三
「おい、お光。おれは幸次郎のように嚇かしゃあしねえ」と、半七は賺すように云い出した。「若い女をおどしにかけて白状させたと云われちゃあ、御用聞きの名折れになる。おれはおとなしくおめえに云って聞かせるのだ。その積りで、まあ聴け。宮戸川のお光には此の頃いい旦那が出来て、当人も仕合わせ、おふくろも喜んでいる。ところが、その旦那には女房がある。これがお定まりのやきもちで、いろいろのごたごたが起る。その挙げ句の果てに、女房は二日の晩にこの大川へ飛び込んだ。亭主もいい心持はしねえから、毎日この川へ覗きに来る。お光も寝覚めが悪いから、ひょっとすると、その枕もとへ女房の幽霊でも出るのかも知れねえ。そこで自分も大川へ来て、人に知れねえように南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経を唱えている。話の筋はまあこうだ。大道占いはどんな卦を置いたか知らねえが、おれの天眼鏡の方が見透しの筈だ。おい、どうだ。おれにも幾らか見料を出してもよかろう」
「恐れ入りました」と、お光はふるえながら微かに答えた。
「おい、幸」と、半七は笑った。「恐れ入りましたと云う以上は、弱い者いじめをしちゃあいけねえ。これからはお互いに仲良くするのだ。そこで、お光。その旦那というのは何処の人だ」
「田町でございます」
「浅草の田町だな」
「はい。袖摺稲荷の近所で……」
「なんという男で、何商売をしている」
「宗兵衛と申しまして、金貸しを商売にして居ります。おもに吉原へ出入りをする人達に貸し付けているのだそうで……」
「じゃあ、小金を貸しているのだな、身上はいいのか」
「よくは知りませんが、不自由は無いようでございます」
「おめえは宗兵衛の女房を知っているのか」
「知って居ります」と、お光は云い淀みながら答えた。「あたしの家へ幾度も来たことがありますので……」
「おめえの家はどこだ」
「馬道の露路の中でございます」
「女房が何しに来た。暴れ込んで来たのか」
「旦那を迎えに……。初めのうちは旦那も素直に帰ったんですが、しまいには喧嘩を始めて……。おっ母さんも、あたしも困ったことがあります。この二日の晩にも、旦那がよっぽど酔っているところへ、おかみさんが押し掛けて来て、とうとう大喧嘩になってしまって……。旦那はおかみさんを引き摺り倒して、乱暴に踏んだり蹴ったりするので、あたし達もみかねて仲へはいって、ともかくもおかみさんを宥めて表へ連れ出そうとすると、おかみさんはもう半気違いのようになっていて、鬼のような顔をして旦那を睨んで、この野郎め、おぼえていろ、あたしが死んでも、蝋燭が物を云うぞ……」
「蝋燭が物を云うぞ……。女房がそんなことを云ったのか」と、半七は訊き返した。
「云いました」と、お光はうなずいた。「そうして、あたし達を突きのけて、跣足で表へ駈け出してしまいました。旦那は平気で冷ら笑って、あいつは陽気のせいでちっと取り逆上せているのだ。あんな気違いに構うな、構うなと云って、相変らずお酒を飲んでいましたが、そのうちにふいと気がついたように、急ぎの用を思い出したから直ぐに帰ると云い出して、雨の降るなかを帰って行きました」
「そりゃあ何刻だ」
「弁天山の四ツがきこえる前でした」
「その後に宗兵衛はおめえの家へ顔を見せたか」
「一度も来ません」
「その仮橋から身を投げたのは宗兵衛の女房だということを、おめえはどうして知っているのだ」
「今も申す通り、あの晩おかみさんが出て行く時に、あたしが死んでも蝋燭が物を云う……。それが耳に残っているところへ、きのうこの川で揚がった女の死骸は、金の蝋燭をかかえていたという評判で、その年ごろも丁度おなじようですから、きっと旦那のおかみさんに相違ないと、おっ母さんは大変に心配しているんです。あたしも気になって堪まりませんから、その様子を聞きながらここへ来て、占い者に見て貰いますと、おまえさんには死霊が祟っていると云われたので、いよいよぞっとしてしまいました」
「宗兵衛は江戸者かえ」
「いいえ、なんでも東海道の方に長くいたそうで、大井川の話なんぞをした事があります。江戸へは一昨年の春頃から出て来たということです」
お光は更に半七の問いに対して、宗兵衛はことし四十歳、女房のお竹は三十三歳、夫婦のあいだに子供は無く、田町の家はお由という山出しの女中と三人暮らしである。他国者だけに、江戸には身寄りも無いらしく、かつて親類の噂などを聞いたことも無いと云った。
「そこで、その蝋燭の一件だが……」と、半七はまた訊いた。「それに就いて何か聞いたことがあるかえ」
「二日の晩に初めて聞いたので……。それまでに誰もそんな話をしたことはありませんでした」
「そうか。じゃあ、きょうはまあこの位でよかろう。おっ母にもあんまり心配するなと云って置け」
「ありがとうございます」
「宗兵衛という旦那が来ても、きょうのことは決してしゃべっちゃあならねえ。詰まらねえおしゃべりをすると飛んだ係り合いになるぞ」
半七はよく云い含めてお光を帰した。
「ねえ、親分。あの女は旦那という奴に内通しやあしませんかね」と、幸次郎は云った。
「なに、奥山の茶屋女が慾得ずくで世話になっている旦那だ。心から惚れているわけでもあるめえ。それにしても、宗兵衛という奴を早く引き挙げなけりゃあならねえ。野郎め、女房にひどい意趣返しをされたな」
「意趣返しだろうか」
「意趣返しよ」と、半七は笑った。「亭主の悪事が露顕するように、女房は金の蝋燭を抱いて身を投げたのだ」
「そんならむしろ訴えて出ればいいのに……」
「それにゃあ訳があるのだろう。訴えて出れば自分もお仕置にならなけりゃあならねえ。自分はひと思いに死んでしまって、あとに残った亭主を磔刑か獄門にでもしてやろうという料簡だろう。女に怨まれちゃあ助からねえ。おめえも用心しろよ」
「はは、わっしは大丈夫だ」
二人は両国を出て浅草の方角にむかった。
「都合によっちゃあ、それからそれへと追っ掛けにならねえとも限らねえ」と、半七は云った。
「刻限はちっと早えが、腹をこしらえて置こう」
茶屋町辺の小料理屋で午飯を済ませて、二人は馬道から田町一丁目にさしかかった。表通りは吉原の日本堤につづく一と筋道で、町屋も相当に整っているが、裏通りは家並もまばらになって、袖摺稲荷のあるあたりは二、三の旗本屋敷を除くのほか、うしろは一面の田地になっているので、昼でも蛙の声が乱れてきこえた。稲荷の近所というのを心当てに、二人は探しあるいていると、往来で酒屋の小僧に出逢った。
「おい、ここらに金貸しの宗兵衛さんという家はねえかね」と、幸次郎は小僧を呼びとめて訊いた。
「宗兵衛さんはいないよ」
「どこへ行った」
「どこへ行ったか知らないが、ゆうべから帰らないと女中が云ったんだ」
「まあ、留守でもいいや。その家を教えてくれ」
小僧に教えられて、宗兵衛の家をたずねて行くと、柾木の生垣に小さい木戸の入口があって、それには昼でも鍵が掛けてあるので、二人は更に横手へまわると、ここにも裏木戸があって、その戸を押すとすぐに明いた。
「御免なさい」
女中は居睡りでもしていたらしく、二、三度呼ばせて漸く出て来た。彼女は水口の障子をあけて、不審そうに半七らをながめていた。
「おまえさんは女中かえ。お由さんというのだね」と、半七は先ず訊いた。
お由は無言でうなずいた。
「旦那はお留守ですかえ」
「ゆうべから帰りませんよ」
「馬道のお光さんのところへ泊まり込みかね」
何でもよく知っていると云うように、お由は無言で半七らの顔をふたたび眺めた。
「実はそのお光さんの家へ行ってみたのですが、ゆうべから旦那は来ないというので……。それでお宅の方へ参ったのですが、旦那はどこへ行くとも、いつ帰るとも、云い置いて行きませんでしたかえ」
「なんにも云って行きませんよ」と、お由は素気なく答えた。
「おかみさんは……」
「おかみさんも留守ですよ」
「二日の晩から居ないのかえ」
お由は無言であった。
「隠しちゃあいけねえ。おかみさんは本当に二日の晩から帰らねえのだろう」
お由はやはり無言であった。半七は舌打ちしながら幸次郎を見かえった。
「また両国と同じ芝居を打たにゃあならねえ。女を嚇かすのはおめえに限る。まあ、頼むよ」
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