三
「あの人はなにをしているんだろう」
それから二刻あまりを過ぎても亭主の藤吉は帰らないので、お徳はまた新らしい不安を感じ出した。そのころの二刻といえば今の四時間である。藤吉が出て行ったのは四ツを少し過ぎたころで、市ヶ谷八幡の鐘が夜の八ツ(午前二時)を撞いてからもう小半刻も経ったかと思うのに、かれはまだ帰って来なかった。あるいは越前屋の女房にたのまれて、為さんの死骸を探しにでも行ったのかとも思ったが、何分にもいろいろの奇怪な事件がそれからそれへと続出するのにおびやかされている彼女は、どうも落ち着いてはいられないような気がするので、更けてますます降りしきる雨の中を越前屋へたずねて行った。
越前屋は小半町しか距れていないので、すぐに行き着くと、紙屋の店は表の戸をおろしてひっそりしている。常の時ならばそれが当然であるが、今夜こんなに寝鎮まっているのをお徳はすこし不思議に思いながら、ともかくもそっと戸を叩くと、内では容易に返事がなかった。焦れて幾たびか強く叩くと、小僧の寅次が寝ぼけ眼をこすりながら起きて来た。
「あの、内の人は来ていますかえ」と、お徳は待ちかねて訊いた。
「いいえ」
「来ていませんか」
「今時分藤さんが来ているものか」と、寅次は腹立たしそうに云った。
「おかみさんは……」と、お徳はまた訊いた。
「奥に寝ていますよ」
「旦那は……」
「旦那も寝ていますよ」
お徳はびっくりした。鯉を釣りあげ損じて、川流れになった筈の為さんが無事に寝ているというのは案外であった。ほんとうに寝ているのかと念を押すと、寅次は確かに寝ていると云った。ゆうべ何処へ行って、何刻に帰って来たかと詮議すると、旦那は五ツ(午後八時)頃に出て行って、四ツ少し過ぎに帰って来たらしい。自分は四ツを合図に店を閉めて寝てしまったから、よくは知らないと寅次は云った。それでもお徳の不審はまだ晴れないので、旦那かおかみさんを起こしてくれと又頼むと、寅次は不承不承に奥へはいったが、やがて女房のお新を連れ出して来た。
「あら、お徳さん。今時分どうしたの。藤さんが急病人にでもなったんですか」と、お新は不思議そうに云った。
「実はこちらへ来ると云って、ふた刻も前に出たんですが、まだ帰って来ないので、なにをしているのかと様子を見に来たんですよ」と、お徳は正直に答えた。
「藤さんが……」と、お新は眉をよせた。「今夜は一度も見えませんよ」
「あら、そうですか」
お徳は煙にまかれてぼんやりと突っ立っていた。ゆうべからの事をかんがえると、かれはやはり夢でも見ているのか、それとも八幡の森の狐にでも化かされているのかと、自分で自分を疑うようにもなった。
「為さんはお内ですね」
再び念を押すと、お新は内にいるとはっきり答えた。その上に詮議のしようもないので、お徳は気が済まないながらも一旦は空しく引き揚げるのほかはなかった。
「藤さんは浮気者だから、ここの家へ来るなんて旨いことを云って、どっかへしけ込んでいるんじゃありませんかえ」と、お新は笑っていた。
年下の女にからかわれて、この場合、お徳も少しむっとしたが、そんなことを云い争っている時でもないので、かれはそれを聞き流して怱々に帰った。それにしても亭主はどこへ行ったのであろう、もしや留守のあいだに帰っているかも知れないと、急いで内へはいってみると、内は行灯を消したままで藤吉はまだ帰っていなかった。
死んだはずの為さんは生きていて、生きていたはずの亭主がゆくえを晦ましたのである。為さんは無事に泳ぎついて助かったのかも知れないが、亭主のゆくえ不明がどうしても判らなかった。それともお新の云うように、いい加減のこしらえ事をして何処かの色女のところに隠れ遊びをしているのかと、お徳は半信半疑のうちにその夜をあかした。
雨は暁方から又ひとしきり止んで、梅雨とは云っても夏の夜は早く白んだ。ゆうべは碌々に眠らなかったお徳は、早朝から店をあけて亭主の帰るのを待っていたが、藤吉はやはりその姿をみせなかった。もう一度、越前屋へ行って、亭主の為さんに逢って、くわしいことを詮議して来ようと思っているところへ、飛んでもない噂がここらまで伝わってお徳をおどろかした。藤吉の死骸が江戸川のどんど橋の下に浮かんでいたというのである。自分が追い立てるようにして越前屋へ出してやった亭主の藤吉が、どうして再び江戸川の方角へ迷って行って、そこに身を沈めるようになったのか。ゆうべ死んだというのは、為さんでなくて藤吉であったのか。ゆうべ帰って来たのは幽霊か。なにが何やら、お徳にはちっとも判らなくなってしまった。
なにしろ其の儘にしては置かれないので、お徳はとりあえずその実否を確かめに行こうとすると、家主もその噂を聴いて出て来た。家主と両隣りの人々に附き添われて、お徳はこころも空に江戸川堤へ駈けつけると、死骸はもう引き揚げられていた。あら菰をきせて河岸の柳の下に横たえてある男の水死人はたしかに藤吉に相違ないので、附き添いの人々も今更におどろいた。お徳は声をあげて泣き出した。
死骸は検視の上でひと先ずお徳に引き渡されたが、その場所が御留川であるので、詮議は厳重になった。藤吉の死骸には少しも疵のあとが無いので、おそらく覚悟して身を投げたものであろうとは想像されたが、たとい自殺にしても一応はその仔細を吟味しなければならないというので、女房のお徳はきびしく取り調べられた。それに対して、お徳も最初は曖昧の申し立てをしていたが、しまいには包み切れなくなって、ゆうべの出来事を逐一に申し立てたので、草履屋の藤吉が越前屋の亭主と御留川へ夜釣りに行ったことや、その留守のあいだに怪しい女のたずねて来たことや、藤吉が一旦帰って来て更に越前屋へゆくと云って出たことや、それらの事実がすべて係り役人の耳にはいった。
越前屋の亭主はすぐに召し捕られて吟味を受けた。かれはその名を為次郎と云って、当年三十五歳である。女房のお新は二十七歳、小僧の寅次は十五歳で、一家はこの夫婦と小僧との三人暮らしであるが、親ゆずりの家作三軒を持っていて、店は小さいが内証は苦しくない。世間の附き合いも人並にして、近所の評判も悪くなかった。為次郎は役人の吟味に対して、自分はこれまでに草履屋の藤吉と誘いあわせて岡釣りや沖釣りに出たことはあるが、御留川の江戸川などへ夜釣りに行ったことは一度もないと申し立てた。それではお徳の申し口とまったく相違するので、役人はいろいろに吟味したが、かれはどうしても覚えがないと云い張った。ゆうべは神田の上州屋という同商売の店に不幸があったので、その悔みに行って四ツ過ぎに帰って来たのであると彼は云った。念のために神田の上州屋を調べると、果たして為次郎は宵から悔みに来て、四ツ少し前に帰ったということが確かめられた。
こうなると、役人の方でも何が何やら判らなくなって来た。お徳は自分の亭主の云うことを一途に信じて、為さんも夜釣りの仲間であると申し立てているものの、実はふたりが連れ立って出るところを一度も見たことはないのであった。禁断を犯す仕事であるから、二人は忍び忍びに家を出て、どんど橋のわきで落ち合うことになっていたように聴いていると彼女は云った。してみると、藤吉は何かの都合で女房をあざむいて、自分ひとりで夜釣りに出ていたものかとも思われる。それにしても越前屋の亭主が鯉を釣り損じて川に落ちたなどという出たらめをなぜ云ったのか。そうして、自分がなぜ入水したのか。又かの怪しい女は何者か、その女と藤吉とのあいだに何かの関係があるのか無いのか、役人たちもその判断に苦しんだ。
「どうだ、半七。あらましの本読みはこの通りだが、これだけじゃあ芝居も幕にならねえ。なんとか工夫して、めでたく打ち出しまで漕ぎ付けてくれ」と、八丁堀同心の村田良助が半七を呼んで云った。
「かしこまりました。まあ、なんとかこじつけてみましょう。しかし御寺社の方はよろしいのでございましょうな」
寺の門前地は寺社奉行の支配で、町方の係りではない。そこへみだりに踏み込むことは出来ないので、半七が一応の念を押すと、良助はうなずいた。
「それは寺社の方から云って来たのだから、仔細はねえ。どこまでも踏み込んで片付けてくれ」
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