時代推理小説 半七捕物帳(三) |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1986(昭和61)年5月20日 |
1997(平成9)年5月15日第11刷 |
一
「年代はたしかに覚えていませんが、あやつり芝居が猿若町から神田の筋違外の加賀ツ原へ引き移る少し前だと思っていますから、なんでも安政の末年でしたろう」と、半七老人は云った。「座元は結城だか薩摩だか忘れてしまいましたが、湯島天神の境内で、あやつり人形芝居を興行したことがありました。なに、その座元には別に関係のないことなんですが、その一座の人形使いのあいだに少し変なことが出来したんです。今時こんなことをまじめで申し上げると、なんだか嘘らしいように思召すかも知れませんが、まったく実録なんですからその積りで聴いてください。その人形使いのうちに若竹紋作と吉田冠蔵というのがありました。紋作はその頃二十三、冠蔵は二十八で、どっちも同じ江戸者でした。ああいう稼業には上方者が多いなかで、どっちも生粋の江戸っ子でしたから、自然おたがいの気が合って、兄弟も同様に仲がよかったんですが、それが妙なことから仇同士のような不仲になってしまって、一つ楽屋にいても碌々に口も利かないほどになったんです」
二人が不仲になった原因はこうであった。あやつり芝居が夏休みのあいだに、二人が一座を組んで信州路へ旅興行に出て、中仙道の諏訪から松本の城下へまわって、その土地の或る芝居小屋の初日をあけたのは、盂蘭盆の二日前であった。狂言は二日がわりで、はじめの二日は盆前のために景気もあまり思わしくなかったが、二の替りからは盆やすみで木戸止めという大入りを占めた。その替りの外題は「優曇華浮木亀山」の通しで、切に「本朝廿四孝」の十種香から狐火をつけた。通し狂言の「浮木亀山」は、いうまでもなく石井兄弟の仇討で、紋作は石井兵助をつかい、冠蔵はかたきの赤堀水右衛門を使っていた。
その初日の夜である。芝居の閉ねたのはもう九ツ(夜の十二時)をすぎた頃で、一座のものは楽屋に枕をならべて寝た。田舎の小屋の楽屋ではあるが、座頭格の役者を入れる四畳半の部屋があって、仲のいい紋作と冠蔵とはその部屋を占領して一つ蚊帳のなかに眠った。疲れ切っている二人は木枕に頭を乗せるとすぐに高いびきで寝付いてしまったが、およそ一
も経つかと思うころに紋作はふと眼をさました。建て付けの悪い肱掛け窓の戸を洩れて、冷たい夜風が枕もとの破れた行燈の灯をちろちろと揺らめかせている。信州の秋は早いので、壁にはこおろぎの声が切れぎれにきこえる。紋作は云いしれない旅のあわれを誘い出されて、遠い江戸のことなどを懐かしく思い出した。自分たちを置き去りにして土地の廓へ浮かれ込んだ一座の或る者を羨ましくも思った。
木枕に押しつけていた耳が痛むので、かれは頭をあげて匍匐いながら、枕もとの煙草入れを引きよせて先ず一服すおうとするときに、部屋の外の廊下で微かにかちりかちりという音がきこえた。紋作は鼠であろうと思って、はじめはそのまま聞き流していたが、やがて俄かに気がついた。せまい廊下には衣裳葛籠や人形のたぐいが押し合うようにごたごたと積みならべてある。疲れている一座のものは禄々にそれを片付けないでほうり出しているに相違ない。その何かを鼠に咬られでもしてはならないと思い付いて、かれは煙管を手に持ったままで蚊帳の外へくぐって出ると、物の触れ合うような小さい響きはまだ歇まなかった。
そのひびきを耳に澄ましながら、紋作はそっと出入り口の障子をあけると、かなり広い楽屋のうちにたった一つ微かにともっている掛け行燈のうす暗い光りで、あたりは陰ったようにぼんやりと見えた。そのうす暗いなかに更にうす暗い二つの影が、まぼろしのように浮き出しているのを見つけた時に、紋作は急に寝ぼけ眼をこすった。ふたつの影は石井兵助と赤堀水右衛門との人形で、それが小道具の刀を持って今や必死に斬り結んでいるのであった。その闘いは金谷宿佗住居の段で、兵助が返り討ちに逢うところであるらしくみえた。非情の人形にも仇同士の魂がおのずと籠ったのであろうか。余りの不思議に気を奪われながらも、紋作は夢のように浄瑠璃を低く唄い出した。
![※(歌記号、1-3-28)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-03/1-03-28.png)
さしもに
猛き兵助が、切れども突けどもひるまぬ悪党、前後左右に斬りむすぶ、
数カ所の疵にながるる血潮、やいばを杖によろぼいながら、ええ口惜しや――。
兵助の人形は文句通りに斬り立てられて、勝ち誇った敵は嵩にかかって斬り込んできた。舞台の上の約束はともかくも、ここでは自分の人形を返り討ちにさせたくないので、紋作はわれを忘れて廊下へ駈け出して、手に持っている煙管をふり上げて仇の人形を力まかせに打ち据えると、水右衛門は額の真向をゆがませてばったり倒れた。兵助の人形も疲れたように同じく倒れてしまった。
この物音に眼をさました冠蔵は、自分のとなりに紋作の寝ていないのを怪しんで、これも蚊帳をくぐって出てみると、紋作は煙管をにぎって果し眼で突っ立っていた。その足もとには水右衛門の人形がころげていた。
「おい、紋作。どうした」
紋作は夢から醒めたように、自分の今みた人形の不思議な話をしたが、冠蔵は信用しなかった。いくら仇同士であろうとも、操りの人形に魂がはいって、敵と味方とが夜なかに斬り結ぶなぞという、そんな不思議が世にあろう筈がない。大方お前の寝ぼけ眼でなにかを見ちがえたのであろうと、冠蔵も始めのうちは唯わらっていたが、水右衛門の人形の額にゆがんだ打ち疵のあとを見つけると、彼は顔の色を変えた。自分の使っている人形の顔へ、なんの遺恨でこんな大疵をつけたのかと彼は紋作にはげしく食ってかかった。自分の人形が可愛さに、思わずその仇を手にかけたと紋作はしきりに云い訳をしたが、冠蔵はなかなか得心しなかった。
人形同士が斬り合ったという。いや、そんな筈がないという。所詮は双方が水掛け論で、ほかに証人がない以上、とても決着が付きそうもなかった。この捫著におどろかされて、ほかの者もだんだんに起きてきたが、この奇怪な出来事について正当の判断をくだし得るものは一人もなかった。ある者はそんな不思議がないとも限らないと云った。ある者は頭から馬鹿にしてその不思議を絶対に否認した。しかも紋作が水右衛門を打ったのは事実で、人形の額にたしかな証拠が残っていた。
冠蔵はそれを自分に対する紋作の嫉妬であると解釈した。初日以来、自分の人形の評判がよい。まるで生きているように働くと観客がみな褒めそやしている。紋作はそれを妬んで、夜なかにそっと自分の人形を傷つけて、それを誤魔化すために途方もない怪談を作り出したに相違ないと認めた。しかし此れも取り留めた証拠はないので、彼もその場は胸をさすって人々の仲裁にまかせた。なにぶんにも旅先のことで直ぐに付けかえる首がないので、冠蔵は額のゆがんだ水右衛門の人形を今夜も舞台へ持ち出すよりほかなかった。うす暗い蝋燭の火で観客はそれを覚ったかどうだか知らないが、向う疵を負った人形を使っているということは何分にも気が咎めて、冠蔵はどうも気乗りがしなかった。それでも金谷宿佗住居の段に進んで来ると、云いしれない敵愾心が胸いっぱいに漲って来て、かれの眼には残忍の殺気を帯びた。
赤堀水右衛門は石井兵助をあざむいて、だまし討ちにするのである。冠蔵はその仇になりすましてしまって、出来るかぎり憎々しく、出来る限り残酷に、相手の兵助をなぶり殺しにしてやろうと思って、その人形を手いっぱいに働かせた。相手の気込みがいつもと違っているのは、紋作の方にも悟られた。もともと旅興行で、さのみ熱心に勤めている筈でない冠蔵の人形が、今夜はたましいが籠ったように生きて働いている。しかもその人形を使っている冠蔵の眼には殺気を帯びている。紋作はなんだか油断が出来なくなって、自分の人形をなぶり殺しにしようと立ちむかって来る敵に対して、十分の身がまえをしなければならなくなった。人形と人形との刀は折れそうに激しく打ち合った。人形つかいの額には汗がにじみ出した。二人の眼はおのずと血走って来た。それに釣り込まれて、床の太夫も今夜は一生懸命に語った。観客は呼吸をのんで、その勝負の成り行きをうかがっていた。
いかにあせっても狂っても、当然の約束として、石井兵助は、敵に斬り伏せられなければならなかった。水右衛門の方には助太刀の敵役があらわれて来た。これらの人形も三方から兵助を取り囲んで斬り込んでくるので、それを使っている紋作は自分が敵に囲まれているように焦躁ってきた。神経の興奮している彼は、浄瑠璃の文句にもかまわずに前後左右を滅多やたら斬りまくった。兵助の刀は又もや水右衛門の真向を打った。冠蔵の方でも約束が違うのを咎めているような余裕はなかった。なんでも相手の人形を残酷に斬り伏せてしまわなければならないという一心で、無二無三に兵助を斬った。敵も味方も滅茶苦茶な立ち廻りのうちに、浄瑠璃の文句は終りを告げた。
「今夜のは、ありゃあなんだ」
楽屋へはいると、冠蔵はすぐに紋作を責めた。紋作の方でも冠蔵の使い方がいつもとは違っていると云って、さかねじに食ってかかった。ゆうべの喧嘩が再びここで繰り返されそうになったのを、ほかのものどもが仲裁して今夜も無事に納めたが、その次の幕の済むあいだに兵助の人形の首は何者にか引き抜かれて、楽屋の廊下に投げ出されていた。無論に冠蔵の仕業であろうとは思ったが、その手証を見とどけたわけでもないので、紋作はじっと堪えてなんにも云わなかった。勿論、どの人形も自分のものではない。冠蔵も紋作も自分の人形をもっているほどの立派な人形使いではなかった。しかし自分がそれを扱っている以上、その人形の首をひき抜いて廊下に投げ出されたということは、自分の首を引き抜かれたように紋作はくやしく感じた。彼はその以来、殆ど冠蔵と口をきかなくなった。冠蔵の方でも彼を相手にしなくなった。かれらは実際に於いても、赤堀水右衛門と石井兵助とになってしまった。
江戸へ帰った後も、彼等はむかしの親しい友達にはなれなかった。同じ商売でおなじ楽屋の飯を食っていながらも、水右衛門と兵助とは所詮かたき同士たるを免かれなかった。
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