二
「一体、その女は自分で飛び込んだのか、粗相で落ちたのか、誰かに突き落されたのか、おめえに心当りはねえのかね」と、半七は訊いた。
「それはきのうも検視のお役人から御詮議がありましたが、まったく何も心当りが無いのです。わたくしは唯、ざぶんという水の音を聞いただけで、すぐに提灯を持って出ましたが、男か女か判らないので……」
久八は少し曖昧に答えた。身投げを見付けたらば直ぐに救うのが橋番の役であるが、今や欄干に手をかけた者を留めることはあっても、すでに飛び込んでしまった者を救い揚げることは滅多に無い。久八も水音におどろかされて一旦は出て行ったものの、もう遅いと諦めて、いい加減に引っ返したらしいのである。しかもそれが女であると判って、彼もいささか気が咎めないでも無かった。その時代の習慣として、男を見殺しにしたよりも、女や子供の弱い者を見殺しにしたということが、余計に不人情と認められたからである。
しかし今の半七に取っては、そんな詮議はどうでもよかった。彼は重ねて訊いた。
「その晩はまあそれとして、その後にも別に気の付いたことは無かったかね」
「それがねえ、親分」と、久八は声を低めた。「実はすこし変だと思うことが無いでもないので……。その明くる日の朝、ようよう夜が明けた頃に、ひとりの男が仮橋の上に突っ立って、暫く水の上を眺めていたのです。その時はさのみ気にも留めませんでしたが、御承知の通り、その日は朝の四ツ頃から雨があがっていい天気になりました。そうすると、午過ぎになって又その男が橋の上に来て、今朝とおなじように水を眺めているのです、それが二日も三日も続いたので、いよいよ変だと思っていると……。ねえ、お前さん。きのう女の死体が揚がってみると、死体は丁度その男の立っていた橋の下あたりに沈んでいたわけで……。してみると、その男は何かの係り合いがあって、女がそこらに沈んでいることを知っていて、幾度も川を覗きに来たのじゃあないかと思われるのですが……」
「ふうむ。そんなことがあったのか。そこで、その男はどんな奴だ」
「もう四十近い、色の浅黒い、がっしりした男で、まんざら野暮な人でも無いようなふうをしていました。勿論、別に証拠があるわけじゃあありませんが、ひょっとすると死骸の女の亭主で……」
「爺さん、偉れえ」と、幸次郎は啄を容れた。「おれも其の話を聴いて、すぐにそう思った。世間によくある奴で、女は夫婦喧嘩でもして飛び込んだのかも知れねえ。それにしても、やっぱり判らねえのは金の蝋燭……。どうしてそんな物を抱えていたかな」
「それが判りゃあ仔細はねえ」と、半七はにが笑いした。「いや、判らねえところが面白いのかも知れねえ。その男はきょうも来たかえ」
「きょうはまだ見えないようです」と、久八は答えた。「死骸が揚がってしまったので、もう来ないのかも知れませんよ」
「むむ」と、半七は薄く眼を瞑じて考えていた。「その男は西からか東からか、早く云えば日本橋の方から来たのか、本所の方から来たのか、それも判らねえかね」
「いつでも柳橋の方から来るようですから、あの辺の人か、それとも神田か浅草でしょうね」
「いや、ありがとう。御用とはいいながら、飛んだ邪魔をした。おい、爺さん。こりゃあ少しだが、煙草でも買いねえ。放し鰻の代りだ」
久八に幾らかの銭をやって、半七はここを出ると、幸次郎もつづいて出た。
「親分、女の亭主という奴はもう来ねえでしょうか」
「来ねえだろうな。困ったことには、人足どもが見付け出したのだから、方々へ行ってしゃべるだろう。そんな噂が立つと、奴らもきっと用心して証拠物を隠してしまうに相違ねえ。気の早い奴はどこへか飛んでしまうかも知れねえ。ぐずぐずしていると折角の魚に網を破られてしまう。何とか早く埒を明けてえものだな」
「橋番のおやじがもう少し気が利いていりゃあ何とかなるのだが……」
「あんな耄碌おやじを頼りにしていて、上の御用が勤まるものか」と、半七は笑った。「まあ、柳橋の方へ行ってみよう」
女の亭主らしい男が柳橋の方角から来たというだけのことで、その方角へ向ってゆくのは甚だ知恵のない話のようであるが、柳橋の方角から来たというのに対して、本所深川の方角へ向うわけには行かない。たとい何の当てが無くとも、ともかくもその方角へむかって探索を進めてゆくのが、その時代の探索の定石であると、半七老人は説明した。
前にもいう通り、橋の工事で広小路はふだんよりもさびれていたが、それでも食物屋のほかに、大道商人や大道易者の店も相当にならんでいた。易者は筮竹を襟にさし、手に天眼鏡を持ってなにか勿体らしい講釈をしていると、その前にうつむいて熱心に耳を傾けているのは、十八九ぐらいの小綺麗な女であった。半七は幸次郎をみかえって訊いた。
「おい、おめえはあの女を知っているかえ」
「冗談じゃあねえ。いくらわっしだって、江戸じゅうの女をみんな知っているものか」
云いながら、幸次郎は女の横顔をのぞいて、笑い出した。
「いや、知っています、知っています。あれは奥山のお光ですよ」
「むむ、宮戸川のお光か。道理で、見たような女だと思った。あいつ、いい亡者になって大道占いに絞られている。はは、色男でも出来たかな」
「色男でも出来たか、おふくろと喧嘩でもしたか。まあ、そんなところでしょうね」
自分の噂をされているとも知らずに、お光は見料の銭を置いて易者の店を出た。本来ならば唯そのままに行き過ぎてしまうのであるが、虫が知らせるというのか、半七は立ちどまって彼女のうしろ姿を暫く眺めていると、お光は更に両国橋に向って辿って行った。彼女は島田髷の頭を重そうに垂れて、なにかの苦労ありげに悄然としているのが半七の注意をひいたので、彼は幸次郎に眼配せしながら、小戻りして其のあとを追った。
お光はそれにも気がつかないらしく、狭い仮橋の中程を行きつ戻りつしていたが、やがて立ち停まって四辺を見まわしながら、川にむかってそっと手をあわせた。口の中でもなにか念じているらしかった。半七は幸次郎にささやいて、再び橋番の小屋へはいった。
「爺さん、又来たよ、おれはちょいと奥を貸して貰うぜ」
半七は障子をあけて小屋の奥に身を忍ばせると、やがてお光が帰って来た。それを待ち受けていた幸次郎は声をかけた。
「おい、お光ちゃん。どこへ行った」
呼ばれてお光は驚いたように振り返った。その顔は陰って蒼ざめていた。
「どうしたえ。ひどく顔の色が悪いじゃあねえか。麻疹かえ。はは、そりゃあ冗談だ。なにしろまあここへ掛けねえ」と、幸次郎は笑いながら呼び込んだ。
お光は奥山の宮戸川という茶店の女で、幸次郎の職業もかねて知っているのであるから、呼びかけられて素通りも出来なかった。彼女は努めて笑顔を粧って、愛想よく挨拶した。
「おや、幸さん。急にお暑くなったようでございますね。きょうはこちらで何かのお見張りですか」
「なに、見張りというわけでもねえ。あんまりからだが閑だから、野幇間とおなじように、ここらへ出て来て岡釣りよ。そういう俺よりも、お光ちゃんこそ忙がしいからだで、ここらへ何しに出て来たのだ。おめえも色男の岡釣りかえ」
「ほほ、御冗談でしょう。両国橋が御普請だというので、どんな様子か拝見に出て来たんですよ」
「と云うのは、世を忍ぶ仮の名で、占い者にお手の筋を見て貰って……。それから両国の川へ行ってお念仏を唱えて……。これから何処へかお寺参りにでも行くのかね。はは、お若けえのに御奇特なことだ」
お光は顔の色を変えて、暫く無言で相手の顔を見つめていた。客商売に馴れている彼女も、当座の返事に困ったらしい。そこへ附け込んで、幸次郎は嚇すように云った。
「おい、お光。正直に云えよ。おめえは何でこの川へ来て拝んでいたのだ。後生願いに放し鰻をするほどの皺くちゃ婆さんでもあるめえ。それとも男を散々だました罪亡ぼしかえ。おい、唯の人が訊くのじゃあねえ。おれが訊くのだ。正直に云えよ」
彼女はやはり黙って俯向いていたが、その顔色はいよいよ蒼ざめて来たので、幸次郎は嵩にかかって嚇し付けた。
「こいつ、わる強情な女だな。おい、爺さん、縄を持って来い。この阿魔をふん縛ってしまうから……」
如何にこの時代でも、単にこれだけのことで無闇に人を縛ることの出来ないのは判り切っているのであるが、若い女はその嚇しに乗せられたのか、但しはほかに仔細があるのか、縄をかけると聞いて彼女はひどくおびえた。口を利くにも利かれず、逃げるにも逃げられず、彼女は身を固くして立ちすくんでいた。
ここらで好かろうと、半七は奥からふらりと出て来た。
「何だか嚇かされているじゃあねえか。宮戸川のお光が縄付きになったら、泣く人がたくさんあるだろう。なんとか助けてやりてえものだな」
幸次郎一人でさえも受け切れないところへ、又その親分が不意にあらわれて来たので、お光の顔は蒼いのを通り越して、土のような色になってしまった。
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