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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)67 薄雲の碁盤

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-28 19:12:42  点击:  切换到繁體中文


     二

 この年の冬は雨が少ないので、乾き切った江戸の町には寒い風が吹きつづけた。その寒い風に吹きさらされながら、二十四日の朝から半七は子分の松吉を連れて、亀戸の慈作寺をたずねた。小栗の屋敷の用人から頼まれて来たことを打ち明けると、寺でも疎略には扱わなかった。それは御苦労でござると早速に奥へ通して、茶菓などをすすめた。
 問題の首は小さい白木の箱に納めて、本堂の仏前に置かれてあった。碁盤も共に据えてあった。但しその碁盤が名妓の遺物であるか無いか、又それが深川の柘榴伊勢屋から出たものであるか無いか、その当時の半七はまだなんにも知らなかったのである。二人は線香の煙りのなかからのふた品を持ち出して、縁側の明るいところで一々にあらためた。
 用人は飽くまでも無関係のように云っているが、そこに何かの秘密がないとは限らない。半七は住職に逢っていろいろの質問を試みた後に、いずれ又まいりますと挨拶して、門前町の霜どけ路へ出た。
「いい塩梅あんばいに風がちっとぎましたね」と、松吉は云った。
「もうひるだ。そこらで飯でも食おう」
 半七は先きに立って、近所の小料理屋の二階にあがった。誂え物の来るあいだに、松吉は小声で訊いた。
「親分。どうです、見込みは……」
「まだ見当が付かねえ」と、半七は煙管きせるを下に置いた。「首だけでも大抵見当は付く。あの女は確かに堅気かたぎの素人じゃあねえ。どこかで見たような顔だが、どうも思い出せねえ」
「いや、それですよ」と、松吉もひと膝乗り出した。「実はわっしも見たことがあるように思うんですがね。親分もそう思いますか」
 二人の意見は一致したが、さてそれが何者であるかは容易に思い出せなかった。やがて女中が運んで来た膳を前にして、二人は寒さ凌ぎに一杯飲みはじめた。話の邪魔になる女中を遠ざけて、松吉はまた云い出した。
「一体この一件は、まったく小栗の屋敷に係り合いがないんでしょうか」
「用人はなんにも心当たりがないと云っている。首になっている女の顔もかつて見たことが無いという。しかしそれが本当だかどうだか判らねえ。そこで此の一件は、まず第一に小栗の屋敷に係り合いがあるか無いかを突き留める事と、もう一つは、なぜあんな碁盤に首を乗せて置いたかと云うことを詮索しなけりゃあならねえ」
「小栗の主人は碁を打つのでしょうか」
「おれもそれを考えたが、用人の話を聞いても、住職の話を聞いても、小栗の主人は碁も将棋も嫌いで、そんな勝負をしたためしは無いと云うのだ」
 小栗家の主人昌之助は三十一歳で、妻のお道とのあいだに、昌太郎お梅の子供がある。昌之助の弟銀之助はことし二十二歳で、深川籾蔵前もみくらまえの大瀬喜十郎という二百石取りの旗本屋敷へ養子に貰われている。昌之助と銀之助は兄弟仲も悪くない。現に五、六日前にもたずねて来て、夕飯を食って帰ったと、用人は話した。銀之助は碁を打つらしいが、それとても道楽という程ではないとの事であった。
「こうなると、碁盤の方の手がかりはねえようだ」と、半七は云った。「もし小栗の屋敷に係り合いが無いとすれば、どこへか持って行く途中、なにかの故障で小栗の屋敷の前に置き捨てて行ったと鑑定するのほかはねえ。碁盤は重い、その上に人間の首を乗せたのじゃあ、恐らく一人で持ち運びは出来めえ。ひとりは碁盤、ひとりは首、二人がかりで運んで行くにゃあ、余ほどの仔細がなけりゃあならねえが……」
「そうですねえ」と、松吉も首をかしげた。
「なにしろ昼間からいかりを卸しちゃあいられねえ。早く出かけよう」
 早々に飯を食って、二人はここを出た。風の止んだのを幸いに、亀戸の通りをぶらぶら来かかると、天神橋の袂で、二人づれの女に出逢った。女は柳橋芸者のお蝶と小三である。芸者たちは半七らをみて会釈えしゃくした。
「どこへ行く。天神様かえ」と、半七は笑いながら訊いた。
「あしたはお約束で出られないもんですから、繰り上げて今日ご参詣にまいりました」と、お蝶も笑いながら答えた。
 半七は何か思い出したように、お蝶のそばへ摺り寄った。
「だしぬけに変なことを訊くようだが、おしゅんは相変らず達者かえ」
「あら、御存じないんですか。お俊ちゃんはこの六月に引きましたよ」
「ちっとも知らなかった。誰に引かされて、どこへ行った」
「深川の柘榴伊勢屋の旦那に引かされて、相生町あいおいちょう一丁目に家を持っていますよ」
「相生町一丁目……。回向院えこういんの近所だね」
「そうです」
「お俊は薄あばたがあったかね」
「いいえ」
 お蝶は小三をかえりみると、彼女もうなずいた。
「お俊ちゃんは評判の容貌きりょう好しで、あばたなんかありませんわ」
「そうだな」と、半七もうなずいた。
 芸者たちに別れて歩き出すと、松吉はあとを見かえりながら云った。
「だれの眼も違わねえもので、あの女たちに逢った時に、わっしもふっと思い出しました。例の女は柳橋のお俊に似ていると……。だが、今の話じゃあお俊に薄あばたはねえと云う。おなじ仲間が云うのだから間違いはありますめえ。それを聞いてがっかりしましたよ」
「むむ、おれも当てがはずれてしまった」と、半七は溜め息をついた。「あいつらの顔をみると、急にお俊を思い出して、こりゃあ占めたと思ったが、他人の空似そらにでやっぱりいけねえ。柳橋を引いてから疱瘡をしたと云えば云うのだが、例の女の顔はきのう今日の疱瘡の痕じゃあねえ。だが、おれ達の商売に諦めは禁物だ。どうだ、帰り道だから回向院前へ廻って、お俊の様子をよそながら見届けようぜ」
 お俊は相生町一丁目に住んでいるとすれば、小栗の屋敷から三、四丁を隔てているに過ぎない。何ものかがお俊の首をそこまで運んで行くと云うことがないとは云えない。あばたがあろうが無かろうが、ともかくも一度は探索の必要があると半七は思った。松吉は気のないような顔をして、親分のあとに付いて来た。
「回向院前……。回向院前……」と、半七はひとり言のように繰り返した。
 吉良きらの屋敷跡の松坂町を横に見て、一つ目の橋ぎわへ行き着いて、相生町一丁目のお俊の家をたずねると、それは竹本駒吉という義太夫の女師匠の隣りであると教えてくれた者があった。
「お俊だけに義太夫の師匠の隣りに住んでいるのか。それじゃあ竪川でなくって、堀川だ」と、半七は笑った。
 しかも二人は笑っていられなかった。たずねるお俊の家はいつか空家あきやになって、かし家の札が斜めに貼られてあった。
「やあ、空店あきだなだ」と、松吉は眼を丸くした。
「隣りで訊いてみろ」
 松吉は義太夫の師匠の格子をあけて、何か暫く話していたようであったが、やがて忙がしそうに出て来た。
「親分。お俊の家はきのう急に世帯を畳んで、どこへか引っ越してしまったそうです。知らねえ人が来て、諸道具をどしどし片付けて、近所へ挨拶もしねえで立ち去ったので、近所でも不思議に思っていると云うことです。ちっと変ですね」
「引っ越しの時に、お俊は顔を見せねえのか」と、半七は訊いた。
「だしぬけにばたばた片付けに来たので、近所隣りでもよく判らねえのですが、どうもお俊の姿は見えなかったらしいと云うことです。ここらで例の首を見た者はないかと、念のために訊いてみると、その噂を聞いて五、六人駈け着けたが、気味が悪いので誰もはっきりとは見とどけずに帰って来た。なにしろ薄あばたがあると云うのじゃあ、お俊とは違っていると云うのです」
「近所へ挨拶はしねえでも、家主いえぬしには断わって行ったろう。家主はどこだ」
「二丁目の角屋すみやという酒屋だそうですから、そこへ行って訊きましょう」
 二人は更に相生町二丁目の酒屋をたずねると、帳場にいる番頭は答えた。
「お俊さんの家では二、三日前から引っ越すという話はありました。そこで、きのうの朝、知らない男の人が来て、これから引っ越すとことわって、家賃や酒の代もみんな綺麗に払って行きましたから、わたしの方でも別に詮議もしませんでした。引っ越し先は浅草の駒形こまかただということでした」
「お俊は柳ばしの芸者だったと云うが……」と、半七は訊いた。「その店請人たなうけにんは誰ですね」
「お俊さんの旦那は深川の柘榴伊勢屋だそうで、店請はその番頭の金兵衛という人でした」
「お俊さんというのはどんな女でした」
「商売人揚がりだけに、誰にも愛嬌をふりまいて、近所の評判も悪くなかったようです。わたし共の店へ寄って、時々に話して行くこともありましたが、ひどく鼠が嫌いな人で、あの家には悪い鼠が出て困るなぞと云っていました」
 お俊と鼠と、それを結び付けて考えても、差しあたりいい知恵が出そうもないので、ほかに二、三のうわさ話を聞いた後、半七らは角屋の小僧に案内させて、お俊のあき家を一応あらためたが、ここにはなんの獲物もなかった。

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