三
「おい、何か出たぜ」
ふたりは小声でたがいに注意した。
なにぶんにも草が深いので、今だしぬけにあらわれて来た
ふたりは手に武器を持っていたが、鑿や小刀のような小さい刃物では、足もとへ低く飛び込んで来る敵を撃ちはらうには甚だ不便であった。殊に相手の正体がわからないので、ふたりは一種の恐怖に襲われて、茂八はふだんの力自慢にも似あわずに、まず引っ返して逃げ出した。その臆病風に誘われて、喜平もつづいて逃げた。堤をころげ降りて往来へ出ると、敵はそこまでは追って来ないらしいので、ふたりは立ちどまって顔をみあわせた。
「狐だろうか」と、茂八はあとを見かえりながら一と息ついた。
「狐にしちゃあ大き過ぎるようだ」と、喜平は首をひねった。
「それじゃあ
「それとも河岸の方から
狐か鼬か河獺か。ふたりは往来に立ってその
銀蔵といい、茂八といい、味方は揃いも揃って口ほどにもない弱虫であるのが、喜平には腹立たしく思われてならなかった。さりとて自分ひとりで実行するほどの勇気もないので、更に頼もしい味方を新らしく見つけ出そうと考えているうちに、かの茂八が
それが主人の耳にはいって、茂八は和泉屋の主人から叱られた。とりわけて喜平はその
問題の白い浴衣も寒空にむかっては姿をあらわさないとみえて、その方の噂はだんだんに消えて行ったが、喜平らによって新らしく生み出された大入道と九尾の狐の噂は容易に消滅しないばかりか、それを瓦版にして売りあるく者さえ出来たので、八丁堀同心らももう棄てておかれなくなった。前にも云ったようなわけで、町奉行所では大入道や九尾の狐を問題にはしなかったが、八丁堀の人々はともかくも一応は念のために、その噂の実否を取り調べておく必要をみとめた。場所が神田にあるので、三河町の半七が八丁堀の
「半七。お前の縄張り内に大入道と九尾の狐が巣をつくっているそうだ。どうも大変なことだな」と、金太夫は笑った。「あんまりばかばかしいと思うものの、世間を騒がせることはよくねえことだ。わざわざおまえが汗をかくほどの仕事でもあるめえが、縄張り内に起ったのがお前の不祥だ。誰か若い奴らでもやって、ひと通りは詮議させてくれ」
半七ほどの御用聞きに対して、いかに役目でもこんな仕事を直接に働けとは云いにくいので、子分の若い者どもに勤めさせろと云いつけたのである。それは半七も呑み込んでいるので、こころよく承知した。
「自分の鼻の先のことを御指図で恐れ入りました。実は若い奴らからそんな話を聞かないでもなかったのですが、ほかの御用に取りまぎれて居りまして……」
「いや、忙がしくなくっても、こんなべらぼうな仕事は立派な男の勤める役じゃあねえ」と、金太夫はまた笑った。「清水山というと大層らしいが、堤の幅にしてみたら多寡が三、四間、おそらく五間とはあるめえ。高さだって知れたもので足長島の人間ならば一とまたぎというくらいだ。そんなところに鬼が棲むか、
「ごもっともでございます」と、半七も笑った。「まったく油断は出来ません。では、早速に調べあげてまいります」
半七は家へ帰って、すぐ子分の幸次郎と善八を呼んだ。
「ほかじゃあねえが、清水山の一件だ。おれは馬鹿にしてかかっていたので、旦那の方から声をかけられてしまった。もう打っちゃっては置かれねえ。ひと通り調べてきてくれ。だが、おれの指図するまでは現場の方へはむやみに手をつけるなよ」
「あい。ようがす」
二人はすぐに出て行った。今までは初めから馬鹿にし切って、ほとんど問題にもしていなかったのであるが、さてそれが一つの仕事となると、半七の神経はだんだんに鋭くなって来て、なんだか子分共ばかりには任せておかれないような気にもなったので、かれも午過ぎから家を出た。それは喜平らが最後の探検から一と月あまりを過ぎた頃で、十月ももう末に近い薄陰りの日であった。
「なんだか
どこという
神田に多年住んでいて、ここらは眼をつぶっても歩かれるくらいによく知っているのではあるが、こういう問題が新らしく湧き出して来ると、やはり一応は念入りに調べてみなければならないので、半七は
金太夫も云う通り、山というのは名ばかりで、足の長いものならばまたぎ越えられるぐらいの小さい高地で、全体の地坪から見ても三四十坪を過ぎまいと思われるのであるが、昔から奇怪な伝説の付き纏っているところだけに、生い茂った灌木のあいだには高い枯れ草がおおいかかって、どこから吹き寄せたとも知れない落葉がまたその上をうずめていた。気のせいか何となく物凄い場所ではあるが、これが山の手の奥とか、
「親分さん。どちらへ」
気がついて見返ると、それは此の堤下に
「やあ、親方。寒いね」と、半七も挨拶した。
「寒いにも何にも……。わたしはこの冬になって、もう三度も
「世のなかは逆になったからな。やがてそうなるかも知れねえ」と、半七も笑った。「いや、恐ろしいといえば、この頃この山が物騒だというじゃあねえか」
「まったくおお物騒。馬鹿に世間がそうぞうしいので驚きますよ。山卯の若い衆が
諸人が毎日寄りあつまる髪結床の亭主だけに、甚五郎は清水山の出来事については何から何までくわしく知っていた。勿論、例の冗談も幾らかまじっているらしかったが、その関係者の喜平、銀蔵、茂八のことから、大入道や九尾の狐の怪談まで、かれは半七に問われるままに一々説明した。
「主人や番頭に
「今度は誰が出て来たんだ」と、半七はきいた。
「今度のは飯田
池崎弥五郎は麹町の飯田町に屋敷をかまえている千二百石の旗本である。その中間のひとりがこの八月に清水山の下を通っている白い浴衣の女にからかって、青鬼のような顔をみせられて、気が遠くなって倒れた。その当時にも大部屋の中間どもが清水山探検に押し出そうとしたのであるが、余り騒ぎ立てるのもよくあるまいという部屋頭の意見で、一旦はそのままに鎮まったが、大入道や九尾の狐の噂がだんだんに高くなったので、彼等はもうたまらなくなった。かれらは五人連れで、きょうの
「そりゃあちっとも知らなかった」と、半七はその話に耳を傾けた。「そうして、どうしたえ」
「なにしろ大部屋の連中ですからね、大きな犬を一匹連れて来たんです。人を化かす古狐がこの山に棲んでいるに相違ないから、犬を入れて狐狩をするというわけで……」
「そこで狐が出たかえ」
「狐は出ませんが、妙なものが出ましたよ」
甚五郎は顔をしかめてみせた。