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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)67 薄雲の碁盤

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-28 19:12:42  点击:  切换到繁體中文


     三

「柘榴伊勢屋の亭主は船遊びが好きで、お俊が柳橋にいる頃から、一緒に大川へ出たことがあるそうだと、角屋の番頭が何ごころなくしゃべったのは、天の与えだ」と、半七は歩きながら云った。「これから柳橋へ行って船宿ふなやどを調べてみよう。案外の掘出し物があるかも知れねえ」
「だが、親分。例の首はお俊じゃあ無さそうですぜ。誰に聞いても、お俊にあばたはねえと云いますから」
「そりゃあそうだが、まあ、もう少しおれに附き合ってくれ」
 無理に松吉を引き摺って、半七は更に柳橋の船宿をたずねた。
 ここらの船宿は大抵知っているので、その一軒について聞き合わせると、柘榴伊勢屋が馴染の船宿は三州屋であるとすぐに判った。三州屋の店の前には、長半纏を着た若い船頭が犬にからかっていた。
「おい、よしねえよ」と、半七は笑いながら声をかけた。「いい若けえ者が酒屋の御用じゃああるめえし、犬っころを相手に日向ひなたぼっこは面白くねえぜ」
 半七の顔をみて、徳次という船頭は笑いながら挨拶した。
「いいお天気だが寒うござんす。まあ、親分。お上がんなさい」
「いや、上がるまでもねえ。ちょいと店さきで訊きてえことがある」と、半七は店に腰をかけた。「おかみさんは留守かえ」
「ええ、ちょっと出まして」
 徳次は女中に指図して、火鉢や茶を運ばせた。托鉢僧が来かかって、ここの店さきでかねをたたいて去るあいだ、半七らは黙って茶を飲んでいた。隣りの二階では昼間から端唄の声がきこえた。
「そこで早速だが、六間堀の伊勢屋はこの頃も出かけて来るかえ」と、半七は訊いた。
「お俊さんと時々に見えます。このあいだも、枯野見かれのみだと云って上手うわてまでお供をしましたが、いやどうも寒いことで……。枯野見なんて云うのは、今どき流行りませんね。雪見だって、だんだんに少なくなりましたよ」と、徳次は笑った。
通人つうじんが少なくなったのだろう」と、半七も笑った。「おめえなら知っているだろうが、伊勢屋に贔屓ひいきの相撲があるかえ」
「ありますよ。万力まんりき甚五郎で……」
「万力甚五郎……。二段目だな。たいそう力があるそうだが……」
「力がありますね。まったくの万力で……。近いうちに幕へはいるでしょう」と、徳次は自分の贔屓相撲のように褒め立てた。「伊勢屋の旦那は万力にたいへん力を入れて、本場所は勿論ですが、深川で花相撲のある時なんぞも、毎日見物に出かけて大騒ぎ。万力もいい旦那を持って仕合わせだと、みんなに羨まれていますよ」
「伊勢屋のほかに抱え屋敷はねえのか」
「十万石の抱え屋敷があったのですが、可哀そうにお出入りを止められてしまって、今じゃあ伊勢屋が第一の旦那場です。万力が抱え屋敷をしくじったのも、まあ伊勢屋の為ですから、伊勢屋も猶さら万力の世話をしてやらなけりゃあならない義理もあると云うわけで……」
 ことしの三月、伊勢屋の亭主由兵衛は万力を連れて三州屋へ来たが、花見どきではあり、天気はいいので、大抵の芸者はみな出払って、お馴染のお俊も家にいなかった。しかし前からの約束でもないので、由兵衛はそれをかれこれ云うほどの野暮やぼでもなかった。ほかの芸者二人と万力とを連れて、屋根船を徳次に漕がせて大川をのぼった。向島からどてへあがって、今が花盛りの桜を一日見物して、日の暮れる頃に漕ぎ戻って来ると、あいにくに桟橋のきわには二、三艘の船が落ち合って、伊勢屋の船を着けることが出来ない。船頭同士が声を掛け合って、伊勢屋の一行は前の船のともを渡って行くことになった。
 由兵衛と芸者ふたりは挨拶して先きに渡ったが、最後に出た万力甚五郎は、船のなかを横眼で視ただけで、なんの挨拶もせずに渡り過ぎようとした。その船には二人の侍と一人の芸者が乗っていたが、花見帰りであるから皆酔っていたらしく、侍のひとりは声をかけて、挨拶をして行けと云った。それでも万力は知らぬ顔をして行き過ぎて、今や桟橋へと足を踏みかけた途端に、ひとりの侍はと寄ってきて、万力の腰の刀を鞘ぐるみ引き抜いた。そうして、自分の船の船頭にむかって、早く出せと呶鳴った。
 呶鳴られて船頭はさおをとった。混み合っている中であるから、思うように棹を張ることは出来なかったが、それでも一間ほどは横に開いたので、桟橋に取り残された万力はあっと驚いた。腰の物を取られたからである。
 武士は勿論、力士が腰の物を取られるのも、決して名誉のことではなかったが、更に万力をおどろかしたのは、その刀は十万石の抱え屋敷から拝領の品であった。それを失っては、屋敷へ出入りすることが出来なくなる。それを思うと、万力は顔の色を変えてうろたえた。あっと云っても、もう及ばない。相手の船は一間あまりも開いてしまったので、大兵肥満の彼は身を跳らせて飛び込むことは出来ない。彼は実に途方に暮れた。
 その騒ぎに由兵衛も後戻りをして来たが、これもどうすることも出来ない。こうなったらあやまるのほかはないので、由兵衛は早くあやまれと万力に注意して、自分も口を添えて詫びた。万力も幾たびか頭を下げて平謝りにあやまった。こっちの弱味に付け込んで、相手はこの刀を大川に投げ込むぞとおどした。投げ込まれては大変であるから、万力は殆ど泣かぬばかりに弱り切って、結局は桟橋に両手をついて謝った。
 仮りにも天下の力士たるものに、両手をついて謝らせて、相手も胸が晴れたであろう。刀は船頭の手から無事に戻された。由兵衛はその船頭に相当の祝儀をやって別れた。
「まあ、そう云うわけで……」と、徳次は話しつづけた。「わたしもそばに見ていたのですが、相手がお武家だからどうすることも出来ません。相撲取りの腰に差しているのだから、おおかた屋敷の拝領物だろうと見当を付けて、手っ取り早く引ったくってしまうなんて、なかなか喧嘩馴れているのだからかないません」
「だが、万力という奴も愛嬌がねえ。なぜ最初に挨拶をしなかったのだ。それじゃあ怒られても仕方があるめえ」と、松吉がくちを容れた。
「それがねえ。松さん」と、徳次は更に説明した。「万力も礼儀も知らねえ男じゃあねえのだが、ちょいと面白くねえ事があって……。と云うのは、伊勢屋の旦那のお馴染のお俊がその客の船に乗り合わせていたので……。そりゃあ芸者稼業をしている以上は、どんな客と一緒に乗っていようと、別に不思議はねえ理窟ですが、万力にしてみると、自分の旦那のなじみの女がほかの客の船に乗っている。それがなんだか癪にさわったので……。勿論、癪にさわる方が悪いのだが、根が正直で一本気の男だから、つい癪にさわって無愛想になったようなわけで、当人だって真逆まさかにこんな事になろうとは思わなかったのでしょう。なにしろ相手の素早いには驚きましたよ」
「小ッ旗本の道楽者にゃあ摺れっからしが多いから、うっかり油断は出来ねえ」と、半七は笑った。「それでも、まあ無事に済んでよかった」
「ところが、無事に済まねえんで……」と、徳次は顔をしかめた。「そこはまあ、それで納まったのですが、その一件がいつか屋敷の耳にはいって、天下の力士が拝領の刀を取られて、桟橋に両手をついて謝ったなぞとは、抱え屋敷の面目にかかわると云うので、万力はとうとう出入りを止められてしまいました。そうなると伊勢屋の旦那も、自分が花見に連れ出してこんなことが出来しゅったいしたというので、今までよりも余計に万力の世話をしてやるようになったのです。伊勢屋は旧い店で、身上しんしょうもなかなかいいそうですから、その後楯うしろだてが付いていりゃあ万力も困ることは無いでしょうが、抱え屋敷をしくじっちゃあ仲間に対して幅が利かねえ。それを思うと、一概に羨ましいとばかりも云われません。当人ははらで泣いているかも知れませんよ」
「そうだろうな」と、半七も溜め息をついた。「そうして、その相手の二人侍ににんざむれえは、何者だか判らねえのか」
「ひとりは本所の御旅所おたびしょの近所に屋敷を持っている平井善九郎というお旗本ですが、連れの一人は判りません。刀を引ったくったのは平井さんでなく、連れのお武家の方でしたが、年頃は二十一、二で小粋な人柄でした。まあ、次三男の道楽者でしょうね」
「お俊はその平井という侍とも馴染なのか」
「別に深い馴染というでもありませんが、まんざら知らないお客でも無いそうです。なにしろ、そんな船に乗り合わせていたお俊も災難で、本人のした事じゃあありませんが、自然に伊勢屋の旦那の御機嫌を損じるような破目はめになって、その当座はちっともつれたようでしたが、芸者をさせて置けばこそこんな事にもなるのだと云うので、この六月、急にお俊を引かせる話になりました。お俊としてみれば、災難が却って仕合わせになったかも知れません。今じゃあ川向うの一つ目に囲われて気楽に暮らしているようです」
「お俊に薄あばたは無かったかね」
「あの人は土地でも容貌きりょう好しの方で、あばたなんぞはありませんよ」と、徳次は打ち消すように答えた。
 松吉はふたたび失望したように半七の顔を見た。

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