四
半七とお富と、初対面の二人のあいだに変った話題はない。殊に今の場合であるから、話は当然かの一件をくり返すことになって、娘をうしなった母の眼からは、また今さらに新らしい涙が湧いた。お富の話によると、亭主の長五郎も正直な職人気質の人物であるらしく、娘は多年御恩を受けた殿さまのお供をしたのであるから、死んでも悔むことは無いと云っている。又、それに就いて、お屋敷の御迷惑になるような事は決して口外してはならないと、女房らをも堅く戒めているとのことであった。
「親方の御料簡はよく判っています」と、半七も同情するように云った。「しかし世間の口はうるさいもので、今度の一件に就いてもいろいろの噂を立てる者がありますよ」
「どんなことを云って居ります」と、お富は眼をふきながら訊いた。
「実は……。お前さん達の前じゃあ云いにくい事ですが……」と、半七は渋りながら答えた。「誰かが船底へ細工をして……」
「やっぱりそんなことを云って居りますか」
「お部屋さまを沈めようとした……」
云いかけて相手の顔色を窺うと、お富は黙って考えていた。
「そんなことを云っちゃあなんですが……。どこのお屋敷でも、奥さまとお部屋さまとは折り合いのよくないもので……」
「あれ、お前さん。飛んでもない」と、お富はたしなめるように云った。「それじゃあ奥さまが何か細工をして、内の娘を沈めたとでも云うのですかえ。そりゃあ違います、大違いです。お屋敷の奥さまに限って決して決して、そんな事をなさるような方じゃありません。奥さまはまことに結構なお方で、それはわたしが請け合います。一体お前さんはそんなことを誰に聞いたのです」
激しい権幕で詰問されて、半七も少しく返事に困った。
「いや、奥さまに限ったわけじゃあありませんが、お屋敷には大勢の男もいる、女もいる。その大勢のうちには自然こちらの娘さんと仲の悪い者も無いとは云えません。何かのことで娘さんを恨んでいる者も無いとは限りませんから……」
「そりゃあ恨まれているかも知れませんが……」
何か思いあたることでもあるらしい口ぶりに、半七は透かさず訊き返した。
「世の中には外道の逆恨みと云って、自分の悪いのを棚にあげて、人を恨む者もありますからね。何かそんな心あたりでもありますかえ」
お富はまた黙ってしまった。この夫婦は自分でも云う通り、屋敷の迷惑になることは決して口外しまいと決めているらしい。その堅い口を明かせるには、自分も頭巾をぬいで正体を現わすのほかはないと半七は思った。
そこで、彼は自分の身もとを明かした。しかもこれは町方から進んで詮議するのではない。奥さまや親類の諸屋敷から頼まれたのであることを詳しく説明して聞かせると、お富の態度も少し変って来た。
「そういうわけだから、なんでも正直に云ってくれねえじゃあ困る」と、半七は諭すように云った。「おめえは奥さまは結構な方だと云うが、今のところ、その奥さまが一番疑われているのだ。奥さまの為を思うならば、知っているだけの事をみんな云うがいいじゃあねえか。おれも男だ。屋敷の迷惑になるような事は決して他言しねえから、おれだけに云うと思って話してくれ」
「でも、確かな証拠もないことは……」と、お富はまだ躊躇しているらしかった。
「いや、おめえの云ったことをすぐに証拠にするわけじゃあねえ。ただ心得のために聞いて置くだけのことだ。おめえの娘は此の頃ここへ訪ねて来たかえ」
「去年の暮れにまいりました」
「ひとりで来たのか」
「お信という女中を連れて来ました」
「お信はどんな女だ」
「容貌の悪くない、なかなかしっかり者のようです」
それは船頭の金八の話と符合していたが、お富がお信という女に好意を持っていないらしいのは、その口ぶりで察せられた。
「自分の供に連れて来るようじゃあ、おめえの娘の気に入りなんだね」
「別に気に入りというわけでもございません。お屋敷内では話すことの出来ない内証話があるので、きょうの供に連れて来たのだと申しまして、奥で暫く差し向かいで話して居りました」
「どんな話をしていたか判らなかったかね」
「わたくし共はあちらへ遠慮して居りましたので、二人とも小さな声でひそひそと話し合って居りましたので、どんな話をしていたのか一向に判りませんでした」
「帰る時はどんな様子だった」
「二人とも顔色がよくないようで……。取り分けてお信は真蒼な顔をして居りました」
「娘はそれっきり来ねえのだね」
「春になっては一度も参りません。去年の暮れに顔を見せましたのが一生の別れでございます」と、お富はまた泣き出した。
お早とお信が、ここでどんな密談を遂げたのか。この二人はそもそも敵か味方か。帰るときに二人の顔色が悪かったのはどういうわけか。それは容易に解き難い謎であるので、半七もさすがに思案に悩んだ。
「その日はまあそれとして、その前に娘から何か聞き込んだことは無かったかえ」と、半七はまた訊いた。
「いえ、お屋敷内のことに就きましては、娘は別になんにも申しませんでした」
この時、突然、奥の襖をあけて、五十前後の男が姿をあらわした。
「いらっしゃいまし。わたくしは植木屋の長五郎でございます」と、彼は半七の前に手をついて丁寧に会釈した。「親類に不幸がございまして、昨晩から手伝いに参って居りまして、只今ちょいと帰って参りました」
彼はさっきから戻って来て、女房と半七との問答を偸み聴いていたらしかった。それを察して、半七は向き直った。
「今もおかみさんと話していたところだが、今度の一件について何か入り組んだ訳がありそうだが……」
「それに就きまして、親分さん。もう斯うなれば正直に申し上げますが……」
あちらへ行けと眼で知らされて、お富は不安そうに立ち去ると、そのうしろ姿を見送って、長五郎はささやくように云い出した。
「こんなことを女房に云って聞かせますと、余計な心配も致しますし、女は口の軽いもので又どんなおしゃべりをしないとも限りませんから、実は女房にも隠して居りましたが、去年の十月、娘が寺参りながらここへ参りました時に、女房はちょうど留守でございまして、わたくしと差し向かいで暫く話して帰りましたが、その時に娘の口からちらりと聞いたことがございますので……」
「むむ」と、半七も思わずひと膝乗り出した。「どんなことを聞かされたね」
「別に取り留めた事でもないのですが……」と、長五郎はまた躊躇した。
「ここでおめえが何を云おうとも、おれはみんな聞き流しにする。おめえは勿論、屋敷へも決して迷惑はかけねえ。遠慮無しに話してくれ」と、半七は催促するように云った。
「はい」
「いつまでも焦らしていちゃあいけねえ。おれだって洒落や冗談に訊いているのじゃあねえから、そのつもりで返事をしてくれ」
半七もやや焦れて来た。
云おうとして云い得ないように、長五郎はいつまでも渋っていた。
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