四
あくる日の朝、半七は八丁堀同心坂部治助の屋敷へ呼ばれた。すぐに行ってみると、それは彼の鈴ヶ森の一件で、変死人は市内の屋敷者らしいから、町方の方でその身もとを詮議して貰いたいと郡代からの依頼があった。下手人も分明次第に召し捕ってくれというのである。
「そういう訳だから、なんとか埒を明けてくれ」と、坂部は云った。
「かしこまりました。わたくしにも少し心あたりがありますから、早速取りかかります」
こうなると子分任せにもして置かれないので、半七はその足で品川へ出向いた。
このあいだの大雪以来、もう十日あまりの天気がつづいたので、大通りのぬかるみも大かたは踏み固められた。この頃の寒い風もきょうは忘れたように吹きやんで、いわゆる梅見日和の空はうららかに晴れていた。高輪の海辺をぶらぶらあるいて行くと、摺れ違う牛の角にも春の日がきらきらと光って、客を呼ぶ茶屋女の声もひとしお春めいてきこえた。品川の北から南へ通りぬけて、宿のはずれへ来かかると、ここらには寺が多い。その門内には梅でも咲いているのであろう、ところどころで鶯の声がきこえて、無風流の半七もときどきに足を止めた。
目あての桂庵は海保寺の門前にあって、入口にむさし屋という暖簾が懸かっていた。近所で訊くと、おかみさんは三十三の厄年で川崎の初大師へ参詣に行って、その帰り道で暴れ馬に蹴られて、駕籠に乗って帰って来たが、それから熱が出たので今も寝ているという噂であった。お六は鶏に襲われたことを秘して、馬に蹴られたと云っているらしい。鶏というのを憚っているのは、そこに何かの仔細が無ければならないと、半七の疑いはいよいよ深められた。彼は思い切って、むさし屋の暖簾をくぐってはいると、手引きらしい四十前後の女が店さきに腰をかけていた。
「ごめんなさい」と、半七は会釈した。「おかみさんは内ですかえ」
「おかみさんは二階に寝ていますよ」と、女も会釈しながら答えた。「七日ほど前に怪我をしましてね」
「番頭さんは……」
「番頭さん……。勇さんですか」
「ええ、勇さんです」
「勇さんは二、三日留守ですよ」
「どこへ行ったのです」
「さあ、わたしもよく知りませんが、金さんのところへでも行っているのじゃありませんか」
「金さんの家はどこでしたね」
「金さんの家は……。なんでも鮫洲を出はずれて右の方へはいった畑のなかに、古い家が二軒ある。一軒は空家で、その隣りが金さんの家だそうですよ」
「いや、ありがとう。おかみさんをお大事に……」
半七はそこを出て、更に近所で訊いてみると、むさし屋に出入りする金さんは金造といって、この品川の宿をごろ付き歩いて、女郎屋の妓夫などを相手に、小博奕などを打っている男であることが判った。それを友達にしている勇さんの正体も大抵想像された。
「ともかくも鮫洲へ行ってみよう」
半七は浜川の方にむかって、東海道をたどって行くと、涙橋のたもとで松吉に逢った。
「やあ、お出かけでしたか」と、松吉は寄って来てささやいた。「実は少し聞き込んだことがあるのですがね。品川の宿の入口に駕籠屋がある。あすこの奴らの話じゃあ、おとといの晩ひとりの若い侍が来て、桂庵のむさし屋はどこだと聞いて行ったそうで……。その侍の年頃や人相が鈴ヶ森の死骸にそっくりですから、やっぱり親分の鑑定通り、鈴ヶ森の一件は鳥亀の奴らに何かの引っかかりがあるに相違ありません。むさし屋の番頭だか亭主だか知らねえが、お六と一緒に暮らしている奴は勇二といって、土地の遊び人なんぞとも附き合っているそうですから、何をするか判りませんよ」
「その勇二は二、三日前から帰らねえと云うじゃあねえか」
「二十六日の晩から家へ帰らねえそうです」
「鮫洲の金造という奴の家へ行っているという話だから、これからともかくも行ってみようと思っているのだ」
「鮫洲の金造……。あいつならわっしも知っています。現にきのうも品川で逢いましたよ。生薬屋の店で何か買っていました」
「金造はどんな奴だ」
「なに、けちな野郎ですよ」
半七は立ちどまって考えていた。
「おい、松。御苦労だが、品川へ引っ返して、その生薬屋で金造が何を買ったか調べて来てくれ。風薬の葛根湯ぐらいならいいが、疵薬でも買やあしねえか」
「ようがす。すぐに調べて来ます」
「往来に立ってもいられねえ。そこの団子茶屋に休んでいるぜ」
橋のたもとの茶店にはいって暫く待っていると、やがて松吉が急ぎ足で帰って来た。
「親分。案の通り、金造は切疵のくすりを買って行きました。金創いっさいの妙薬という煉薬だそうで……」
勇二は金造の家にかくれて疵養生をしているのであろうと、半七は推量した。鈴ヶ森で侍を殺した時に、彼も手疵を負ったらしい。自分の家へ帰って療治をすると、秘密露顕の虞れがあるので、金造に頼んで薬を買わせにやったのであろう。どんな様子か実地を見とどけて、怪しい節があればすぐに引き挙げてもいいと決心して、松吉にもそっとささやくと、彼も同意して親分のあとに続いた。
街道から右へ切れると、そこらには田畑が多かった。細い田川も流れていた。その田川で小鮒でもあさっているらしい子供に教えられて、金造の家はすぐに知れた。むさし屋の女の云った通り、近所に遠い畑のなかに二軒の藁葺き屋根が隣り合っていて、外には型ばかりの低い垣根が結いまわしてあった。軒は朽ち、柱は傾いて、どっちが空家か判らないほどに荒れているので、二人は垣根の外に忍び寄って、右と左の家をうかがっていると、左の家のなかで忽ちにわっという男の悲鳴がきこえた。
二人ははっと顔を見あわせると、破れ障子を蹴倒して一人の男がころげ出した。彼は左の脇腹をかかえながら、庭の空地に転げ落ちたかと思うと、また這い起きて駈け出して、竹の朽ちている垣根を押し破って、表へくぐり出ると直ぐにのめって倒れた。その腰から下は溢れるばかりの生血にひたされていた。
「や、金造か」と、松吉は叫んだ。「おい、どうした、どうした」
金造は倒れたままで声も出さなかった。その間に半七は垣を破って内へ駈け込むと、破れ畳にもなまなましい血が流れて、うす暗い家のなかに幽霊のような若い女が、さながら喪神したようにべったりと坐っていた。坐るというよりも半分は倒れたようなしどけない姿で、手には匕首を握っていた。しかもそれが相当の武家の奥方とでも云いそうな人柄であるので、半七も少し躊躇した。
「あなたはどなたでございます」
女は黙っていた。
「あの男はあなたがお手討ちになったのですか」
女はやはり黙っていたが、やがて気がついたように匕首をとり直して、自分の咽喉に突き立てようとしたので、半七は飛びあがって其の手を押さえたが、もう間に合わなかった。彼女の蒼白い頸筋からくれないの血が流れ出した。
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