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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)45 三つの声
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二
その日の夕方に、鋳掛屋庄五郎の死体が芝浦の沖に浮きあがった。検死の役人が出張って型のごとく取り調べると、庄五郎のからだには何の疵あとも見いだされなかった。死体を投げ込んだのでないことは、彼がしたたかに潮水を飲んでいるのを見ても容易に察せられた。大師まいりに行くのであるから、もとより大金を所持している筈もなかったが、一朱銀五つと小銭少しばかりを入れてある紙入れは恙なくそのふところに残っていて、ほかには何も紛失物はないと女房のお国は申し立てた。 前後の事情によって判断すると、三人のうちでも庄五郎が真っ先に約束の場所へ行き着いたらしい。ほかの道連れを待つあいだ、かれは海岸の石垣にでも腰をかけていて、あやまって転げ落ちたのか、あるいは石段を降りて行って、うす暗い水の上で寝ぼけた顔でも洗い直しているときに、あやまって滑りこんだのか、おそらく二つに一つであろう。そのあとへ平七が来て、誰もまだ来ていないのを見て、あき茶屋の葭簀のなかへはいって寝込んでしまった。又そのあとへ藤次郎が来て、自分は置き去りを食ったのかと疑って、庄五郎の家へ聞き合わせに行った――係り役人は先ずこういう意見で、庄五郎の死骸はとどこおりなく女房に引き渡された。その死骸に何の疵もなく、なんの紛失物もないのをみれば、お国もそう考えるよりほかはなかった。 それから二日目の八ツ(午後二時)頃に、庄五郎の葬式は三田の菩提寺で営まれた。藤次郎はふだんからの懇意でもあるので、通夜は勿論、きょうの葬式にも施主側と一緒になっていろいろの手伝いをした。平七は庄五郎と同職で、しかも従弟同士であるので、無論に昼夜詰め切りで働いた。 庄五郎は二十八歳を一期として世を去ったが、従弟の平七のほかに是ぞという親戚はなかった。お国も浅草にひとりの叔母をもっているだけで、その叔母が来て何かの世話を焼いていた。年も若し、子供も無し、殊に女には出来ない商売であるから、小僧の次八は平七の方にたのんで、お国は夫の三十五日の済むのを待って、世帯を畳んでひと先ず浅草の叔母の家へ引き取られるということになっていた。お国さんは容貌も好し、人間も馬鹿でないから、どこへでも立派に再縁が出来ると近所でも噂していた。 四月十日の小雨のふる宵であった。同町の往来で二人の男が喧嘩をはじめた。最初は番傘で叩き合っていたが、しまいには得物を投げすてて組打ちになった。まだ宵の口のことであるので、近所の者もそれを見つけて、二、三人がその仲裁にかけ出すと、その男は平七と藤次郎であった。 「おれは庄五郎の親類だ。死んだあとの世話をするのに不思議があるか」と、平七は云った。「てめえこそ他人のくせに余計な世話を焼くな」 「おれは他人でも、庄五郎とはふだんから兄弟同様にしていたんだから、そのあとの世話をしてやるのが義理人情というものだ。本来ならば手前もお国さんと一緒になって、どうも御親切にありがとうございますと、おれに礼をいうのが本当だ」と、藤次郎は云った。 「べらぼうめ。誰がうぬらに礼をいう奴があるか」と、平七はまた呶鳴った。 この捫著はお国という若後家を中心として渦巻き起ったらしい。平七はお国と同い年の二十三歳で、まだ独り者である。藤次郎は二十七歳で、これも女房におとどし死に別れて今は男やもめである。一方は先夫と従弟同士、一方は先夫の親しい友達というのであるから、その亡きあとの面倒をみてやるのはむしろ当然の義理ではあるが、容貌のよい若後家に対して、ふたりの若い男があまり立ち入って世話を焼き過ぎるというのが、この頃は近所の噂にものぼっていた。その二人が今夜もお国の家で落ち合って、その帰り路に往来なかで掴み合いを始めたのであるから、喧嘩の仔細の大かたは想像されるので、仲裁に出る人たちも先ずいい加減になだめていると、暗いなかから不意に一人の男が出て来た。 「おい。二人ともそこまで来てくれ」 「どこへ行くんです」と、藤次郎は訊いた。 「番屋までちょいと来てくれ」 番屋と聞いて二人はすこし驚いたが、相手が唯の人らしくないと覚ったので、そのまま素直に町内の自身番へ引っ立てられて行った。高輪には伊豆屋弥平といういい顔の岡っ引があって、今はその伜が二代目を継いでいる。平七と藤次郎を引っ立てて行ったのは、その子分の妻吉という男であった。 「ひとりは鋳掛職の平七、ひとりは建具屋の藤次郎、それに相違あるめえな」と、妻吉はまず念を押した。 「てめえ達は雨のふる最中に、泥だらけになって何を騒いでいるんだ」 「へえ。おたがいに気が早いもんですから、つまらないことで喧嘩を始めました。お手数をかけまして相済みません」と、年上だけに藤次郎が先に答えた。 「いや、喧嘩の筋も大抵わかっている。これ、平七。貴様は三月二十一日の朝、鋳掛屋の庄五郎と一緒に川崎へ行く約束をしたそうだな」 「へえ」 「この藤次郎と三人で行く約束をしたのだそうだが、その朝は貴様が一番さきに行っていたな」 「いえ。出がけに庄五郎の家へ声をかけましたら、もう出て行ったということでございました」 「嘘をつけ」と、妻吉は行灯のまえで睨みつけた。「貴様は先に行っていて、それから引っ返して家へ行ったのだろう。真っ直ぐに云え」 「いえ、出がけに寄ったのでございます」 妻吉は舌打ちした。 「やい、やい。つまらねえ手数をかけるな。なんでも話は早いがいい。貴様は庄五郎の女房のお国という女に惚れているのだろう」 平七は勿論、藤次郎も一緒にうつむいてしまった。ふたりの腋の下に冷たい汗が流れているらしかった。 「おれはまだ知っている」と、妻吉は畳みかけて云った。「貴様はこの正月ごろ、町内の湯屋の番頭とお国の噂をして、あの女に亭主が無ければなあと云ったそうだが、ほんとうか」 身におぼえがあると見えて、平七はやはり俯向いたままで黙っていると、妻吉は勝ち誇ったように笑った。 「もう、いい。あとは親分や旦那が来て調べる」 平七は六畳の板の間へ投げ込まれて、まん中の太い柱にくくり付けられた。藤次郎は御用があったらば又よびだすというので、一旦無事に帰された。
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