五
近所の自身番へ連れ込まれて、宇吉は素直に申し立てた。彼はお節や新次郎から幾らかの小遣い銭を貰って、六月以来、山谷の里方へ五、六たび使いに行ったことがある。いつも手紙を届けるだけであるから、その用向きは知らないと云った。おかみさんと新次郎とは何か訳があるのかと訊かれて、宇吉はそれも知らないと答えた。
「きょうも手紙を届けに行ったのか」
「新どんの手紙を持って行ったんです」
「向うから返事をくれたか」
「返事は無いというので、そのまま帰って来ました」
半七は舌打ちした。届けにゆく途中で取り押さえて、その密書を手に入れれば、なにかの秘密をさぐることが出来たのであるが、空手で帰る途中ではどうにもならない。彼は少しく思案して、自身番の男に云った。
「もし、定番さん。わたしが引っ返して来るまで、この小僧を奥へほうり込んで置いてください。縛って置くにゃあ及ばねえが、逃がさねえように気をつけて……」
宇吉をそこに預けて、半七は自身番を出た。それから蕎麦屋へ帰ってくると、日の暮れる頃に徳次が顔を見せた。
「どうだ。なんにも当りはねえか」
小僧の一件を聞かされて、徳次はうなずいた。
「そうして、その小僧はどうした」
「番屋へ預けて置きました」と、半七は云った。「日が暮れても小僧が帰らなけりゃあ、新次郎という奴は不安心に思って、ここへ様子を見に来るかも知れません。そこを何とかしようじゃあありませんか」
「そうだ、そうだ。いいところへ気がついた。小僧がいつまでも帰らなけりゃあ、新次郎は心配して出て来るに相違ねえ。だが、相手は店者だから、そう早くは出られめえ。今夜は夜ふかしと覚悟して、今のうちに腹をこしらえて置くのだな」
二人は近所の小料理屋へ行って夕飯を済ませた。半七を蕎麦屋に待たせて置いて、徳次は自身番へ出て行ったが、やがて帰って来て笑いながら云った。
「半七。おめえの調べはまだ足りねえぜ。おれは鍋久の小僧を調べて、こんな事を聞き出した。鍋久の女中のお直という女は、きのう出しぬけに暇を出されたそうだ。もっとも今月は八月で、半季の出代り月じゃああるが、晦日にもならねえうちに暇を出されるのはちっと可怪しい。これにゃあ何か訳がありそうだ。お直の宿は下谷の稲荷町だというから、ともかくも尋ねて行ってみろよ」
「してみると、お直という奴も何か係り合いがありそうですね。今夜すぐに行きましょうか」
「相手は女だ。まあ、あしたでも好かろう」
弁天山の五ツ(午後八時)の鐘を聞いて、二人は再びここを出た。小左衛門の露路の近所を遠巻きにして、そこらをうろ付いている筈であるが、半七は念のために露路の奥へ覗きにゆくと、井戸を前にした小左衛門の家の奥から女の泣き声が洩れてきこえた。
女はお直かお節かと、半七は胸をおどらせながら耳を澄ましていると、低いながらも鋭いような男の声が更にきこえた。
「お前のいうのはみんな云いがかりだ。あまりにばかばかしくって、相手になっていられない。もういい加減にして、帰れ、帰れ」
「いいえ、若いおかみさんは生きているに相違ありません。きっと、どっかに隠れているんです」と、女は泣き声をふるわせて、相手に食ってかかるように叫んだ。
「まだそんなことを……。近所へきこえても迷惑だ。さあ、帰れ。浪人しても、おれは侍だ。不法の云いがかりをすると、容赦しないぞ」
この時、露路の口から忍ぶようにはいって来る足音がきこえたので、半七はあわてて井戸側のかげに身をかくすと、一人の男があたりを見まわしながら、小左衛門の家の格子をそっとあけた。そのあとから徳次も抜き足をして追って来た。
「おい。野郎が来たぞ」と、彼は半七を見付けてささやいた。
予定の通りに、新次郎が忍んで来たのである。しかも彼がはいって来てから、三人の話し声が俄かに低くなって、外へはちっとも洩れなくなったので、二人は苛々しながら猶も窺っていると、忽ちに女の悲鳴が起った。
「あれ、人殺し」
もう猶予は出来ないので、二人は格子を蹴開いて跳り込むと、小左衛門は早くも行灯を吹き消した。狭い家内の闇試合で、どうにか男ひとりを取り押えたが、ほかはどこにいるのか見当が付かなかった。徳次は大きい声で呼んだ。
「長屋の者は早くあかりを持って来い。御用だぞ」
御用の声を聞いて、長屋の者どもは提灯や蝋燭を照らして来た。ふたたび明るくなった家内には若い女が半死半生で倒れていた。お店者ふうの若いものが徳次に押えられている。あるじの小左衛門のすがたは見えなかった。
「畜生……」
押えている男を半七に渡して、徳次は露路の外へ追って出たが、暫くしてむなしく帰って来た。表は月の明るい夜でありながら、逃げ足の早い小左衛門は、巧みにゆくえを晦ましてしまったというのである。
女は鍋久のお直で、小左衛門のために咽喉を絞められかかったのであるが、人々に介抱されて息をふき返した。男はかの新次郎であった。彼等ふたりは自身番へ引っ立てられて、徳次の下調べを受けたが、まず新次郎の申し立てによると、お節の縁談について鍋久のおきぬが山谷へしばしば尋ねて来る時、彼は幾たびかその供をして来て、お節の美貌にこころを奪われた。しかも彼女は若主人の嫁になる女であるから、新次郎はどうでも諦めるのほかはなかった。その素振りがお節の眼に付いたものか、嫁入り早々から、彼女は新次郎に親しく物などを云いつけた。勿論、新次郎は総身がとろけるほどに嬉しかった。こうしてひと月ほど過ぎた後、新次郎が土蔵へ何かを取り出しに行ったところへ、お節もあとから忍んで来て、こんなことを彼にささやいた。自分の父はある旗本の屋敷に用人を勤めているあいだに、千両ほどの金を使い込んで、すでに切腹にも及ぶべきところを、その金を年賦にして三年間に返納するということで、まずは無事に長の暇となったのである。しかも今は浪人の身で、その大金の調達は容易に出来ない。現に自分の支度料として受け取った二百両も、半分以上はその方へ繰り廻したのであるが、それでも不足であることは判り切っている。さりとて嫁入り早々に、姑や夫にそれを打ち明けることも出来ない。就いてはわたしを助けると思って、土蔵に仕舞ってある金をぬすみ出してはくれまいか。万一それが露顕した暁には、わが身にかえても決してお前に難儀はかけまいと、彼女は泣いて口説いたのである。
奉公人として主人の金をぬすみ出すのは罪が深い。殊に十両以上の金であれば、死罪に処せられるのが定法である。それを承知しながら新次郎がやすやすと承知したのは、お節のことばに一種の謎が含まれていたからであろう。彼はもうなんの分別も無しに、手近の金箱から二百両と百八十両を二度ぬすみ出して、お節の指図通りに山谷の実家へとどけたのである。
お節がなぜ夫を殺したのか、それに就いてはなんにも知らない。自分も不意の出来事におどろいたと、新次郎は申し立てた。
表へ飛び出すお節を追っかけて行った時、店の灯が薄暗いのでよくは判らなかったが、散らし髪を振りかぶっているお節の顔が、どうも其の人らしく見えなかったので、自分は今でもそれを疑っていると、彼は云った。
徳次は更にお直を調べた。
「お直。おまえは幾つだ」
「二十歳でございます」
「鍋久には何年奉公している」
「三年でございます」
「新次郎と出来合っているのだな。そうだろう、正直に云え」
「恐れ入りました」と、お直は蒼ざめた顔を紅くした。
「今夜は小左衛門の家へ何しに行ったのだ」
「若いおかみさんが居るか居ないか、訊きに行ったのでございます」
「生きていたらどうするのだ」
「お上へ訴えてやります」と、彼女はだんだん興奮して来た。「若いおかみさんが来てから、新どんは何んだかそわそわしていて、わたくしを見向きもしません。何を話しかけても碌々に返事もしません。新どんは若いおかみさんに惚れているのでございます。それはわたくしがよく知っています。おかみさんは身を投げて死んだということになっているのに、新どんはどうも生きているように思われると、内証でわたくしに云いました。新どんはきっと何か知っているに相違ありません」
「おまえはどうして鍋久から暇を出されたのだ」
「やっぱりその事からでございます。若いおかみさんは生きているかも知れないと、わたくしがふいと口をすべらせたのが、おかみさんや番頭さんの耳にはいって、飛んでもないことを云う奴だと、さんざん叱られました。それがもとで、とうとうお暇が出たのでございます」
「新次郎。おまえは今夜どうして出て来た」
「昼間のうちに小僧を使によこしましたが、それがいつまでも帰って参りませんので、なんだか不安心になりまして……」
「小僧に持たせてよこした手紙には、どんなことが書いてあるのだ」
「どう考えましても、若いおかみさんは何処かに生きているように思われてなりませんので……」と新次郎は恐るるように小声で答えた。「どっかに隠れているならば、ぜひ一度逢わせてくれと……」
「逢ってどうする積りだ」
新次郎は俯向いたままで黙っていると、それを妬ましそうに睨んでいたお直は、横合いから鋭く叫んだ。
「申し上げます。新どんは若いおかみさんと一緒に駈け落ちでもする積りに相違ございません。それでわたくしを殺そうとしたのでございます」
「わたしが何んでお前を……」と、新次郎はあわてて打ち消した。
「手をおろしたのはお前でなくっても、あの浪人とぐるになって、わたしを殺そうとした。そうだ、そうだ、それに相違ない。わたしを誤魔化して追い返そうとしても、わたしがどうしても動かないので、浪人が両手でわたしの咽喉を絞めようとした……。その時お前さんはわたしを助けようともしないで、平気で眺めていたじゃあないか」
「いや、助ける間がなかったのだ」
「いいえ、嘘だ、嘘だ」
「嘘じゃあない」
「さんざん人を欺して置いて、邪魔になったら殺そうとする……。おまえは鬼のような人だ」
「そうぞうしい。静かにしろ」と、徳次は二人を叱り付けた。「いつまでも噛み合っているにゃあ及ばねえ。おれの方にも眼があるから、白い黒いはちゃんと睨んでいるのだ」
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