二
この「捕物帳」を読みつづけている人々は定めて記憶しているであろう。この年の四月、半七はかの『正雪の絵馬』の探索に取りかかっていたのである。そのあいだに、この牢破りの一件が出来して、人相書までが廻って来たので、これも打ち捨てては置かれなくなった。
「親分。どうしますね」と、子分の亀吉が訊いた。
「重い軽いを云えば、こっちは牢抜けの重罪で、絵馬の一件とは一つにならねえ」と、半七は云った。「しかし、伝馬町の方はおれ一人に云い付けられた御用じゃあねえ。江戸じゅうの御用聞きがみんなで働く仕事だ。絵馬の方はおれ一人が受け合った仕事だから、この方を先ず片付けなけりゃあなるめえと思う。就いては、おめえと幸次郎は相変らず絵馬の方を働いてくれ。伝馬町の方は松吉や善八に頼むとしよう」
二つの事件が同時に起こるのは珍らしくないので、半七はそれぞれに受け持ちを決めて働かせることになった。半七は双方掛け持ちであるが、一方の『正雪の絵馬』の一件は已に紹介したのであるから、話の筋の混雑するのをおそれて、ここにはいっさい省略し、専ら牢破りの一件に就いて語ることにする。
五月はじめの朝である。半七は町内の湯屋へ行って、暁け方からの小雨のなかを帰って来ると、格子の内に女の傘と足駄が見いだされた。人出入りの多い家であるから、別に気にも留めずはいって見ると、四十前後の見識らない女が女房のお仙を相手に話していた。
「おまえさん。この方がさっきから待っておいでなすったんですよ」と、お仙は彼女を半七に紹介した。そうして、その土産だという交肴の籠を見せた。
「初めましてお目にかかります」と、女は丁寧に挨拶した。「わたくしは神明前のさつきでございます」
その名を聞いて、半七はすぐに思い当たった。彼女はさつきのお力で、なにか三甚に係り合いのことで尋ねて来たのであろうと察したので、ひと通りの挨拶を済ませた後に、半七は訊いた。
「おかみさんも忙がしいだろうに、朝から何か急用でも出来しましたかえ」
「早朝からお邪魔に出ましたのは、ほかでもございません。親分も定めて御承知でございましょうが、先月の二十三日に伝馬町の牢抜けがございましたそうで……。それに付きまして、少々お知恵を拝借に出ましたのでございますが……」
「牢抜けは知っていますが、それがどうかしましたかえ」
「実は……」と、お力は少しく渋りながら云い出した。「その牢抜けのなかに石町の金蔵というのが居りますそうで……」
その金蔵の仕返しをお力親子は恐れているのであった。召捕りの手引きをした千次も、金蔵が娑婆へ出たというのを聞いて、どこへか姿を隠してしまった。生きていればきっと仕返しをすると云ったのであるから、金蔵はきっと三甚を附け狙っているに相違ないと、かれらは頻りに恐れているのであった。それを聞いて、半七は笑った。
「金蔵というのはどんな奴だか知らねえが、牢抜けをした以上は我が身が大事だ。いつまでも江戸にうかうかしちゃあいられめえ。きっと草鞋を穿いたろうと思うから、まあ当分は仕返しなんぞに来る筈はねえ、みんなも安心したらいいだろう」
「ところがお前さん」と、お力は顔をしかめながらささやいた。「千次さんのお友達が西の久保の切通しで、金蔵に似た奴の姿をちらりと見たそうで……。あいつが近所をうろ付いているようじゃあ大変だと云うので、千次さんも早々にどこへか隠れてしまったのでございます」
「それにしても、おまえさんの家にまで仕返しに来ることはあるめえ。金蔵は行き合い捕りになっているのだから、お前さんの家に係り合いはねえ筈だ」
「わたくしの家へは来ないかもしれませんが、もしや三甚さんの方へでも来るようなことがあると大変だと申して、娘は泣いて騒いで居りますので……」
娘に泣いて騒がれて、お力は三甚の保護を頼みに来たのである。その親心を察しながらも、半七はいったん断わった。
「これが堅気の素人なら、なんとか相談に乗ることもあるが、たとい年は若いにしろ、三甚も一人前の御用聞きだ。科人の仕返しが怖くって、仲間の知恵を借りたなぞと云われちゃあ、世間に対して顔向けが出来ねえ。勿論おまえさんの一料簡で出て来たのだろうが、そんな事をするのは三甚の男を潰すようなものだ。娘の可愛い男に恥を掻かせちゃあいけねえ。第一、三甚にも相当の子分がある筈だ。その子分たちが楯になって、親分のからだを庇ってやるがいいじゃあねえか。他人に頼むことがあるものか」
「それはもう仰しゃる通りでございますが……」と、お力は云いにくそうに答えた。「その子分衆も此の頃は頼りにならないような人が多いので……」
先代の歿後三年のあいだに、古顔の子分が二人もつづけて死んだ。腕利きの子分二、三人は若い親分を見捨ててほかの親分の手に移ってしまった。残っている子分に余り頼もしい者は少ない。さきごろ金蔵を召捕ったのも、彼がしたたかに酔っていたからで、もしも白面であったらば或いは取り逃がしたかも知れないと、お力は云った。それは半七も薄々察していた。こんな奴らの縄にかかったのは残念だと、金蔵が自身番で呶鳴ったのも無理はないように思われた。
それにしても本人の甚五郎が頼みに来たのならば格別、表向きは他人のさつきの女房に頼まれて迂闊に差し出たことは出来ないので、半七は飽くまでも断わった。そんな事をすれば三甚の顔を汚すようになるという訳を、かれは繰り返して説明すると、お力もこの上に押し返して云う術もなかったらしく、それでは又あらためてお願いに出ましょうと云って帰った。
それを見送って、お仙は気の毒そうに云った。
「三甚さんも困ったものですね」
「色男、金と力はなかりけりと、昔から相場は決まっているが、岡っ引の色男なんぞはどうもいけねえ。おれ達の商売はやっぱりかたき役に限るな」と、半七は笑った。
「三甚のお父さんには世話になった事もありますからねえ」
「むむ、三甚の先代にゃあ世話になったこともある。ただ笑って見物してばかりもいられねえが、そうかといって無闇に差し出たことも出来ねえ。まったく困ったものだ」
何のかのと云うものの、誰かの手で金蔵らを挙げてしまえば論は無いのである。人相書が廻っている以上、遅かれ早かれ網にかかるものとは察しているが、それまでの間に何事もなければいいと、半七は思った。しかし前にも云う通り、科人が捕り手に対して仕返しをするなどということは滅多に無いのであるから、恐らく今度も無事に済むであろうと、彼も多寡をくくっていた。
雨は二、三日降りつづいた。一方の『正雪の絵馬』の一件はとかくに縺れて埒が明かない。半七も少しくじりじりしていると、日が暮れてから松吉が来た。
「よく降りますね」
「いくら商売でも、降ると出這入りが不便でいけねえ」と、半七はうっとうしそうに云った。
「大木戸の方はどうなりました」
「どうも眼鼻が付かねえで困っている。そこで、どうだ、こっちの一件は……」
「伝馬町の牢抜けは二人挙げられました」
「誰と誰だ」
「二本松の惣吉と川下村の松之助です」
金蔵の名がないので、半七は失望した。
「この二人は中仙道を落ちるつもりで板橋まで踏み出したが、路用がねえ。そこらを四、五日うろ付いた揚げ句に、宗慶寺という寺へはいって、住職と納所に疵を負わせて十五両ばかりの金を取ったのから足が付いて、ゆうべ板橋の女郎屋で挙げられたそうです。路用が出来たらすぐに伸してしまえばいいものを、娑婆へ出ると遊びたくなる。やっぱり運の尽きですね」と、松吉は笑っていた。
「ほかの奴らのゆくえは知れねえのか」
「二人の申し立てによると、六人は牢屋敷の外へ出ると、すぐにばらばらになってしまったので、誰がどっちへ行ったか知らねえと云うのです。惣吉と松之助だけがひと組になって、本郷から板橋の方向へ行ったのだそうで……。旦那方もずいぶん厳重に調べたようですが、二人はまったく知らねえらしいのです」
「それじゃあ、ちっとも手がかり無しか」と、半七は溜め息をついた。
「そうですよ」と、松吉はうなずいた。「残る四人のうちで、兼吉と勝五郎はどうしたか判らねえが、藤吉と金蔵は牢内にいる時から仲が好かったから、この二人は繋がっているかも知れねえと云うことです。松之助の申し立てによると、金蔵はこんなことを云っていたそうです。おれは江戸に恨みのある奴があるから、そいつに意趣返しをした上でなけりゃあ高飛びは出来ねえと……」
「意趣返しをする」
「それがね、親分」と、松吉はささやいた。「どうも三甚を狙っているらしいのです。金蔵は妙なところへ見得を張る奴で、三甚のような小僧ッ子に召捕られたのは、おれの顔にかかわるとか、おれの名折れになるとか云って、むやみに口惜しがっているのだそうで……。牢抜けをする以上、どうで命はねえに決まっているから、恨みのある三甚を殺らして置いて、それから高飛びをする料簡じゃあねえかと思うのですが……。そうなると、三甚もいい面の皮です」
「悪党らしくもねえ、未練な奴だな」と、半七は舌打ちした。「そう聞くと、さつきの女房の話も嘘じゃああるめえ。金蔵に似た奴が西の久保の切通し辺をうろ付いているのを見た者があるそうだ」
「藤吉も一緒でしょうか」
「それは判らねえが、ひょっとすると藤吉に助太刀をたのんで、何をするか判らねえ。三甚も如才なく用心しているだろうが、飛んだ奴に魅こまれたものだ」
半七も多寡をくくっていられなくなった。捕り手に逆恨みをするなどは悪党らしくない奴だとは思ったが、相手が恨むと云う以上、それをどうすることも出来ない。しかしそれを逆に利用して金蔵を手元へおびき寄せ、藤吉ぐるめに召捕るという手だてが無いでもない。
「おれが出しゃばるのも好くねえが、年の若けえ三甚だけじゃあ何だか不安心だ。あしたは芝口へ出かけて行って、なんとか知恵を貸してやろう。ここでうまく金蔵を召捕りゃあ三甚も二度の手柄になるというものだ」
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