三
八月の晦日から俄かに秋風が立って、明くる九月の朔日も涼しかった。
「さすがに暦は争われねえ。これでコロリも下火になるだろう」
女房のお仙と話しながら、半七が単衣を袷に着かえていると、早朝から善八が来た。
「急に涼しくなりました」
「今も云っているところだが、善さん、コロリはどうだね」と、お仙は云った。
「まだ流行っていますよ」と、善八は答えた。「涼風が立ってもすぐには止みますめえ。七月から八月にかけて随分殺されましたね」
「悪い人の殺されるのは仕方がないが、善い人も殺されるから困るよ」
「わっしらの商売から云うと、悪い人の殺されるのも困る。折角お尋ね者を追いつめて、さあという時に相手がコロリと参ってしまわれちゃあ、洒落にもならねえ。現にこのあいだの湯島の一件……。ようやく突きとめて小石川まで出張って行くと、大工の奴はコロリ。実にがっかりしてしまいますよ」
云いかけて、善八はまた声を低めた。
「もし、親分。今の小石川ですがね。そこで又すこし変な噂を聞き込みました」
「変な噂とはなんだ」
お仙が立って行ったあとで、半七は善八と差し向かいになった。
「御承知の通り、人殺しの大工は水道町の煙草屋の裏に住んでいました」と、善八は話しつづけた。「その家主の煙草屋は関口屋という古い店で、身上もよし、近所の評判も悪くない家です。そこの女中のお由という若い女が二、三日前に死にました」
「それもコロリか」と、半七は訊いた。
「いや、コロリじゃあねえ、まあ、頓死のようなわけで……。関口屋でもすぐに医者を呼んだが、もう間に合わなかったそうです。その死に方がなんだか可怪しいというのですが、関口屋じゃあ店の者や女中に口留めをして、なんにも云わせねえ。それだけに猶更いろいろの噂が立つわけです。世間でかれこれ云うばかりでなく、お由の親許でも不承知で、娘の死骸を素直に引き取らない。コロリの流行る時節に、死骸をいつまでも転がして置くわけには行かねえので、名主や五人組が仲へはいって、ともかく死骸だけは引き取らせることにしたが、その後始末が付かねえで、いまだにごたごたしているそうですよ」
「お由という女の親許では、なぜ不承知をいうのだ。死骸に何か怪しいことでもあるのか」
「どうもそうらしい。それが又、変な話で……。近所の噂じゃあ、氷川の明神山のかむろ蛇に祟られたのだそうで……。そんな事が本当にありますかね」
「氷川のかむろ蛇……」と、半七も考えた。「昔からそんな話を聞いてはいるが、噂か本当か請け合われねえ。そうすると、そのお由という女は明神山の蛇に出逢ったのか」
「関口屋の女房と娘とお由と三人連れで、氷川へ参詣に行って、その帰り路で出逢ったそうで……。蛇じゃあねえ、切禿の女の子だそうですが……」
「女の子か」と、半七は又かんがえた。「お由は蛇に祟られて頓死したというのだな。頓死にもいろいろあるが、どんな死に方をしたのだ」
「それにもいろいろの噂があるのですが、わっしがお千代という女中をだまして聞いたところじゃあ、まあ、こんな話です」
関口屋ではお由、お千代、お熊という三人の女を使っているが、お由は仲働きで、他の二人は台所働きである。その晩はまだ残暑が強いので、裏口の空地にむかって雨戸を少し明けて、四畳半の女部屋に一つの蚊帳を吊って、三人が床をならべて寝た。いずれも若い同士であるから、正体もなく眠っていると、夜なかになってお由が急に騒ぎ出した。両側に寝ているお千代とお熊もおどろいて眼をさますと、お由は小声で「蛇……」と叫んだらしくきこえたので、二人はいよいよ驚いた。
お千代もお熊も夢中で蚊帳をころげ出して、台所から行燈をつけて来ると、お由は寝床の上に蜿打って苦しんでいる。二人はあわてて店の男たちを呼び起こすと、その騒ぎを聞きつけて、主人夫婦も起きて来た。小僧は出入りの医者を呼びに行った。
何分にも夜なかの事であるから、医者もすぐには来なかった。お由は医者の来る前に死んでしまった。その死因は医者にもはっきり判らないのであるが、お由が「蛇……」と云ったのから想像して、恐らく蝮か何かの毒蛇に咬まれたのであろうと云った。その当時はここらは森や岡も多く、武家屋敷の空地や草原も多いのであるから、蝮や蛇もめずらしくない。明けてある雨戸のあいだから這い込んで来て、運の悪いお由がその生贄になったのであろう。なにしろ其の正体を見とどけなければ安心が出来ないので、若い者も小僧も総掛かりで毒蛇のゆくえを詮策したが、家内は勿論、庭にもそれらしい姿は見いだされなかった。
こうして奉公人らが立ち騒いでいるあいだに、主人側は比較的冷静であった。主人の次兵衛も女房のお琴も殆ど無言であった。娘のお袖は奥に隠れたままで顔も出さなかった。毒蛇狩りが一旦片付いた後、次兵衛は医者を奥へ呼び入れて、女房と一緒にかむろ蛇の一条を話した。それが店の者にも洩れて、自然にうわさの種を播くことになったのである。
これによって考えると、主人らの冷静は不人情というのでなく、余儀なき運命と諦めている為であったらしい。お由ばかりでなく、お琴もお袖も同じ運命に陥らないとは限らない。お由ひとりが人身御供になって、それでかむろ蛇の祟りが消えるのか、三人ながら同じ祟りを受けるのか、そんなことは誰にも判らない秘密である。主人らは冷静というよりも、強い恐怖にとらわれて、一時は碌々に口も利かれなかったのであろう。しかもお由の親許では、その態度を不人情と難じた。
「いくら不人情にしたところで、親許で娘の死骸を引き取らねえというのは判らねえ」と、半七は云った。
「関口屋で殺したとでも云うのか」
「まさかに殺したとも云いませんが、寝床で蝮に咬まれたなんぞと云うのは、どうもまじめに聞かれねえ。ましてかむろ蛇なんぞは作り話だか何だか判らねえ。大事の娘が死んだ以上、どうして死んだのか確かに判らねえでは、迂濶に死骸を引き取ることは出来ねえと、こう云うのだそうで……。関口屋でも相当の弔い金は出す気でいるのだが、親の方じゃあ五百両か千両も取るつもりでいるらしいので……」
「五百両か千両……」と、半七もすこし驚かされた。「人間の命に相場はねえと云っても、奉公人が死んだ為に五百両も千両も取られちゃあ堪まらねえ。一体その親というのは何者だ」
「五百両千両は別として、親許でぐずるにも仔細があるのです」と、善八は説明した。「だんだん聞いてみると、お由という女は仲働きのように勤めてはいるが、実は主人の姪だそうで……」
「唯の奉公人じゃあねえのか」
「主人の兄きの娘です。兄きは次右衛門といって、本来ならば総領の跡取りですが、若い時から道楽者で、先代の主人に勘当されてしまって、弟の次兵衛が関口屋の家督を相続することになったのです。先代が死ぬときに勘当の詫びをする者もあったが、先代はどうしても承知しないで、あんな奴は決して関口屋の暖簾をくぐらせてはならないと遺言したそうです。それは二十年も昔のことですが、それがために次右衛門は今でも表向きに関口屋の店へ顔出しは出来ない。裏口からそっとはいって来ると云うわけです」
「次右衛門は何をしているのだ」
「下谷の坂本で小さい煙草屋をしているそうです。表向きは勘当でも、関口屋の総領で、今の主人の兄きには相違ないのですから、関口屋でもいくらか面倒を見てやって、商売物の煙草なぞも廻してやっているようです。その娘がお由で、これも表向きに親類というわけには行かないので、まあ奉公人同様に引き取られて、関口屋の厄介になっていたのです。詳しいことは判りませんが、関口屋へお由を引き取るに就いては、行くゆくは相当の婿を見付けて、それに幾らかの元手でも分けてやって、兄きの家を相続させると云うような約束になっていたらしい。そのお由がだしぬけに死んでしまったので、一番困るのは兄きの次右衛門です」
「その兄きは堅気になっているのか」
「次右衛門はもう五十で、今は堅気になっているようですが、昔の道楽者の肌は抜けない。自分に落度があるにしても、関口屋の身代を弟に取られたのだから、内心は面白くない。その上に、世話をするという約束で引き取られた娘が得体の知れない死に方をする。こうなると、何とか因縁を付けたくなるのが人情で、死骸を引き取るとか、引き取らねえとか、駄々を捏ねているのでしょう。次右衛門に云わせると、表向きはともかくも、肉親の姪を預かって置きながら、なんだか訳の判らない死に方をさせて、死んだものは仕方が無いというような顔をしているのは、あんまり不人情だ、不都合だ……。それも畢竟お由の死に方がはっきりしねえからの事で、確かに蝮に咬まれたのかどうだか、医者にもよく見立てが付かねえようですよ」
「やっぱり蝮だろうな」と、半七は云った。
「蝮でしょうか」と、善八もうなずいた。「そうすると、喧嘩にもならねえ。いくら次右衛門がじたばたしても、追っ付かねえ訳ですね」
「いや、喧嘩にならねえとも限らねえ。そのお由というのはどんな女だ」
「お由は十九で、家の娘とは一つ違いです。家の娘はお袖と云って、ことし十八。表向きは主人と奉公人のようになっていますが、つまり従妹同士で、どっちも容貌は良くも無し、悪くも無し、まあ十人並というところでしょうが、お由の方が年上だけにませていて、男好きのする風でした」
「関口屋の裏の四軒長屋には誰と誰が巣を食っている……」
「コロリで死んだ大工の年造、それから煙草屋の大吉、そのほかに仕立屋職人の甚蔵、笊屋の六兵衛……。甚蔵と六兵衛には女房子があります」
「大吉というのは年造の隣りにいる奴だな。そりゃあどんな奴だ」
「二十三四の、色の生っ白い、華奢な奴です。生まれは上方で、以前は湯島の茶屋にいたとか云うことですよ」
「湯島の茶屋にいた……。男娼のあがりか」
「そんな噂です」
「そうか」
半七は薄く眼を瞑じて、又かんがえていた。
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