夫をしなければなるまい。それまでは誰にも他言するなよ」
吉五郎に関する報告を聞いて、長八はまた云った。
「三河町の吉五郎の名はおれも聞いている。岡っ引仲間でもなかなかの腕利きだそうだ。それがもう大抵は見当を付けたと云う以上、蝶々の方はどうにか埒が明くのだろう。こうなると、蝶々はどうでもいい、一日も早くお北と幸之助をさがし出して、こっちの埒を明けなければならない」
父としてはこう云うのが当然であると、長三郎も思った。蝶の詮議などはしょせん一種の物好きに過ぎない。それよりも姉のゆくえ詮議が大事であると考えたので、彼は父とあしたの探索の打ち合わせをして寝床にはいった。しかも彼は眼が冴えて眠られなかった。どうでもいいとは思いながらも、やはり彼は蝶のことが気にかかってならない。お冬と白い蝶と、その二つを結び付けて、彼はなんとかしてその謎を解こうと試みたが、結局は無駄な努力に終った。
長三郎が眠られないあいだに、おなじく眠らない人があった。それは吉五郎の子分の留吉で、彼は寺のひと間に衾をかぶって、そら寝入りをしながら寺内の様子を窺っていた。
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