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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)45 三つの声
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時代推理小説 半七捕物帳(四) |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1986(昭和61)年8月20日 |
一
芝、田町の鋳掛屋庄五郎が川崎の厄除大師へ参詣すると云って家を出たのは、元治元年三月二十一日の暁方であった。もちろん日帰りの予定であったから、かれは七ツ(午前四時)頃から飛び起きて身支度をして、春の朝のまだ明け切らないうちに出て行ったのである。 庄五郎の家は女房のお国と小僧の次八との三人暮らしで、主人が川崎まいりに出た以上、きょうは商売も休み同様である。ことに七ツを少し過ぎたばかりであるから、表もまだ暗い。これからすぐに起きては早いと思ったのと、主人の留守に幾らか楽寝する積りであったのとで、庄五郎が草鞋をはいて出るのを見送って、女房は表の戸を閉めた。女房は茶の間の六畳に、小僧は台所のわきの三畳に寝ることになっているので、二人は再びめいめいの寝床にもぐり込んで、あたたかい春のあかつきの眠りをむさぼっていると、やがて表の戸を軽くたたく者があった。 「庄さん、庄さん」 これに夢を破られて、お国は寝床のなかから寝ぼけた声で答えた。 「内の人はもう出ましたよ」 外ではそれぎり何も云わなかった。かれを怪しむらしい町内の犬の声もだんだんに遠くなって、表はひっそりと鎮まった。お国はまた眠ってしまったので、それからどのくらいの時間が過ぎたか知らないが、再び表の戸をたたく音がきこえた。 「おい、おい」 今度はお国は眼をさまさなかった。二、三度もつづけて叩く音に、小僧の次八がようやく起きたが、かれも夢と現の境にあるような寝ぼけ声で寝床の中から訊いた。 「誰ですえ」 「おれだ、おれだ。平公は来なかったか」 それが親方の庄五郎の声であると知って、次八はすぐに答えた。 「平さんは来ませんよ」 外では、そうかと小声で云ったらしかったが、それぎりで黙ってしまった。眠り盛りの次八は勿論すぐに又眠ったかと思うと間もなく、又もや戸をたたく音がきこえた。今度は叩き方がやや強かったので、お国も次八も同時に眼を醒ました。 「おかみさん。おかみさん」と、外では呼んだ。 「誰……。藤さんですかえ」と、お国は訊いた。 「庄さんはどうしました」 「もうさっき出ましたよ」 「はてね」 「逢いませんかえ」 「さっき出たのなら逢いそうなものだが……」と、外では考えているらしかった。 「大木戸で待ちあわせる約束でしょう」と、お国は云った。 「それが逢わねえ。不思議だな」 「平さんに逢いましたか」 「平公にも逢わねえ。あいつもどうしたのかな」 床の中で挨拶もしていられなくなって、お国は寝衣のまま起きて出た。お国はことし二十三の若い女房で、子どもがないだけに年よりも更に若くみえた。表の戸をあけて彼女がその仇めいた寝乱れ姿をあらわした時、往来はもう薄明るくなっていたので、表に立っている男の顔は朝の光りに照らされていた。かれは隣り町に住んでいる建具屋の藤次郎で、脚絆に麻裏草履という足ごしらえをしていた。 「平さんにも逢わず、内の人にも逢わず、みんなは一体どうしたんでしょうねえ」と、お国はすこし不安らしく云った。 「まさかおいら一人を置き去りにして、行ってしまった訳でもあるめえが……」と、藤次郎も首をかしげていた。 鋳掛屋の庄五郎は隣り町の藤次郎と露月町の平七と三人連れで、きょうは川崎の大師河原へ日がえりで参詣にゆく約束をして、たがいに誘い歩いているのは面倒であるから、七ツ半までに高輪の大木戸へ行って待ちあわせるということになっていたのである。その三人のうちで藤次郎が一番さきに出て行ったらしく、大木戸のあたりに他の二人の姿がまだ見えないので、しばらくそこらに待ちあわせていたが、海端の朝は早く明けて、東海道の入口に往来の人影もだんだんに繁くなる頃まで、庄五郎も来ない、平七もみえないので、藤次郎も不思議に思った。病気その他の故障が起ったとしても、ふたり揃って違約するのはおかしい。二十一日は大師の縁日であるから、その日を間違える筈もない。ともかくも引っ返して本人たちの家をたずねてみようと思って、まず手近の庄五郎の門をたたいたのであった。 それを聞いて、お国はいよいよ不安を感じた。亭主の庄五郎はとうに身支度をして出て行ったのである。高輪の海辺は真っ直ぐのひと筋道であるから、迷う筈もなければ行き違いになる筈もない。殊に庄五郎ばかりでなく、平七までが姿を見せないというのは不思議である。亭主が出て行ったあとで、表の戸をたたいた男の声は平七であるらしく思われたのに、それも約束の場所へは行き着かないらしい。ひと筋道で三人出逢わないのは不思議である。 「どうしたんでしょうねえ」と、お国は眉のあとの青いひたいを皺めた。「なんぼ何でもおまえさん一人を置き去りにして行くようなことはないでしょう」 「と思うのだが……」と、藤次郎は又かんがえていた。「平公は確かに来たんだね」 「わたしも奥に寝ていたので、顔を見たのじゃありませんけれど、どうも平さんの声のようでしたよ」 「それから親方も一度帰って来ましたよ」と、次八が口を出した。 「あら、親方も帰って来たの」 それはお国にも初耳であった。 「わたしも出て見やあしませんけれど、親方の声で平さんは来なかったかと訊きましたから、来ませんと云ったら、それっきりで行ってしまいました」と、次八は説明した。 「そうすると、平さんと内の人とは何処かで行き違いになったんだろうね」と、お国は云った。 「それが又どこかで出逢って、いっそ二人で行ってしまおうということになったのかな」と、藤次郎はやや不満らしく云った。 「そんな義理の悪いことをする筈はないんですがねえ」と、お国は藤次郎に対して気の毒そうに云った。「平さんだって内の人だって、あれほど約束して置きながら、おまえさんを置き去りにして行くなんて……」 いつまでも同じことを繰り返していても果てしがないので、藤次郎は念のためにもう一度、大木戸まで引っ返してみることになった。この押し問答のうちに、近所の家でもだんだんに店をあけ始めたので、お国はもう寝てはいられなくなって、次八と一緒に店の戸をあけ放した。お国は寝道具を片付ける。次八は表を掃く。そのあいだにも一種の不安がお国の胸を陰らせた。平七はともあれ、ふだんから義理堅い質の庄五郎が約束の道連れを置き去りにして行く筈がない。これには何かの仔細がなければならないと彼女は思った。 「庄さんはどうしましたえ」と、平七がぼんやりした顔で尋ねて来た。 「あら、平さん。おまえさん、今までどこにいたの」と、お国はすぐに訊いた。「内の人に逢いましたかえ」 「いや、庄さんにも藤さんにも逢わねえ」 「さっきこの戸を叩いて、内の人を呼んだのはお前さんでしょう」 「むむ」と、平七はうなずいた。「出がけにここの門を叩いたら、庄さんはもう出たというから、すぐに大木戸へ行ってみると、まだ誰も来ていねえのさ。夜は明けねえし、犬は吠えやがる。往来なかに突っ立っているのも気がきかねえから、海端のあき茶屋の葭簀の中へはいって、積んである床几をおろして腰をかけているうちに、けさはめずらしく早起きをしたせいか、なんだかうとうとと薄ら眠くなってきたので、床几の上へ横になってついとろとろと寝込んでしまった。そのうちに世間がそうぞうしくなって来たので、眼をさますと、もう夜は明けている。となり近所の茶屋では店をあけはじめる。驚いて怱々に飛び出したが、庄さんも藤さんも見えねえ。こいつは寝ているあいだに置き去りを食ったのかと、ともかくもこっちへ聞きあわせに来たわけさ。いや、飛んだ大しくじりをやってしまった」 藤次郎とは違って、かれはもう置き去りを覚悟しているらしかった。 「それが大違い、藤さんも今ここへ尋ねて来たんですよ」 お国から委細の話を聞かされて、平七は狐に化かされたような顔をしていた。そこへ藤次郎がまた引っ返して来て、庄五郎の姿はどうしても見付からないと云った。 「今までは二人に置き去りを食ったかと内々は恨んでいたが、平さんがこうしているのを見ると、そうでもないらしい。まさかに庄さん一人で行きゃあしめえ」と、藤次郎も不思議そうに、溜息をついた。 「そうですとも……。内の人ひとりで出かけて行く道理がありませんわ。ほんとうにどうしたんでしょうねえ」 不安がいよいよ募って、お国は泣き声になった。
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