三
その夜はあけて、七日の朝になった。きょうも朝から暑い日で、あまの河には水が増しそうもなかった。いろがみの林を作った町々の上に、碧い大空が光っていた。
半七は朝飯をすませて、すぐに山村小左衛門の家をたずねると、きょうは五節句で稽古は休みであった。小左衛門もお直の一条では胸を痛めているので、半七を奥へ通すと、丁寧に挨拶して、なんとか探索の方法はあるまいかと頼むように相談した。かれは四十五六の人柄のいい男で、半七の問いに対してこう答えた。
「お直もお力も九つの春から手習いに来て居ります。わたくしも自分の教え子の行状については、ふだんから相当に気をつけて居りますが、お直はおとなしいようでもなかなか強情の気質、お力は男の子のように跳ね返っている女で、人間は少し愚らしく見えます。それでも二人は仲がよかったようで、毎日誘いあわせて通って居りました。今度のことに就いては、わたくしが何かお直をきびしく叱ったので、それで家出したように甲州屋の親たちは思っているようですが、それは大きな間違いです。尤も、わたくしは弟子のしつけ方は随分きびしい方で、世間ではかみなり師匠とか云っているそうですが、いかにわたくしが雷でも、仔細もなしにむやみに弟子たちを叱ったり折檻したりする筈はありません」
かみなり師匠がお直を叱ったのは、たなばたの清書が不出来な為ばかりではなかった。きのうの朝、お直はこの稽古場でその袂から二通の手紙を取りおとした。師匠はすぐにそれを見つけて、それはなんだと詮議すると、お直はあわててそれを自分のふところに押し込んでしまって、一言の返事もしなかった。封は切らぬから上書だけを見せろと云ったが、彼女は決して見せなかった。誰の手紙かと訊いても、彼女はやはり強情に答えなかった。
まだ十三の小娘で、まさかに色恋の文ではあるまいと思うものの、彼女が強情に隠しているだけに、小左衛門は一種の疑惑と不安を感じて、どうしてもその手紙をみせなければ、今日はいつまでも止めて置くぞと嚇しつけると、お直はわっと声をたてて泣き出した。その声が奥まできこえて、御新造のお貞も出て来た。ふだんから師匠のあまり厳しいのを苦にしているお貞は、とにかく仲裁して何事もなしに済ませたが、清書の不出来で叱られた上に、更に又こんな事件が出来して、お直はいつまでも泣きやまないのを、お貞は賺し宥めて、お力と共に帰してやったのである。甲州屋へ行って、お力はなんと告げたか知らないが、事実はまったく此の通りで、お直が強情に隠していたその文がなんであるかは判らない。甲州屋ではこの事情を知らないで、なにか自分が無理な叱言でも云ったように誤解していられては甚だ迷惑であるから、実はこれから甲州屋へ出向いて、お直の親たちにもその訳を話して聞かせようと思っていると、小左衛門は云った。
「いや、判りました。わたくしは今まで大きに勘ちがいをして居りました」と、半七は微笑みながら云った。
「就きましては、先生。どうかこの一件はわたくしにお任せ下さる訳にはまいりますまいか。きっと埒をあけてお目にかけます」
「勿論それはこちらからお願い申すので……。そうしますと、わたくしが甲州屋へ行くのはどうしましょうかな」と、小左衛門は少し考えていた。
「どうか、もうしばらくお見合わせが願いたいものですが……」
「承知しました」
新らしい獲物をつかんで、半七はかみなり師匠の門を出た。師匠は嘘をつくような人物ではない。今の話がほんとうであるとすれば、お粂の判断は間違っていた。お広の想像も少しく的をはずれているらしい。半七はそれからすぐに甲州屋へゆくと、お直のゆくえはまだ知れないので、店じゅうの者がみな暗い顔をしていた。ゆうべはまんじりともしなかったというので、お広は眼を窪ませていた。
「若旦那はもう立ちましたかえ」と、半七は先ず訊いた。
「まだでございます」と、居あわせた店の者が答えた。
「大層おそいじゃありませんか」
「六ツ半(午前七時)頃には立つ筈だったのですが、暁方から急に頭痛がすると云って、まだ二階に寝て居ります。たぶん寝冷えをしたのだろうというので、今朝ほどは立つのを止めました」
「そうですか、それはあいにくでしたね。お見舞ながら二階へちょいと通ってもよござんすかえ」
「はい、ちょいとお待ちください」
店の者は二階へあがって行ったが、やがて又引っ返して来て、取り散らしてありますが、どうぞお通りくださいと案内した。
二階は六畳と八畳のふた間で、藤太郎は表に向いた六畳に寝ていたらしいが、半七のあがって行った時には、もう起き直って蒲団のうえに行儀よく坐っていた。藤太郎はことし二十歳の小柄の男で、いかにも病人らしい蒼ざめた顔をしていた。
「お早うございます」と、藤太郎は手をついた。「このたびはいろいろと御心配をかけて恐れ入ります」
「どこかお悪いそうですね」と、半七はかれの顔をのぞきながら云った。「なるほど、顔の色がよくないようだ、起きていてもいいのですかえ」
「こんな体たらくで失礼をいたします。たいした事でもございませんが、どうも暁方から頭が痛みまして……。あいにくの時でまことに困って居ります」
医者に診て貰ったかと訊くと、それほどのことでもないらしいので、差しあたりは店の薬を飲んでいると藤太郎は云った。芝に上手な占い者があるので、母は朝からそこへたずねて行った。父は日本橋の親類へ相談に行った。妹のたよりが一向判らないので、家じゅうがゆうべから碌々に寝ないで騒いでいると彼は話した。
「そうすると、おまえさんは病気のよくなり次第に、越ヶ谷とかへ行くつもりですかえ」と、半七はまた訊いた。
「はい。ともかくも念晴らしに一度は行って来たいと思って居ります」
「きっと出かけますかえ」
「はい」
「およしなせえ、くたびれ儲けだ。路用をつかうだけ無駄なことだ」
「そうでございましょうか」と、藤太郎はすこし考えているらしかった。
「なにも首をひねることはねえ。出かけるくらいなら、今朝なぜ直ぐに出て行きなさらねえ」
と、半七はあざ笑った。「仮病をつかって、家の二階にごろごろしていることはねえ。さっさと飛び起きて、草鞋をはく支度をするがいいじゃあねえか」
「いえ、決して仮病では……。唯今も申す通り、どうも寝冷えをいたしたとみえて、暁方から頭が痛みまして……」
「あたまの痛てえのはほかに訳があるだろう。倉田屋の姉娘を呼んで来て看病して貰っちゃあどうだね」
藤太郎の顔の色はいよいよ蒼くなった。
「おまえさんは妹を使にして、倉田屋の娘と文のやりとりをしているだろう」と、半七は畳みかけて云った。
「倉田屋の娘もやっぱり自分の妹を使にしている。どっちの妹も稽古朋輩だから、それはまことに都合がいいわけだ。ここの妹がきのう雷師匠に嚇かされたのは、清書が不出来のせいじゃあねえ。稽古場で手紙を落としたからだ。男のか女のか知らねえが、それを向うへ渡そうとするのか、それとも向うから受け取ったか、どっちにしてもお前さんと倉田屋の姉娘とは係り合いを逃がれられねえ。さあ、今更となっていつまでも隠し立てをしているのは、よくねえことだ。親たちに苦労をかけ、家じゅうの者をさわがして、お前さんが仮病をつかって平気で寝てもいられめえじゃあねえか。いや、仮病はわかっている。どうで越ヶ谷へ行っても無駄だということを百も承知しているから、頭が痛えの、尻が痒いのと云って、一寸逃がれをしているのだ。おまえさんの顔の色の悪いのは病気じゃあねえ。ほかに苦労があるからだ。薄ぼんやりしている倉田屋の妹娘を引っ張り出して、あたまから嚇かして詮議すれば何もかも判ることだが、そんなことはしたくねえから、それでこうして膝組みでおまえさんに訊くんだ。一体おまえさん達は今までどこで逢っていたんだ。どうで遠いところじゃあるめえ。真っ先にそれを教せえて貰おうじゃあねえか」
藤太郎は蒲団のうえに手をついたまま、しばらく顔をあげなかった。その蒼ざめた額からは汗のしずくが糸をひいたように流れ落ちていた。
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