二
「おい、姐さん。お前、そこで何をしているんだ」
両国橋の上には今夜の霜がもう置いたらしく、長い橋板も欄干も暗いなかに薄白く光っていた。その霜の光りと水あかりとに透かして視ながら、ひとりの男が若い女に声をかけた。男は神田の半七で、本所のある無尽講へよんどころなしに顔を出して帰る途中であった。
「ねえ、姐さん。今時分そんなところにうろ付いていると、夜鷹か引っ張りと間違えられる。この寒いのにぼんやりしていねえで、早く家へ帰って温まった方がいいぜ。悪いことは云わねえ。早く帰んなせえ」
「はい」
低い声で返事をしながら、若い女はまだ欄干を離れようともしないので、半七はつかつかと立ち寄って女の肩に手をかけた。
「おめえも強情な子だな。節季師走に両国橋のまん中に突っ立って何をしているんだ。四十七士のかたき討はもう通りゃあしねえぜ。それともお前、袂に石でも入れているのか」
半七は初めから彼女を身投げと見ていたのであった。時候は節季師走という十二月の宵、場所は両国橋、相手は若い女、おあつらえの道具は揃っているので、彼はどうしてもこの女を見捨ててゆくわけには行かなかった。
「ほんとうに悪い洒落だ。この寒空につめてえ真似をするもんじゃあねえ。早く行かねえと、引き摺って行って、橋番に引き渡すぜ」
女は黙ってすすり泣きをしているらしかった。どうで死のうと覚悟するほどの女に、涙は付き物と知りながらも、半七はなんだか可哀そうになって来たので、つかまえた手をゆるめながら、優しく云い聞かせた。
「さっきから俺がこんなに口を利いているのがお前にはわからねえのか。橋番へ引き渡すなんて云ったのは俺が悪い。そんな野暮なことは止めにして、ここでお前の話を聞こうじゃあねえか。そうして、どうでも死ななけりゃあ納まらねえ筋があるなら、おれが手伝って殺してやるめえものでもねえ。また死なずとどうにか済みそうな筋合いなら、古い川柳じゃあねえが、ようごんす袂の石を捨てなせえ、と俺も相談に乗ろうじゃあねえか。おい、黙っていちゃあ困る。なんとか返事をしてくれねえか」
「ありがとうございます」と、女はやはり泣いていた。「折角でございますけれど、どうにもこればかりは申し上げられません」
「そりゃあどうで云いづれえことに相違ねえ。だが、云わずにいちゃあ果てしがつかねえ。くどいようだが決して悪くはしねえ。人に明かして悪いことなら、決して他言もしねえ。おれも男だ。こうして誓言を立てた以上は、かならず嘘はつかねえから、まあ安心して話して聞かせるがいいじゃあねえか」
「ありがとうございます」と、女は又すすりあげて泣いた。
「聞いたような声だな」と、半七は首をかしげた。「さっきもそう思ったが、どうも聞き覚えがあるようだ。おめえは識っている人じゃあねえかえ。おれは神田の半七だよ」
半七の名を聞いて、女は俄かに驚いたらしく、あわてて彼を押しのけるようにして逃げ出そうとした。しかし其の帯ぎわは半七の手にしっかり掴まれていた。
「おい、なにをする。お前はよくよく判らねえ女だな。もう仕方がねえ。腕ずくだ。さあ、歩べ」
かれは女の腕を捉えて、橋詰の番小屋へぐんぐん曵き摺ってゆくと、橋番のおやじは安火をかかえて宵から居睡りをしているらしく、蝋燭の灯までが薄暗くぼんやりと眠っていた。半七はうつむいている女の顔をひき向けて、その灯の前に照らしてみた。
「むむ。おめえは加賀屋の奉公人だな」
女は加賀屋のお鉄であった。半七は少し聞き合わせることがあって、ゆうべ加賀屋の店に腰をかけて番頭の半右衛門と話していると、小僧たちは湯に行っている留守であったので、奥から女中のお鉄が茶を持って来た。半七は商売だけに一度でかれの声も顔も記憶していたのであった。その加賀屋の女中がなぜ今頃ここらを徘徊して身投げを企てたのであろう。容貌も悪くなし、かつは年頃であるから、その原因はいずれ色恋の縺れであろうと半七はすぐに覚った。
「こうなりゃあ猶さらのことだ。まんざら識らねえ顔じゃあなし、いよいよ此のままで、はい、さようならと云うわけにゃあ行かねえ。それでお前の名はなんというんだっけね」
「鉄と申します」
「むむ。そのお鉄さんがなんで死のうとしたんだ。相手は誰だ。店の者かえ」
「いいえ。そんな訳じゃございません」と、お鉄はあわてて打ち消した。「決してそんな淫奔事じゃございません」
半七は少し的がはずれた。色恋以外になぜ死ぬ気になったのかと彼はいろいろに詮議したが、お鉄はどうしても口をあかなかった。そればかりはどうしても云われないと強情を張った。いくら嚇しても賺しても相手が飽くまでも根強いので、半七もしまいには持て余した。
「おめえ、どうしても云わねえか」
「相済みませんが、どうしても申し上げられません」と、お鉄はどんな拷問をも恐れないというようにきっぱりと云い切った。
もうこの上は半七もさすがに手の付けようがなかった。さしあたっては別に罪人の疑いがあるというわけでも無し、ことに若い女ひとりをどう処置することも出来なかった。橋番に引き渡してゆくか、それとも本人の家へ送りとどけてやるか、まずその二つより途はないので、半七はいっそ町内まで一緒に連れて行ってやろうと思った。寝ぼけ眼をこすっているおやじには別に委しい話もしないで、かれはお鉄をうながして橋番小屋を出た。師走の夜の寒さが身にしみるのか、なにか深い物思いに沈んでいるのか、お鉄は両袖をしっかりとかき合わせて、肩をすくめながらおとなしく付いて来た。
小屋を出ながら不図みかえると、頬かむりをした一人の男が往来にのっそりと突っ立って、こっちをじっと覗いているらしいのが半七の眼についた。かれは立ちどまってその風体を見定めようとする間に、相手は急に身をひるがえして、逃げるように橋を渡って行った。おかしな奴だと半七はしばらく見送っていた。
「おめえ、今の男を識っているのか」と、彼はあるき出しながらお鉄に訊いた。
「いいえ」
その声の少し震えているのを、半七は聞き逃がさなかった。
「おめえ、寒いのかえ」
「いいえ。別に……」
「だって、なんだか震えているじゃねえか。あの男とここで落ち合って、一緒に心中でもする約束だったんじゃねえか」と、半七はかまをかけるように訊いた。
「いいえ。そんなことは決してございません」と、お鉄は小声に力をこめて答えた。
二人はそれぎりで黙ってしまって、暗い柳原の堤をならんで行った。たとい心中は嘘にしても、かの頬かむりの男とこのお鉄とのあいだに、なにかの因縁があるらしく思われるので、半七はいろいろに考えながら歩いた。枯れ柳の暗いかげを揺りみだす夜風が霜を吹いて、半七は凍るように寒くなった。かれは柳の下に荷をおろしている夜鷹蕎麦屋の燈火をみて思わず足を停めた。
「おい、お鉄さん。どうだ、一杯つき合わねえか」
「わたくしはたくさんでございます」
「まあ、遠慮することはねえ。なにも附き合いというものだ。なにしろ、こう冷えちゃあ遣り切れねえ。まあいいから一杯手繰って行きねえ」
辞退するお鉄を無理に誘って、半七は熱い蕎麦を二杯たのむと、蕎麦屋は六助といって、下谷から神田の方へも毎晩まわって来る男であった。
「おや、親分さんでございましたか。今晩はどちらへ……」
「おお、六助老爺さんか。べらぼうに寒いじゃねえか。今夜はよんどころなしに本所まで行って来たんだが、おめえも毎晩よく稼ぐね」
「へえ。わたくし共は今が書き入れ時でございます」
云いながら彼は、行燈の暗い火に顔をそむけて立っているお鉄に眼をつけた。
「ああ、加賀屋のお鉄さん。今夜は親分と一緒かえ」と、かれは不思議の連れを怪しむように鍋の下をあおぐ団扇の手をやめた。
「なに、途中で一緒になったんで、柳原堤の道行さ。ははははは」と、半七は笑った。「じいさんなんぞは夜の稼業だ。毎晩こんなものを幾組も見せ付けられるだろうね」
おやじを相手に冗談を云いながら、半七は蕎麦を二杯代えた。そのあいだにお鉄は一杯の半分ほどをようよう啜り込んだばかりで箸をおいてしまった。
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