六
それにしても、私にはまだ判らないことがあった。
「小伊勢という料理屋の息子が出逢ったのは、ほんとうのお糸ですか。それとも例の狐ですか」と、私は顔を撫でながら訊いた。
「はは、眉毛を湿らすほどの事はありません。それは狐でも何でもない、本当のお糸なんですよ」と、老人は又笑った。「しかし、それが不思議と云えば不思議でないことも無い。むかしは不思議のように云われたんですが、こんにちで云えば何かの精神作用でしょう。四月二十八日の宵に、お糸が坂井屋の店さきに立っていると、どこからか自分の名を呼ぶ者がある。それが彼のジョージの声らしく聞えたので、呼ばれるままにふらふら歩き出して、半分は夢のように鈴ヶ森まで行ってしまったんだそうです。そうして、睨みの松あたりをうろついているところへ、小伊勢の巳之助が通りかかった。さあ、そこで間違いが出来したので……。
坂井屋のお糸と若狭屋のお糸とは、その名が同じばかりでなく、格好も年頃も似ているので、薄暗いなかで巳之助はその女を若狭屋のお糸と間違えた。お糸の方では巳之助を建具屋の伊之助と間違えた。巳之助は少し酔っていたので、伊之さんと呼ばれたのを巳之さんと早合点してしまったらしい。人違いとは気がつかずにお糸が巳之助にあやまっていたのは、かのジョージの一件があるからでしょう。お糸の顔が眼鼻もないのっぺらぼうに見えたなぞというのは、巳之助の眼の迷いで、もしや狐じゃあないかという疑いから、そんな顔に見えたのだろうと思われます」
「巳之助を殴ったのは誰ですか」
「ジョージです。前に云ったようなわけですから、昼間は表へ出ることが出来ないので、暗くなると散歩に出る。今夜も丁度にそこへ来合わせて、巳之助をなぐり倒してお糸を救ったんです。それから自分の隠れ家へお糸をかかえて行って介抱すると、お糸は息を吹き返しました。そこで、どういう相談が出来たのか、お糸は坂井屋へ帰らずに、ジョージのところへ一緒に隠れることになりました。
ジョージを隠まった九兵衛という百姓は、別に悪い奴ではありませんが、ひどく慾張っている。その慾からお此に抱き込まれて、ジョージを隠まったのが身の禍となったのです。お糸が転げ込んで来たことを九兵衛から知らされて、お此は思う壷だと喜びました。こうなれば、お糸も伊之助とは確かに手切れで、男は自分の独り占めだと喜んだのですが、唯それだけでは済ませません。その隠れ家へ時々に押し掛けて行って、云わば一種の強請のように、なんとか彼とか名を付けてジョージから金を引き出していました。
しかしジョージも日本の金をたくさん持っている筈はありませんから、渡してくれるのは外国のドルです。そこでお此の申し立てによると、外国のお金であるから本物か贋物か自分にも判らない、ジョージから受け取った物をそのまま両替屋へ持って行っただけの事で、贋金を使う料簡なぞは毛頭もなかったと云うんです。又ジョージがどうして贋金を持っていたのか判りません。恐らく支那へ奇港した時に、向うの奴に贋金を掴ませられ、本人も気がつかずにいたんだろうという話でした。そんなわけで、贋金づかいの方は証拠不十分でしたが、三島の店で絵草紙屋のせがれから小判一枚を掻っさらったことは、お此も恐れ入って白状に及びました。入墨者ですから罪が重く、今度は遠島になったように聞きました」
「ジョージとお糸はどうなりました」
「それについて、又ひとつのお話があります。お此の白状で二人のかくれ家は判ったんですが、ジョージは外国人ですから迂濶に手が着けられません。町奉行所から外国奉行の方へ申達して、外国係から更に外国公使へ通知するというような手続きがなかなか面倒です。それやこれやで小半月もそのままに過ぎていると、どこでどう聞き込んだものか、浪士ふうの侍ふたりが九兵衛の家へ突然に押し込んで来て、ここの家に外国人が隠まってある筈だから逢わせてくれと云うんです。そのころ流行の攘夷家と見ましたから、九兵衛は飽くまでも知らないと云う。いや、隠してあるに相違ないと云う。その押し問答の末に、九兵衛と伜の九十郎は斬られました。九十郎は浅手でしたが、九兵衛は死んでしまいました。ジョージはピストルを続け撃ちにして、あぶないところを逃がれましたが、それっきり姿を晦まして何処へ行ったのか判りません。あとで聞くと、羽田あたりの漁船を頼んで、品川沖の元船へ戻ったらしいんです。九兵衛親子を斬った浪士は何者だか判りません。
お糸は構い無しというので坂井屋へ戻されました。建具屋の伊之助はわたくし共にひどく嚇かされた上に、お此が贋金づかいであると聞いて一時は真っ蒼になったんですが、これも無事に還されました。熊蔵の話によると、お糸と伊之助は再び撚りを戻して、結局夫婦になったということです。狐の正体は先ずこの通り、あなたも化かされましたか。あはははははは」
老人は又笑った。狐が人を化かすのでない、人が人を化かすのであるとは、昔から誰も云うことであるが、まったく其の通りで、わたしも半七老人に化かされたらしい。帰るときに老人は云った。
「御安心なさい。山王下に狐は出ませんから……」
思えばそれも三十余年の昔である。その欝憤を今ここで晴らさんが為に、わたしが再び読者諸君を化かしたわけではない。
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