三
麹町から四谷へまわって、半七が神田の家へ帰ったのは、冬の日の暮れかかる頃であった。湯に行って、ゆう飯を食ってしまうと、善八が来た。
「季節になったせいか、寒さがこたえますね」
「御同様に歳の暮れというものは暖くねえものだ」と、半七は笑った。「その節季に気の毒だが、一つ働いて貰いてえ事がある。急ぎと云うものでもねえが、急がねえでもねえ。まあ、せいぜいやってくれ」
「なんですね」
「かたき討ちの助太刀と云ったような筋だ」
「芝居がかりですね」と、善八も笑った。
「こういうことになると、おれもちっと芝居気を出したくなる。本当ならば虚無僧にでも姿をやつして出るところだが、真逆にそうも行かねえ。まあ、聴いてくれ」
吉良の脇指の一件を聴かされて、善八はうなずいた。
「成程、こりゃあいよいよお芝居だ。そこで、先ずどこから手を着けますね」
「この一件は四谷の常陸屋の係りだ。如才なく、ひと通りの探索はしているだろうが、こっちはこっちで新規に手を伸ばさなけりゃあならねえ。直七と鶴吉の話によると、その伝蔵という奴は秩父の生まれだそうだが、一文無しで故郷へ帰ることも出来めえ。といって、江戸にいるのもあぶねえと云うので、どっかへ草鞋を穿いたかも知れねえ。なにしろ三月も前のことだから、その足あとを尾けるのがちっと面倒だ」
「伝蔵と係り合いの女はどこにいるでしょう」
「それはお熊という女で、年は十九、宿は堀江だそうだ」
「堀江とは何処ですね」
「下総の分だが、東葛飾だから江戸からは遠くねえ。まあ、行徳の近所だと思えばいいのだ。そこに浦安という村がある。その村のうちに堀江や猫実……」
「判りました。堀江、猫実……。江戸から遠出の釣りや、汐干狩に行く人があります」
「そうだ、そうだ。つまり江戸川の末の方で、片っ方は海にむかっている所だ。むかしは堀江千軒と云われてたいそう繁昌した土地だそうだが、今は行徳や船橋に繁昌を取られて、よっぽど寂れたということだ。漁師町だが、百姓も住んでいる。お熊はその宇兵衛という百姓の妹だそうだ。そこで、おれの鑑定じゃあ、お熊が八月に屋敷を出された時、いずれ伝蔵がたずねて行くという約束でもあって、伝蔵は主人の金をぬすんで逃げ出そうとしたのだろう」
「そうすると、伝蔵はお熊の宿に隠れているのでしょうか」
「さあ、そこだ」と、半七は首をかしげた。「望み通りに金を盗めば、堀江までたずねて行ったろうが、これも一文無しじゃあどうだろうか。第一、お熊がすぐに国へ帰ったか、それとも江戸のどっかに奉公して伝蔵のたよりを待っているか、それも判らねえ」
「堀江まで踏み出しても無駄でしょうか」
「無駄かも知れねえ。だが、無駄と知りつつ無駄をするのも、商売の一つの道だ。さしあたって急用もねえから、念晴らしに明後日あたり踏み出してみるかな」
「おまえさんも行きなさるかえ」
「道連れのある方が、おめえもさびしくなくて好かろう。行くなれば、深川から行徳まで船で行くほうが便利だ。ちっと寒いが仕方がねえ。朝は七ツ起きだ」
「じゃあ、そうしましょう」
約束をきめて、善八は帰った。
その翌々日の朝は、江戸の町にも白い霜を一面においていた。半七と善八は予定の通りに、行徳がよいの船に乗り込んで、まず行徳の町に行き着いた。ここらの川筋はよい釣り場所とされているので、釣り道具などを宿屋へあずけて置いて、江戸からわざわざ釣りに行く者も少なくないので、宿屋でも心得ていて、釣り舟や弁当の世話などをする。そのなかでも、伊勢屋というのが知られているので、半七らも此処へはいることにした。
宿屋へはいると、ひと足さきへ来て脚絆をぬいでいる男があった。
「やあ、三河町の親分、不思議な所で……」と、男は見かえって声をかけた。
彼は下谷の御成道に店を持っている遠州屋才兵衛という道具屋である。もっぱら茶道具をあきなって、諸屋敷へも出入りしているだけに、人柄も好く、行儀もよかった。
「まったく不思議な御対面だ」と、半七も笑った。「お前さんはこんな所へ何しに来なすった。寒釣りかえ」
「なに、そんな道楽じゃあありません。これでも信心参りで……。五、六人の連れがありましたので、成田へ参詣して来ました」
「それにしても、途中から連れに別れて、ひとりでここへ来なすったのか」
「まあ、そんなわけで。へへへへへ」
才兵衛は何か独りで笑っていた。おなじ二階ではあるが、裏と表と別々の座敷へ通されて、半七らが先ずくつろいで茶を飲んでいると、如才のない才兵衛はすぐに挨拶に来て、おめずらしくはありませんがお茶菓子にと、成田みやげの羊羹などを出した。
「そこで、お前さん方は……」と、才兵衛は声をひくめた。「なにか御用で……」
「まあ、用のような、遊びのような……」と、半七はあいまいに答えた。「ここらは大そう釣れると云うから……」
「じゃあ、やっぱり釣りですか。わたくしも一度、近所の人に誘われて、ここへ釣りに来たことがありました。しかし何処へ行っても、下手は下手で……」
釣りの失敗話などをして、才兵衛は自分の座敷へ帰った。そのうしろ姿を見送って、善八はささやいた。
「あいつ、成田から帰る途中、ひとりでここへ廻って来たのは、なにか堀り出し物のあてがあるんですぜ」
「まあ、そうだろう。あいつも商売にゃあ抜け目がねえからな」
女中に訊くと、才兵衛はすぐに又どこかへ出て行ったとの事であったが、善八はすこし風邪を引いていると云い、海辺の風は殊に寒いというので、半七らはどこへも出ずに一泊した。
あくる日は風も凪いで、十二月にはめずらしい程のうららかな日和となった。ここから一里あまりの堀江までは、陸でも舟でも行かれるのであるが、半七らは陸を行くことにして、あさ飯の箸を置くとすぐに宿を出た。出るときに又もや才兵衛に逢った。彼も堀江へ行くと云うので、三人は一緒にぶらぶらあるき出した。
才兵衛は例の通りに、如才なく話しながら歩いていたが、なんだか半七らの道連れになるのを厭うような様子が見えた。結局、彼は途中に寄り道があると云って、狭い横道へ切れてしまった。それに頓着せずに、二人は真っ直ぐに進んでゆくと、一方の海は遠い干潟になっていて、汐干狩にはおあつらえ向きであるらしく眺められた。そこには白い鳥の群れがたくさんに降りていた。土地の人に訊くと、それは白い雁であると教えてくれた。
「なるほど白雁と云うが、白い雁はめずらしい」と、善八は干潟を眺めているうちに、俄かに叫んだ。「親分、ご覧なせえ。遠州屋の奴め、いつの間には先廻りをして、あんな所をうろ付いていますよ」
指さす方角には彼の才兵衛がうろうろして、砂の上で何か探し物でもしているらしかった。
「まさかに貝を拾っているのでもあるめえ、海端へ出て何をしてやあがるかな」
半七は気にも留めずに行き過ぎた。
堀江へ行き着いて、宇兵衛の家をたずねて、先ずその近所で訊き合わせると、宇兵衛の妹は九月のはじめに江戸から一度帰って来たが、半月ほどの後に再び出て行った。宇兵衛はなぜか其の行く先をはっきり云わないが、今度は江戸ではないらしく、船橋の方へ奉公に行ったという噂もあり、八幡の方へ行ったという噂もある。以前の武家奉公と違って、今度は茶屋奉公に出たので、兄がその行く先を明かさないのだという噂もある。いずれにしても、お熊が実家に留まっていないのは確かであると近所の人たちは話した。
江戸から誰かたずねて来た者はなかったかと訊きただすと、お熊がどこへか行った後、十月の初めに江戸から二人連れの男がたずねて来た。つづいてその月のなかば頃に一人の男がたずねて来て、宇兵衛の家にひと晩泊まって帰ったと云うのである。魚釣りや汐干狩のほかには、他国の人があまり交通をしない場所だけに、見馴れない人の姿はすぐに眼について、宇兵衛方へたずねて来た二度の旅びとを近所の人達はみな知っていた。
その人相や風俗を詮議すると、初めの二人づれは四谷の常陸屋の子分らが伝蔵とお熊のありかを探りに来たらしく、後の一人は伝蔵自身であるらしかった。
「ともかくも宇兵衛の家へ行ってみよう」
半七は先に立って歩き出すと、冬がれの田のあいだに小さい農家が見いだされた。門口には大きい枯れすすきの一叢が刈り取られずに残っていた。
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