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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)49 大阪屋花鳥

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-28 18:48:57  点击:  切换到繁體中文


     二

 それからふた月あまりの後である。
 日本橋北新堀町の鍋久の店に美しい嫁が来た。嫁の名はお節といい、浅草の山谷さんやの露路の奥に十人ばかりの子供をあつめて、細々ながら手習い師匠として世を送っている磯野小左衛門という浪人の娘であった。
 こう云えば、詳しい説明を加える必要もあるまい。鍋久の一行が人丸堂のほとりへ駈けつけて、ともかくも娘を近所の茶店へ連れ込んで介抱すると、幸いにさしたることも無くて正気にかえった。人丸堂の前まで来かかった時に、さっきの男が何処からか現われて、突然に娘の脾腹ひばらを突いたのであるという。刃物でなく、拳固で突いただけであるから、いわば当て身を食わされたようなわけで、一旦は気が遠くなったがほかに別条もなかったのである。刃物で顔でも斬られないのが勿怪もっけの仕合わせであったと人々は喜んだ。こうなると、娘ひとりで帰らせるのは何分にも不安であるので、久兵衛ら四人はその自宅まで送って行くことにした。
 娘はしきりに辞退したが、ほかに思惑おもわくのあるおきぬ母子は無理に一緒に付いて行って、娘の親にも逢った。母は先年世を去って、当時は父の小左衛門と娘お節の二人暮らしであることも判った。おきぬはその翌日、女中のお直をつれて再び馬道の家へきのうの礼にゆくと、お節はきょうも参詣に出たというので留守であった。父の小左衛門は病中で、この頃は碌々に子供たちの稽古も出来ないが、娘がよく世話をしてくれるのでどうにか無事に日を送っている。親の口から申すも如何いかがながらと、小左衛門はわが子の孝行をめるように云った。
 浪人ながらも武士の子で、容貌きりょうが美しくて、行儀が好くて、親孝行であるという以上、嫁として申し分のない娘である。浪人の貧乏はめずらしくない。系図さえ正しければ町人の嫁として不足はない。本人の久兵衛よりも、母のおきぬがこの娘に惚れてしまったのである。彼女はその後も山谷の家を二、三度たずねて、ついに縁談を持ち出すと、折角ながら独り娘であるからというので、一旦は断わられた。それを押し返して幾たびか口説くどいた末に、父の小左衛門には毎月相当の隠居料を贈ること、お節には嫁入りの支度として二百両を贈ることで、まず相談が纏まった。六月はじめの吉日に、お節は鍋久の店へめでたく輿入れを済ませて、若夫婦の仲もむつまじく見えた。
 それから更にふた月ほど経て、その年の七月も末になった。旧暦の盂蘭盆うらぼん過ぎで、ことしの秋は取り分けて早かった。この二、三日は薄ら寒いような雨が降りつづいて、水嵩の増した新堀川はひえびえと流れていた。鍋久の嫁のお節は十日ほど前から風邪かぜを引いたような気味で、すこし頭痛がするなどと云っていたが、医者に診て貰うほどの事でもないので、買い薬の振り出しなどを飲んでいるうちに、二十九日の朝から何だか様子が変って来た。彼女は怖い眼をして人を睨んだ。これまであらい声などを出したことの無い彼女が、激しい声で女中を叱ったりした。病気でかんたかぶったのであろうから、なるべく逆らわないがいいと、おきぬは久兵衛に注意していた。
 鍋久の店では四ツ(午後十時)を合図に大戸をおろそうとした。その時、奥の若夫婦の居問で、ただならぬ久兵衛の叫び声がきこえた。
「これ、お節……。どこへ行く……。これ、お節……」
 その声を聞きつけて、母のおきぬは茶の間を出てゆくと、長い縁側の途中でお節に出逢った。若い嫁は顔も隠れるほどに黒髪を長く振り乱して、物に狂ったように駈け出して来たので、おきぬは驚きながら、ともかくもそれを支えようとすると、お節は力まかせに彼女を突きのけた。その勢いが余りに激しかったので、おきぬはひとたまりもなく突き倒されて、まばらに閉めてある雨戸に転げかかると、雨戸ははずれた。その雨戸と共に、おきぬは暗い庭さきへころげ落ちた。
 この物音は表の方まで響いたので、店の者もみな驚いて奥へ駈け込もうとする時、出逢いがしらにお節が飛び出して来たので、彼らは又おどろいた。しかも相手が主人であるので、さすがに手あらく取り押えかねたのと、あまりの意外に少しく呆気あっけに取られて、唯うっかりと眺めているうちに、お節は彼らを突きのけて、今や卸しかけている大戸をくぐって表の往来へぬけ出した。
「早く押えろ」と、番頭の勘兵衛は呶鳴った。
 それに励まされて、若い者や小僧は追って出た。そのなかでも新次郎という若い者が一番さきへ駈け出して、お節の右の袂を捉えようとすると、彼女は身を捻じ向けて振り払った上に、なにか刃物のようなものを叩きつけて又駈け出した。暗い夜で、雨は降りしきっている。その闇のなかをお節は駈けた。店の者共も追った。しかもお節は遠くも行かずに、眼の前の新堀川へ身を跳らせて飛び込んでしまった。
「身投げだ、身投げだ。若いおかみさんが身を投げた」
 騒ぎはいよいよ大きくなって、店からは幾張いくはりの提灯をとぼして出た。近所の店の者も提灯を振って加勢に出た。大勢の人々が雨夜の河岸かしを奔走して、そこか此処かと探し廻ったが、二、三日降りつづいて水嵩の増している川のおもに、お節の姿は浮かびあがらなかった。河岸につないである小舟を出して、無益にそこらを尋ね明かしているうちに、その夜はむなしくけて行った。
「これが昼間ならばなあ」
 何分にもこの時代の夜は不便であった。岸の上に、水の上に、無数にひらめく提灯の火も、遂に若い女ひとりの姿を見出し得ずに終った。この川下かわしもは永代橋である。死体はそこまで押し流されて、広い海へ送り出されてしまったのかも知れない。人々は唯いたずらに溜息をつくばかりであった。
 お節の身投げも意外の椿事に相違なかったが、鍋久の家内には更におそろしい椿事が出来しゅったいしていた。主人の久兵衛は何者にかくびすじを斬られて、半身をあけに染めて倒れていたのである。おきぬがそれを発見した時、彼はもう息の絶えた亡骸なきがらとなっていた。
 久兵衛を殺したのは何者か。若い者の新次郎がお節を追い捉えようとした時に、投げ付けられたのは剃刀かみそりであって、それは店さきの往来で発見された。新次郎は別に怪我もなかったが、お節が刃物をたずさえて狂い出したのを見れば、彼女が夫の久兵衛を殺害して、自分も入水じゅすいしたものと認めるのほかは無い。
 検視の役人らもそう鑑定した。立ち会いの医者の意見も同様で、おそらくお節が突然に乱心して、夫を殺し、自分も自滅したのであろうというのであった。その日の朝から彼女の様子が常に変って見えたというのも、それを証拠立てる一つの材料となった。
 いつの世にも乱心者はある。乱心者が何事を仕出来しでかそうとも致し方がないというので、役人らも深い詮議をしなかった。鍋久でも世間の手前、この一件を余りおおやけ沙汰にしたくないので、役人らにもよろしく頼んで、いっさいを内分に納めることにした。主人久兵衛は急病頓死と披露して、ともかくも型の如くに葬式を済ませた。お節の死骸は遂に発見されなかった。
 こうして一旦は納まったものの、お節の入水も久兵衛の変死も近所ではみな知っているのであるから、人の口に戸は立てられぬというたとえの通りで、その噂はそれからそれへと伝わって、神田の吉五郎の耳にもはいった。
「鍋久の嫁が剃刀で亭主を殺した……。気ちがいに刃物とは全くこの事だから、どうも仕方がねえ。だが、旦那方の詮議もちっと足りねえようだな」
「すこし洗ってみましょうか」と、子分の徳次が云った。
「権兵衛のあとへ廻って、からすがほじくるのも好くねえが、まあちっとほじってみろ。どうも気が済まねえことがあるようだ。おい、半七、おめえも徳次に付いて行って、御用を見習え」
「その時わたくしはまだ十九の駈け出しで……」と、半七老人はここで註を入れた。「後には吉五郎の養子になって、まあ二代目の親分株になったんですが、その頃は一向に意気地がありません。いわば見習いの格で、古参こさんの人たちのあとに付いて、ああしろこうしろのお指図次第に、尻ッ端折ぱしょりで駈けずり廻っていたんですから、時には泣くような事もありましたよ」

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