六
その後の成り行きについて勝次郎はこう訴えた。
かれは一時逃がれの気やすめを云って、その晩はともかくも化け物のような女から放たれたが、色も慾も消えうせて、もう二度とかの女に逢う気にもならないので、あくる晩は約束にそむいて清水山へ出かけて行かなかった。しかもなんだか自分の家にはおちついていられないので、かれは近所の女師匠のところへ遊びに行って、四ツ(午後十時)を合図に帰ってくると、家のまえにはかの女が幽霊のように立っていた。勝次郎はひとり者で、表の戸をしめて出たので、女はその軒下にたたずんで彼の帰るのを待ちうけていたのである。それをみて、勝次郎は又おどろかされた。こういうことになると知っていたら、迂濶に自分の居どころを明かすのではなかったと今さら悔んでも追っ付かないので、彼はよんどころなくその化け物を内へ連れ込むことになったが、女は内へはいらずに帰った。
女は帰るときに堅く念を押して、もし約束を
そのうちに、柳原堤に怪しい女が出るという世間の噂がだんだん高くなって来るので、勝次郎はそれに対してもまた一種の不安を感じはじめて、逢いびきの場所をどこへか換えようと云い出したが、女はなぜか承知しなかった。年の若い勝次郎は清水山が魔所であるという伝説については、今まで余り多くの注意を払っていなかったが、化け物のような女がこの清水山に執着しているのを考えると、今更のように又いろいろのことが思いあわされて、かれの恐怖は日ましに募るばかりであった。さりとて、宿がえをすることも出来ない、まさか他国へ逃げてゆく訳にも行かない。いっそ思い切って誰かに打ち明けて、その知恵を借りようかと思いながら、それもやはり躊躇して日を送るあいだに、かの山卯の喜平の探検がはじまった。
半七が鑑定した通り、脛に疵もつ彼はわざと強そうなことを云って、喜平と一緒に清水山へゆくことを約束したが、勿論そんな気はないので、山卯のいたずら小僧に百文の銭をやって、仕事場の材木を不意に倒しかけて喜平を
喜平らの探検を恐れて、かの女が姿をかくしてしまったのは、勝次郎にとっては
その申し立てに、少しく疑わしい点がないでもなかったが、半七はその以上に彼を吟味しなかった。それでも念のためにまた
「そのお勝とかいう女は、それっきりちっとも音沙汰がないんだな」
「その当時はなんどきまた押し掛けて来るかと、内々心配していましたが、もうひと月の余になりますけれども、それっきり影も形もみませんから、もう大丈夫だろうと安心しているのでございます」
「そうか」と、半七はうなずいた。「そこで、おまえはこの六月から七月頃にかけて、何処とどこへ仕事に行った」
勝次郎はこの頃ようよう一人前の職人になったのであるから、自分の得意場などは持っていない。いつも親方に引き廻されているのであるが、六月から七月にかけては、日本橋で二軒、神田で一軒、深川で一軒、雑司ヶ谷で一軒、都合五カ所の仕事に出たが、いずれも三日か四日の
「よし、わかった。これで今日は帰してやる。御用があって又なんどき呼び出すかも知れねえから、仕事場の出さきを
「かしこまりました」
「それからお前に云っておくが、まあ当分は夜あるきをしねえがいいぜ。なるたけ自分の
委細承知しましたと云って、勝次郎は早々に立ち去った。
「親分、どうです」と、善八はかれの姿を見送りながら小声で
「幸の奴は清水山に張り込ませることになっているから、おめえ御苦労でも誰かと手分けをして、あいつの仕事さきを一々洗って来てくれ」
「どんなことを洗ってくるんです」
「一から十までくわしいほどいいんだが、大体の目安はこうだ」と、半七は子分の耳に口をよせた。
何をささやかれたのか、善八は一々うなずいて、これも早々に出て行った。たとい手分けをしたにしても、日本橋と神田と深川を調べて来るのは、右から左というわけには行かない。殊に雑司ヶ谷などという遠いところもある。
あくる朝、
「どうもいけません。この姿で清水山に夜通し寝ていましたが、犬ころ一匹出て来ませんでした」と、かれは朝の寒さにふるえながら云った。
「御苦労、御苦労。さあ、朝湯へでも飛び込んでおよいで来い」と、半七は幾らかの銭をやった。
「今夜も張り込みますかえ」
「まあ、それはもう少し考えてみよう」
幸次郎が着物を着かえて出てゆくと、半七もすぐに朝飯を食って出た。そうして、きのうの通りに清水山の下をひとまわりして、それから山卯の店へ立ち寄ると、ちょうど店さきに立っていた喜平があわただしく駈けて来た。
「親分さん。大工の勝次郎がゆうべから帰らないそうです」
「勝次郎が……。ゆうべから……」
「そうです。ゆうべも町内の師匠のところへ行って、四ツ(午後十時)頃まで呶鳴って帰ったそうですが、けさになっても家へ帰らないんです。どこへか泊まりに行ったのかと思うんですが、長屋の人たちの話では、この頃めったに
「それでも若い者のことだ。どこへ転げ込まねえとも限らねえ。まだ夜が明けたばかりだ。今にどこからか出て来るだろう」
「でも、親分。師匠のうちから半町ばかり離れたところに、勝次郎の煙草入れと草履が片足落ちていたそうです」
「そうか」と、半七は眉をよせた。「そいつは打っちゃっては置かれねえ」
半七はとりあえず竜閑町の裏長屋へ行って、家主立ち会いで勝次郎の家を調べると、表の錠はおろしたままであった。その錠をこじあけてはいってみると、狭い家のなかは別に取り散らした様子もみえなかった。夜逃げをするならば何か持ち出しそうなものである。どこへか泊まりに行ったならば、往来に煙草入れや草履かた足を落してゆくのもおかしい。更に清元の師匠の家へ行ってきくと、勝次郎はゆうべ酔っていなかったということが判った。こうなると不審は重々である。半七は更に勝次郎の親方の大五郎という棟梁をたずねた。大五郎の家は山卯の店から遠くないところで、格子のまえには若い職人二人と小僧一人が突っ立って、事ありげに何かひそひそと話していた。
大五郎はもう五十近い男で、半七を奥へ通して丁寧に挨拶した。
「おたずねの勝次郎のことに付きましては、わたくしも心配して、これから若い者どもを手分けして、心あたりを探させようと思っているところでございます。前夜の様子から考えると、なにか人と喧嘩でもしたのか。男のことですから、まさかに
「きのう当人から聴いたのじゃあ、この六月から七月にかけて、日本橋に二軒、神田に一軒、深川に一軒、雑司ヶ谷に一軒、仕事に行ったそうですが、そのなかで顔に
「さあ」と、大五郎は首をひねった。「みんなわたくしの出入り場ですが、どうもそんな女のいる家はなかったようですね。
かれは