二
読者を焦らすようであるが、ここで私もすこし困った。と云うのは、半七老人も余り多くの酒を飲まないで、女中がもう飯を運んで来た。二人はだまって飯を食ってしまった。そうなると、ここに長居も出来ない。おまけに老人はこれから本所の知人を尋ねると云うので、一緒に付いてゆくことも出来ない。残念ながら髪切りの話はここでひと先ず中止のほかは無かった。わたしは元の富岡門前で老人に別れた。
しかし、半分聞きかけの話をそのままにして置くのは、わたしの性質として何分にも気が済まないので、その明くる晩、寒い風を衝いて赤坂へ出かけると、老人はすこし感冒の気味だと云うので、宵から早く床にはいっていた。その枕もとで手帳を取り出すわけにも行かないので、わたしは怱々に帰って来た。
それから二日ほど過ぎて、見舞いながら又たずねて行くと、老人はもう起きていたが、今度はあいにく来客である。わたしは又もやむなしく帰った。わたしも歳末は忙がしいので、冬至の朝、門口から歳暮の品を差し置いて来ただけで、年内は遂にこの話のつづきを聞くべき機会に恵まれなかった。
あくる年の正月五日の午後、赤坂へ年始まわりに行くと、老いてますます健かな老人は、元気よく新年の挨拶を述べた。それからいつもの雑談に移ると、早くも老人の方から口を切った。
「旧冬、冬木でお話をした歩兵の髪切りの一件……。そのあとをお話し申しましょうかね」
「どうぞお願いします」
私はそれを待ち構えていたのである。老人は例の明快な江戸弁で、殊に今夜は流暢に語り出した。
この一件は慶応元年の二月から三月にかけての出来事で、半七が小川町の歩兵屯所へ呼び出されたのは三月二十五日の朝であった。小隊長の根井善七郎は半七を面会所へ通した。
「世間の噂でおまえも大抵承知しているだろうが、どうも困ったことが出来た。一人や二人ならばともかくも、それからそれへと二十日ばかりの間に十一人も髷を切られた。こういう事は人騒がせで甚だ宜しくない。第一に世間の手前もある。猿だの、狐だの、豹だのと、いろいろの風説が伝えられているので、当方でも見付け次第に撃ち殺すつもりで、銃を持った者が毎晩交代で見廻っているが、獣らしい物の姿も見あたらない。罠をかけたが、それにも罹らない。こうなると、どうも獣の仕業でないらしく思われるので、きょうはお前を呼び出したのだが、なんとか一つ働いてみてくれまいか」
歩兵隊の者が片端から髷を切られたなどと云うことは、当人たちの不面目ばかりでなく、ひいては歩兵隊全部の面目にも関し、さらに公儀の御威光にもかかわる事であると、根井は云った。さなきだに余り評判のよくない歩兵隊であるから、こんな事が出来すると世間では尾鰭をつけていろいろの悪い噂を立てる。小隊長の根井も心配して、なんとか早くその正体を見あらわしたいと焦っているのも無理はなかった。
「まったく困ったことでございます」と、半七も云った。「わたくし共の手に負えることだかどうだか判りませんが、まあ精々働いて見ましょう」
「では、長屋の内部をひと通り見てくれ」
根井は半七を案内して、第二小隊の長屋へ連れて行くと、今は調練の時刻であるので、小隊全部は練兵所へ出ていて、広い長屋に人の影は見えなかった。長屋には台所が付いていて、台所の外には新らしく掘られたらしい井戸があった。大きい炊事場は別の所にあって、歩兵が当番で炊事を受け持ち、それを各隊の長屋へ分配するので、ここの小さい台所はめいめいが水を飲んだり、顔を洗ったりする場所に過ぎないと、根井は説明した。
長屋の内は一棟を二つに仕切って、ふち無しの琉球畳を敷きつめ、板戸の戸棚にはめいめいの荷物が入れてあるらしかった。元来が一種の道場のような伽藍洞の建物であるから、別に半七の注意をひくようなものも見いだされなかった。彼はここを出て、さらに長屋の周囲を一巡した。
その当時の内神田はこんにちの姿とまったく相違して、神保町、猿楽町、小川町のあたりはすべて大小の武家屋敷で、町屋は一軒もなかったのである。小川町の歩兵屯所も土屋采女正と稲葉長門守の屋敷の建物はみな取り払われて、ここに新らしい長屋と練兵の広場を作ったのであるが、ある一部には昔の庭の形が幾分か残されている所もあった。第二小隊の井戸のそばには築山があった。この築山も昔は相当の手入れをして、定めて風致あるものと察せられたが、一年あまりの後には荒れに荒れて、六、七本の立ち木がおい茂っているばかりであった。そのなかに八重桜の大樹が今を盛りに咲き乱れているのを、風流気の乏しい半七も思わず見あげた。
「よく咲きましたね」
「むむ、よく咲いた」と、根井も見あげた。「伐るのも惜しいのでこうして置くが、桜もこんなところで咲いては張り合いがあるまい。なにしろ殺風景の世界だからな」
二人は笑いながら元の面会所へ帰った。ここで何かの打ち合わせをして、半七は屯所の門を出ると、ひとりの若い女の姿が眼の前に見えた。女は門番と何か立ち話をして立ち去るらしい。よく見ると、それは湯島天神下の藤屋という小料理屋の女中であった。
「おい、おい、お房。どこへ行くのだ」
「あら、親分さん」と、お房は会釈した。「よいお天気で結構でございます」
「おめえは今そこの番人となんの内証ばなしをしていたのだ。お馴染かえ」
「ええ、少し用があって……。これで三度も足を運ぶんですけれど……」
「そんなに逢いてえ人があるのか」と、半七は笑った。「もっともひと口に茶袋とも云えねえ。あの中にもなかなか粋な兄いがまじっているからな」
「あら、御冗談を……。そんなのじゃあ無いんですよ。おかみさんにゃあ叱られるし、ほんとうに困ってしまうんですよ」と、お房は顔をしかめた。
「ははあ、勘定取りかえ。あんまりいい役じゃあねえな」
「いい役にも、悪い役にも、まったく困るんですよ」と、お房は繰り返して愚痴らしく云った。
この正月のはじめに、馴染の歩兵が四人連れで藤屋へ飲みに来たが、帰る時になって勘定を貸してくれと云う。そのときに座敷を受け持っていたのは女中のお房で、何分にも相手は歩兵であり、春早々から乱暴などを働かれても困る。殊にいずれも馴染の顔であるから、お房も無下にことわり兼ねた。その勘定をあしかけ三月の今になっても払ってくれないと云うのである。
「おめえの一存で貸したのかえ」と、半七は訊いた。
「帳場へ行っておかみさんに話すと、おまえ大丈夫かえと云うんです。ええ大丈夫でしょうと、あたしが云ったので、おかみさんも承知して貸すことになったんです。それが今まで埓が明かないので、おかみさんはあたしを叱って、おまえが請け合ったんだから、催促して取って来いと云う。そこで、このあいだから催促に来るんですけれど、今は調練の最中だから面会は出来ないの、きょうはドンタクで外出したのと云って、いつでも逢わせてくれないんです」
「そりゃあ困るな」
歩兵の連中は門番にたのんで、藤屋の女が来たならば追い返してくれと云ってあるに相違ない。お房が幾たび足を運んでも、おそらく埓は明くまいと思った。
「第二小隊の人達は割合いにおとなしいようですけれど、やっぱりいけないんですねえ」と、お房は又云った。
「第二小隊……。その四人はなんという人だえ」
「鮎川さん、三沢さん、野村さん、伊丹さんです」
「鮎川さん……。丈次郎というのか」
「ええ、丈次郎というのです」
鮎川丈次郎は二度目に髷を切られた男である。半七は笑った。
「ほかの人は知らねえが、その鮎川さんはおめえの所へ顔出しは出来ねえ筈だ。えてものにちょん切られたのだからな」と、半七は自分の髷を指さした。
「あら、それじゃあ鮎川さんも……。まあ」
お房も髪切りの噂を知っているらしく、ひどく驚いたように半七の顔を見あげた。
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