三
鳳閣寺の境内を出て、半七は更に久保町へむかった。ここらにも町名主の玄関はある。半七はその玄関をおとずれて町役人に逢い、かの片腕の一件についてひと通りのことを訊きただしたが、庄太の報告以外に新らしい発見もなかった。唯ここで少しく意外に感じたのは、疑問の唐人飴屋がきのうも平気でここへ姿をあらわしたという事であった。しかも其の両手は満足に揃っているというのである。
「あの飴屋は毎日いつごろ廻って来ます」と、半七は訊いた。
「大抵八ツ(午後二時)頃です」
八ツまではまだ半ときほどの間がある。そのあいだに遅い午飯を食うことにしたが、ここらの勝手をよく知らない半七は、迂濶なところへ飛び込むのは気味が悪いと思って、当座の腹ふさぎに近所の蕎麦屋へはいると、ほかに一人の客もなかった、注文の蕎麦の出来るのを待つあいだ、煙草を吸いながら見まわすと、くすぶった壁には彼の坂東小三の芝居のビラが掛けてあった。
店は狭いので、釜前に立ち働いている亭主はすぐ眼のさきにいる。半七はビラを見返りながら亭主に声をかけた。
「小三の芝居はなかなか景気がいいね」
「ご見物になりましたか」と、亭主は云った。
「実は今、二幕ばかり覗いて来たのだが、宮芝居でも馬鹿にゃあ出来ねえ。みんな相当に腕達者だ」
土地の芝居を褒められて、亭主も悪い心持はしないらしく、にこにこしながら答えた。
「どうでお江戸の方々の御覧になるような物じゃあござんすまいが、相当によくすると皆さんが云っておいでですよ。あれでも此処らじゃあなかなかの評判です」
「そうだろうな。錦祥女をしている小三津というのは綺麗だね」
「ええ、小三津は年も若いし、容貌もいいので、人気者ですよ」
蕎麦を食いながら亭主の話を聞くと、座頭の小三はもう三十七八である。小三津はその弟子で、まだ二十二三である。小三津は今度の錦祥女も評判がいいが、この前の「鎌倉三代記」の時姫もよかった。そんなわけで、小三津はこの一座の花形であるが、なぜか此の頃は師匠の機嫌を悪くして、このあいだも楽屋でひどく叱られた。小三津は泣いて退座すると云い出したが、花形役者に退かれては興行にさわるので、ほかの人々が仲裁して無事に納めた。
「なんと云っても女同士の寄合いですから、いろいろうるさいと見えますよ」と、亭主は云った。
「小三津はなんで師匠に叱られた。舞台の出来が悪かったのか、それとも色男でもこしらえたか」と、半七は笑いながら訊いた。
「小三津は堅い女で、これまで浮いた噂も無し、今でもそんなことは無いらしいというのですが……」と、亭主は首をかしげながら云った。「それですから幾らか給金も溜めているし、着物なぞも相当に拵えていたのだそうですが、それをどうしてかみんな無くしてしまったのを、師匠に見付けられて叱られたのだとかいう噂です。どうしたのですかね」
「博奕でも打つかな」
「まあ、そんなことかも知れません。その連中には女でも手慰みをする者がありますからね。地道なことで無くしたのなら、師匠もそんなに叱る筈はありません。なにか悪いことをしたのでしょうね」
「むむ」と、半七は蕎麦の代りをあつらえながら又訊いた。
「今見たら、木戸前に小三津の新しい幟が立っている。呉れた人は常磐津文字吉とある。小三津は文字吉に何か係り合いがあるのかね」
「文字吉は実相寺門前の師匠ですが、小三津をたいへん贔屓にして、楽屋へ遣い物をしたり幟をやったり、近くの料理屋へ呼んだりしたので、小三津の方でも喜んで、このごろでは師匠の家へもちょいちょい出這入りをしているようです」
「それで叱られたわけでもあるめえ」
「勿論それは別の話で……」と、亭主は笑っていた。「芸人同士、女同士で、贔屓にしてくれる所へ顔出しをするのを、師匠がやかましく云う筈はありません」
「まったくだ。そんな野暮を云っちゃあ、役者稼業は出来ねえ」
それから糸を引いて、今度は文字吉の噂に移ったが、亭主は彼女を悪く云わなかった。やはり庄太の報告通り、酒屋の旦那に遠慮して男の弟子は取らない。弟子は近所の娘たちか、遠方から通って来る女たちである。旦那から月々の手当てを貰う上に、いい弟子が相当にあるので、師匠はなかなか内福であるらしいと云った。
「遠くからどんな弟子が来るのだね」と、半七は訊いた。
「遠方から来るのですから、若い人はありません、大抵は二十代か三十代の年増です。日本橋や神田の下町からも来ますし、四谷牛込の山の手辺からも来るそうです。まあ、囲い者のような女か、後家さんらしい人たちですね」
この上に深い詮議をするのもよくないと思って、半七は勘定を払って蕎麦屋を出た。文字吉という師匠はそれほど上手でもないと云うのに、なぜ遠方から年増の女弟子がわざわざ通って来るのか、それには何かの仔細がありそうに思われた。半七はそれを考えながら、熊野権現の社のあたりをひと廻りして、実相寺門前の文字吉の家をたずねると、五十六七の雇い婆らしい女が出て来て、三角な眼をひからせながら無愛想に答えた。
「お師匠さんは風邪を引いて寝ていますよ。お前さんはどなたで……」
「お弟子入りの子供をたのまれて、赤坂の方から参りましたが……」と、半七はおだやかに云った。
「そうですか」と、彼女は相手の顔をながめながら又答えた。「それにしてもお師匠さんはゆうべから寝ていますからね、又出直して来てください」
「世間の噂じゃあ、お師匠さんはきのうの朝、熊野さまの近所で、往来に落ちている片腕を見付けたそうで……。それから熱でも出たのですかえ」
「そんなことは知りませんよ」
彼女の眼はいよいよ光った。ここで自分の正体をあらわすのも面白くないので、半七はいい加減に挨拶して早々にここを出た。出て見ると、いつの間に来たか知らず、塩煎餅屋の前に子供をあつめて、唐人飴の男が往来でカンカンノウを踊っていた。彼は型のごとく唐人笠をかぶって、怪しげな更紗の唐人服を着て、飴の箱を地面におろして、両手をあげて踊っていたが、色の小白い、眼つきのやさしい、いかにも憎気のない男であった。半七はしばらく立ちどまって眺めていた。
子供たちは笑って踊りを見ているばかりで、一人も飴を買う者はなかった。親たちから飴を買う銭を与えられない為であろう。それでも飴売りはちっとも忌な顔をしないで、何か子供たちに冗談などを云っていた。
なにぶんにも天気はいい。日はまだ高い。その真っ昼間の往来で、いつまでも飴売りのあとを付け廻しているわけにも行かないので、半七はその人相を篤と見定めただけで、ひと先ずそこを立ち去るのほかは無かった。行きかけて見ると、文字吉の家の雇い婆は裏口から表へ出て、半七の挙動をそっと窺っているらしかった。
この婆も唯者でないと、半七は肚の中で睨んだ。さてそれからどうしようかと考えながら、ともかくも久保町の通りを行き過ぎると、荒物屋の前に道具をおろして手桶の箍をかけ換えている職人の姿が眼についた。それは往来を流してあるく桶屋である。もしやと思って覗いてみると、職人は下っ引の源次であるので、半七は行き過ぎながら合図の咳払いをすると、源次は仕事の手をやすめて顔をあげた。二人は眼を見合わせたまま無言で別れた。
源次が来ている以上、庄太も来ているかも知れないと、半七は気をつけて見まわしたが、其処らにそれらしい人影も見えなかった。大通りへ出ると、百人町の武家屋敷は青葉の下に沈んで、初夏の昼は眠ったように静かである。渋谷から青山の空へかけて時鳥が啼いて通った。
半七は時々うしろを見かえりながら善光寺門前へさしかかると、源次は怱々に仕事を片付けたと見えて、やがて後から追って来た。半七は彼を頤で招いて、善光寺の仁王門をくぐろうとしたが、また俄かに立ちどまった。青山善光寺の仁王尊は昔から有名で、その前には大きい草鞋や下駄がたくさんに供えてある。奉納の大きい石の香炉もある。その香炉に線香をそなえて、一心に拝んでいる若い男の姿に、半七は眼をつけた。
彼はまだ十八九の色白の男で、髪の結い方といい、それが役者であることは一見して知られた。彼はしゃがんで俯向いて拝んでいた。その格好が彼の和藤内の虎狩に働いていた虎によく似ているのを、半七は見逃がさなかった。あたかもそこへ十三四の小娘が二人連れで通りかかった。
「あら、あすこに照之助が拝んでいてよ」
娘たちは若い役者を幾たびか見返りながら行き過ぎるのを、半七は追いかけて小声で訊いた。
「あの役者はなんというのです」
「市川照之助……。浅川の小屋に出ているのです」と、娘のひとりが教えた。
「浅川の芝居……」と、半七はかんがえていた。「あの、小三の芝居に出ているのじゃありませんか」
「そんな噂もありますけれど、男の役者ですから今までは浅川の芝居に出ていたのですが……」と、他の娘が云った。
「いや、ありがとう」
娘をやりすごして、半七はしばらく市川照之助のすがたを眺めていた。若い役者はなんにも知らないように、いつまでも仁王尊に何事かを祈っていた。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页 尾页