二
小座敷の行燈の下で、客と主人が向かい合った。もう寝ようとしたところを叩き起こされて、春の夜寒が半七の襟にしみた。
「あの玉ちゃんという児は七つになりますかえ。わたしも店の前に遊んでいるのを見たことがある。色白の綺麗な坊やでしたね」
「はい、主人の子を褒めるのもいかがですが、仰しゃる通り、色白の可愛らしい子供でございまして……」と、要助は答えた。「それだけに親たちも心配いたしまして、もしや拐引にでも逢ったのじゃあないかと申して居ります。御近所の人たちもみんな同じような考えで、これは早く三河町の親分さんにお願い申した方がよかろうと申しますので、こんな夜更けにお邪魔に出まして相済みません」
「そこで、わたしの心得のために、訊くだけのことを正直に話してください」と、半七は云った。
「お店には大旦那夫婦がありましたね」
「はい、大主人は半右衛門、五十三歳。おかみさんはおとせ、五十歳でございます」
「若主人夫婦は……」
「若主人は金兵衛、三十歳。若いおかみさんはお雛、二十六歳。若いおかみさんの里は、岩井町の田原という材木屋でございます」
「お乳母さんは」
「お福と申しまして、若いおかみさんと同い年でございます。お福の宿は根岸の魚八という魚屋で、おやじは代々の八兵衛、おふくろはお政、ほかに佐吉という弟がございます」と、要助は一々明瞭に答えた。
「乳母に出るのだから、一旦は亭主を持ったのだろうが、その亭主とは死に別れですかえ」
「なんでも浅草の方へ縁付きましたのですが、その亭主が道楽者で……。生まれた子が死んだのを幸いに、縁切りということに致しまして、乳母奉公に出たのだそうでございますが、まことに実体な忠義者で、主人の子どもを大切に致してくれますので、内外の評判も宜しゅうございます」
それから店の若い者、小僧、奥の女中たちまで、一々身もと調べをした上で、半七はかんがえながら云った。「なにしろ御心配ですね。これがお店にかかり合いのある者の仕業なら、案外に手っ取り早く埓が明くかも知れませんが、通りがかりの出来ごころで、ああ綺麗な児だと思って引っ攫って行かれたのじゃあ、その詮議がちっと面倒になる。しかしまあ折角のお頼みですから、なんとか出来るだけの事をしてみましょう。御主人にもよろしく仰しゃって下さい」
「なにぶん宜しく願います」と、要助は繰り返して頼んで帰った。
それを見送って、寄り付きの二畳へ出て来た半七は、誰か表に忍んでいるような気配を覚った。要助が格子を閉めて出たあとから、半七もつづいて草履を突っかけて沓脱へ降りて、そっと格子をあけて表を窺うと、今夜はあいにく闇であったが、何者かが足音をぬすんで立ち去るらしかった。
「おい、そこにいるのは誰だ」
声をかければ逃げるのは判っていたが、無言で他人を取り押さえるわけには行かないので、半七は先ず声をかけると、相手は果たして一目散に逃げ出した。その草履の足音が女や子供でなく、若い男であるらしいことを、半七はすぐに覚った。そうして、闇のなかでひそかに笑った。この事件は案外容易に解決すると思ったからである。前にも云う通り、往来の者の出来心では、その手がかりを見付け出すのが面倒であるが、これは菊園にかかり合いのある者に相違ない。番頭がここへ探索を頼みに来たのを知って、その様子を窺いに来たのであろう。よせばいいのに、そんな事をするから足が付くのだと、半七はおかしく思った。
その明くる朝である。半七が茶の間で朝飯を食っていると、入口の格子のあいだから何か投げ込んだような音がきこえた。半七に眼配せをされて、女房のお仙が出てみると、沓脱の土間に一通の封じ文が落ちていた。これもゆうべの一件のかかり合いであろうと想像しながら、半七はすぐに封を切ってみると、果たして次の文言が見いだされた。
菊園の子息玉太郎は仔細あって拙者が当分預り置き候、本人身の上に別状なきことは武士の誓言相違あるまじく候、菊園一家の者に心配無用と御伝え被下度、貴殿にも御探索御見合せ被下度候、先は右申入度、早々。
それを読み終って、半七はまた笑った。成程その筆蹟は町人らしくないが、「武士の誓言」などと云って、いかにも武士の仕業らしく思わせようとするのは、浅はかな巧みである。ゆうべ忍んでいた奴も、今朝この手紙を投げ込んだ奴も同じ筋の者に相違ない。こんな小細工をする以上、猶さら踏み込んで首根っこを押さえ付けてやらなければならないと思いながら、怱々に朝飯を食ってしまうと、子分の弥助が裏口からはいって来た。弥助という名が「千本桜」の維盛に縁があるので、彼は仲間内から鮓屋という綽名を付けられていた。
「どうも御無沙汰をして、申し訳がありません」
「何をぶらぶら遊んでいるのだ。おい、鮓屋。早速だが、用がある。ここへ来い」
弥助を呼び込んで、半七は菊園の一件を話して聞かせた。
「こりゃあ人攫いや神隠しじゃあねえ。なにかの仔細があって、玉太郎を隠した奴があるのだ。菊園に恨みのある奴か、それとも菊園を嚇かして金にする料簡か、二つに一つだろう。おめえはこれから根岸へ行って、乳母のお福の宿をしらべて来てくれ。お福の先の亭主は道楽者で、浅草に住んでいると云うから、これもついでに洗って来てくれ」
「乳母が怪しいのですかえ」
「怪しいどころか、番頭の話じゃあ正直な忠義者だそうだが、この頃の忠義者は当てにならねえ。ともかくもひと通りは手を着けて置くことだ」
「ようがす。すぐに行って来ます」
「浅草の方は庄太の手を借りてもいい。なるべく早くやってくれ」
弥助を出してやった後に、半七はかんがえた。これから菊園へ出向いて、一度主人たちにも逢い、家内の者の様子を見とどけるのが、まず正当の順序であるが、もし家内にかかり合いの者があるとすれば、かえって用心させるような事になって妙でない。遠方から遠巻きにして、最後に乗り込む方がよかろうと思った。もう一つには、きょうは九ツ(正午)からどうしても見送りに行かなければならない葬式がある。それを済ませてからでなければ、どこへも手を着けることは出来ない。又その出前には八丁堀の旦那のところへも顔出しをしなければならない。半七は忙がしい体であった。
八丁堀から葬式へまわると、寺は橋場であった。八ツ(午後二時)過ぎに寺を出て、ほかの会葬者とあとさきになって帰る途中で、半七はふと思いついた。子分の庄太の家は馬道である。弥助をけさ出してやったものの、自分も道順であるからちょっと立ち寄ってみようと、馬道の方角へぶらぶら辿ってゆくと、庄太は懐ろ手をして露路の入口に立っていた。
「やあ、親分。どこへ……」
「橋場の寺まで行って来た」
「弔えですか」
「むむ。弥助は来たか」
「まだ来ません。何かあったのですか」
「すこし頼んだことがあるのだが……。あいつは気が長げえから埓が明かねえ」
「まあ、おはいんなせえ。だが、きょうはあいにくの日で、大変ですよ。隣りの長屋二軒が根継ぎをするという騒ぎで、露路のなかはほこりだらけ……。わっしも家にいられねえから、表へ逃げ出して来たような始末で……」
庄太は笑いながら先に立って引っ返すと、なるほど狭い露路のなかは混雑して、二軒の古い長屋は根太板を剥がしている最中であった。そのほこりを袖で払いながら、その長屋の前を足早に通り過ぎようとする時、なにか半七の眼についた物があった。
「おい、庄太。あれを拾って来てくれ」
「なんです」
「あの橙よ」
根太板を剥がれた床下は、芥溜めのように取り散らしてあった。そのなかに一つの大きい橙の実が転げているのを拾わせて、半七は手に取って眺めた。橙には龍という字があらわれていた。近い頃に書いたと見えて、墨の色もまだはっきりと読まれた。
それが火伏せの呪禁であることを半七は知っていた。橙に龍という字をかいて、大晦日の晩に縁の下へ投げ込んで置くと、その翌年は自火は勿論、類焼の難にも逢わないと伝えられて、今でもその呪禁をする者がある。おそらく龍が水を吐くとか、雨を呼ぶとかという意味であろう。この橙のまだ新らしいのを見ると、去年の大晦日に投げ込んだものらしい。その「龍」という字に見覚えがあると、半七は思った。
「ここの家は誰だ」
「夜蕎麦売りの仁助で、その隣りが明樽買いの久八です」と、庄太は答えた。
「隣りにも橙があるか無いか、探してくれ」
庄太は芥をかき分けて詮索したが、隣りの床下には獲物がなかった。内へはいると、庄太の女房も出て来た。ひと通りの挨拶の済んだあとで、半七はかの橙を手の上に転がしながら訊いた。
「この龍という字は、なかなかしっかり書いてある。仁助とかいう奴が自分で書いたのじゃああるめえ。誰に頼んだのか、知らねえか」
「表の白雲堂ですよ」と、女房が口を出した。
表通りに幸斎という売卜者が小さい店を開いていて、白雲堂の看板をかけている。夜蕎麦売りの仁助はその白雲堂にたのんで、橙に龍の字をかいて貰ったのであると、彼女は説明した。
「白雲堂……。そりゃあどんな奴だ」と、半七はまた訊いた。
今度は庄太が代って説明した。白雲堂の幸斎は五十二三の男で、ここに十年あまりも住んでいる。自分はよくも知らないが、うらないは下手でもないという噂である。幸斎は独り者で、女房子は勿論、親類なども無いらしい。酒を少し飲むが、別に悪い評判もない。近所の者にたのまれて、手紙の代筆などをするが、これも売卜者のような職業としては珍らしいことでもない。要するに白雲堂は世間にありふれた売卜者という以外に、変ったことも無いらしかった。
「そこで、その龍の字に何か引っかかりがあるのですかえ」と、庄太は訊いた。
「むむ。すこし忌なことがある」と、半七は又かんがえていた。「だが、庄太。やっぱり人頼みじゃあいけねえ。自分が足を運んで来たお蔭で、飛んだ掘り出し物をしたらしい」
「へえ、そうですかね」
訳を知らない庄太は、ただ感心したように首をかしげていると、隣りでは壁を崩すような音ががらがらと聞こえて、それと同時に弥助が転げるように駈け込んで来た。
「やあ、ひどい、ひどい。飛んだところへほこりを浴びに来た」
彼は手拭で顔や着物を払いながら、半七を見て驚いたように会釈した。
「親分、もう先き廻りをしたのですか」
「江戸っ子は気が早え」と、半七は笑った。「そこで、どうだ。根岸の方は……」
「わっしのことを気が長げえと云うが、その代りに仕事は念入りだ。まあ、聴いておくんなせえ」
「一軒家じゃあねえ、大きな声をするな」
半七に注意されて、彼は小声で話し出した。
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