四
「親分、どうしますね」と、三州屋を出ると松吉は訊いた。きょうももう八ツ(午後二時)過ぎで、寒い風が又吹き出して来た。
「強情なようだが、おれはまだ思い切れねえ」と、半七は考えながら云った。「殺されたのはお俊で、殺したのは万力だ」
「碁盤はお俊の家にあったのでしょうか」
「まあ、そうだろうね。伊勢屋は旧い質屋だから、流れ物か何かで、好い品を持っていて、それをお俊の家へ持ち込んでいたのだろう。寒いのに御苦労だが、これから六間堀へ行って、伊勢屋の様子を探って来てくれ」
「ようがす」
橋の上で松吉に別れて、半七はひとまず神田の家へ帰った。いつの世でも探索に従事する者は皆そうであるが、情況証拠と物的証拠のほかに自分の判断力を働かせなければならない。茶の間の長火鉢の前に坐って、半七はきょうの獲物を胸のうちに列べてみた。あばたの有無などに拘泥するのは素人である。加害者は万力、被害者はお俊、この推定はどうしても動かないと彼は思った。
木枯しは夜通し吹きつづけて、明くる朝は下町も一面に凍っていた。その五ツ(午前八時)頃に松吉は寒そうな顔をみせた。
「なるほど親分の眼は高けえ。やっぱりお俊らしゅうござんすよ。なにしろ、あの碁盤は伊勢屋から出たものに相違ありません。近所の同商売の者に訊いてみると、柘榴伊勢屋には先代から薄雲の碁盤という物があるそうです。その碁盤には、猫の魂が宿っていて、それを置くと鼠が出ないと云うので……」
「そうか。判った」と、半七はうなずいた。「酒屋の番頭の話じゃあ、お俊は鼠が大嫌いで、あの貸家に鼠が出て困ると云っていたそうだ。その鼠よけのまじないに、伊勢屋から薄雲の碁盤を持ち込んだのだろう。そこで、伊勢屋の主人と云うのはどういう奴だ」
「伊勢屋の由兵衛は四十ぐらいで、女房のおかめは三十五、夫婦のあいだに子供はありません。あんまり万力を可愛がっているので、今に万力を養子にするのじゃあねえかと、近所じゃあ云っていますが、真逆にそうもなりますめえ。万力は二十一で、男も好し、力もあり、人間も正直でおとなしいから、今に出世をするだろうと、世間じゃあ専ら噂をしています。その万力がどうして旦那の妾を殺したのでしょうかね」
「それに就いて、ゆうべもいろいろ考えたのだが、この一件は、小栗の屋敷の次男坊に係り合いがあるらしい」と、半七は自信があるように微笑んだ。「小栗の次男は銀之助、ことし二十二で、深川籾蔵前の大瀬喜十郎という旗本屋敷へ養子に行っていると云う。これが平井という旗本の遊び友達で、例の花見の一件のときに、万力の刀をひったくったのは其の仕業だろうと思う。これが多分お俊に係り合いがあって、万力は旦那への忠義と、自分の遺恨とで、お俊の首を碁盤に乗せて、わざと本家の小栗の屋敷の前にさらして置いたのだろう」
「そんなら銀之助も一緒に殺らしそうなものですがね」
「殺らすつもりであったのを仕損じたのか、何かほかに仔細があったのか、どっちにしても万力の仕業に相違あるめえ。しかし相手は天下の力士だ。確かな証拠を挙げた上でなけりゃあ、むやみに御用の声は掛けられねえ。おめえはもう一つ働いて、銀之助の方を調べてくれ。万力の脇差を取ったのは確かに銀之助か、又その銀之助がお俊の家へ出這入りしていたかどうだか、それをよく洗い上げるのだ」
「わかりました。じゃあすぐに行って来ます」
松吉は受け合って出て行った。ひと足おくれて半七も家を出て、本所の小栗の屋敷に用人の淵辺新八をたずねた。そうして、大瀬の屋敷へ養子に行っている銀之助の行状をふたたび詮議すると、相手が主人の弟であるから、用人も最初は何かと取りつくろっていたが、半七が相当にくわしい事を探っているらしい口振りにおどされて、迷惑そうにだんだん打ち明けた。それによると、銀之助はかなりの放蕩者で、養家の両親と折り合わず、あるいは不縁になりはしまいかと内々心配しているとの事であった。但しお俊という女と関係があるか無いか、そんなことは一切知らないと用人は云った。
「深川のお屋敷へは、いつから御養子にお出でになったのです」と、半七は訊いた。
「去年の秋からです」と、用人は答えた。「まあ、一年は客分のような形で、それから表向きの披露をすることになっていました。そこで無事に行けば、この十月にはいよいよ披露をする筈だったのですが、どうも養子親との折り合いが好くないので、まだ其の儘になっているような次第で……。したがって亦、世間では大瀬の屋敷へ行ったことを知らないで、いまだにこの屋敷にいるものと思っている人もあるそうです」
万力もその一人かも知れないと、半七は思った。しかし迂闊なことを云い出して、ここで用人らを騒がせるのは好くないので、半七はなんにも云わずに帰った。
その帰り道に、半七はふと思い付いて、相生町一丁目の竹本駒吉をたずねた。お俊の家のとなりである。格子をあけると、二十五、六の女師匠が出て来た。相手は女であるから、いっそ正直に調べた方が面倒でないと思って、半七は御用で来たことを云い聞かせると、駒吉は丁寧に内へ招じ入れた。
「お稽古の邪魔じゃあねえか」
「いいえ、誰も来ていやあしません」と、駒吉は急いで茶をいれる支度にかかった。
「もう構わねえがいい。遊びに来たのじゃあねえ」と、半七は直ぐに用談に取りかかった。「実は隣りのお俊の一件だが、あの女の旦那は深川の柘榴伊勢屋だね」
「そうです」
「伊勢屋は始終来るのかえ」
「ちょいちょい見えるようでした」
「旦那のほかに誰か来やあしねえか。若い男でも……」
駒吉はすこし躊躇したが、半七の前で隠すことも出来ないらしく、正直に話した。
「ええ、時々に若い男の人が……。お武家さんのようでした」
「泊まって行くような事もあったかえ」
「泊まることは無かったようですが、いつも一人で来て、四ツ過ぎまで遊んでいたようです。女中の話では、なんでも深川の方の人だと云うことでした」
「女中はなんと云うのだね」
「女中はお直さんと云って、十七、八のおとなしい人でした。家はやっぱり深川で、大島町だとか云っていました」
「きのう引っ越しをする時に、お直もいたかえ」
「お直さんは見えなかったようです。あとで聞くと、もう前の日あたりに暇を取って、出て行ってしまったらしいと云うことでした」
「そうすると、おとといの晩はお俊ひとりで寝ていたわけだね」
「そうかも知れません。日の暮れる頃にどこへか出て行って、夜の更けた頃に帰って来たようです。わたくしはもう寝ていましたから、よくは存じませんが、格子をあける音がしましたから、その時に帰って来たのだろうと思っていました」
「格子をあけて帰って来て、また出て行ったような様子はなかったかね」
「さあ」と、駒吉はかんがえていた。「今も申す通り、わたくしはもう寝ていましたので、半分は夢うつつで、帰って来たらしい様子は知っていましたが、また出て行ったかどうだか、そこまでは覚えて居りません」
時々に遊びに来るという若い武家について、半七は更に詮議をはじめた。
「その武家というのはお俊の情人だろうね」
「そうかも知れません」と、駒吉は笑っていた。「見たところ、粋な道楽肌の人でしたから……」
「相撲取りで出這入りをする者はなかったかね」
「伊勢屋の旦那がたいそう御贔屓だそうで、万力というお相撲さんが来ることがありました」
「万力はひとりで来る事もあったかえ」
「ひとりで来たことは無いようです。大抵は旦那と一緒のようでした」
「いや、有難う。判らねえことがあったら、また訊きに来るとして、きょうはこれで帰るとしよう。御用とは云いながら、稽古所へ来て邪魔をして済まなかった。こりゃあ少しだが、白粉でも買ってくんねえ」
辞退する駒吉に幾らかの白粉代を渡して、半七はここを出た。相変らずの寒い風に吹かれながら回向院前へ来かかると、半七は呼び出しの三太に逢った。
云うまでなく、この当時の大相撲すなわち勧進相撲は春場所と冬場所の二回で、冬場所は十月の末頃から十一月にかけて晴天十日の興行と決まっていた。その冬場所が終った後で、呼び出しの三太は江戸に遊んでいるらしかった。彼は半七を見て挨拶した。
「親分、お寒うございます」
「冬場所はたいそう景気が好かったそうだね」
「世間がそうぞうしいのでどうだかと案じていましたが、お蔭でまあ繁昌でした」
「いいところでおめえに逢った。少し訊きてえことがある」
回向院の境内へ三太を連れ込んで、半七は万力甚五郎の詮議をはじめた。
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