二
甲州屋へ行って、お直の親たちにも逢ったが、お粂が持ってきた報告以外の新らしい事実を、半七はなんにも探り出すことが出来なかった。どの人の意見もお粂と同様で、短尺の不出来と師匠の叱言とが気の小さい娘をどこへか追いやったのであるということに一致していた。半七も先ずそう考えるよりほかはなかった。
越ヶ谷の方に甲州屋の親類があって、お直は母につれられて一度行ったことがあるので、よもやとは思うものの、兄の藤太郎が店の者をつれて、あしたの早朝に越ヶ谷へ訪ねてゆくことになっている。甲州屋に取っては、それがおぼつかない一縷の望みであった。娘が家出のことは無論、町役人にも届けて置いた。両国や永代の川筋へも人をやって、その注意を橋番にもたのんで置いた。甲州屋としては、もうほかに施すべき手だてもないので、半七は今更なんの助言をあたえようもなかった。しかし明日になったならば、子分の者どもに云いつけて、せいぜい心あたりを探させてみることを約束して、半七はもう四ツ(午後十時)頃、甲州屋を出ると、まだ半町も行き過ぎないうちに、あとから息を切って追ってくるものがあった。
「もし、親分さん、三河町の親分さん」
女の声らしいので、誰かと思って立ち止まると、それは甲州屋のばあやのお広で、かれはあわただしくささやいた。
「親分さんに少し内々で申し上げて置きたいことがございますが……。旦那やおかみさんは滅多にそんなことを云っちゃあならないと云っているのですが、どうも黙って居りましては気が済みませんので……。ちょいとお前さんのお耳に入れて置きたいと存じますが……」
お広はお直の乳母として雇われたものであったが、その儘そこに長年して、お直が生長の後までもばあやと呼ばれて奉公しているのであった。年はもう四十ぐらいの大柄な女で、ふだんから正直でよく働くと云われていた。
「そこで、どんな話ですえ」と、半七は小声できいた。
「申してもよろしゅうございましょうか」
「なんでもいいから聴かせてもらおうじゃあねえか」
「では、これはただ内々で申し上げるのでございますが……」
まえ置きをして、お広がそっと話し出すのを聴くと、お広はきょうお直と一緒に帰って来たというお力がどうも怪しいというのであった。お力の家は隣り町の倉田屋という瀬戸物屋で、甲州屋とはふだんから心安く交際しているのであるが、倉田屋の女房はひどく見得坊で、おまけに僻み根性が強くて、お広の眼から見るとどうも面白くない質の女であるらしい。倉田屋には二人の娘があって、姉のお紋は今年十八で、妹のお力はお直と同い年の十三である。その姉娘のお紋をお直の兄の藤太郎の嫁にくれるというような話が、かつて双方の親たちのあいだに起った事もあったが、別にたしかに取り極めた約束というでもなくて、まずそのままになっているうちに、甲州屋では今度京橋の同業者の店から嫁を貰う相談がまとまって、この九月にはいよいよ婚礼をすることになった。それを洩れ聞いて、倉田屋ではひどく怒っているらしい。勿論、許嫁というわけでもないので、表向きに苦情を持ち込んでくることは出来なかったが、内心では甲州屋を怨んでいるらしい。殊にひがみ根性の強い倉田屋の女房は、平生あれほど懇意にしていながら、あまりに人を踏みつけにした仕方であると云って非常にくやしがっていることは、出入りの女髪結の口からも聞いている。現にこのあいだ、お広が倉田屋へ買物に行った時にも、女房は口に針を含んでいるような忌味を云った。それらの事情から考えると、倉田屋ではそれを根に持って、藤太郎の妹のお直に対して何かの復讐を加えたのではあるまいかというのであった。
「ふうむ、それは初めて聴いた」と、半七はうなずいた。「だが、唯それだけのことで、ほかにはもう証拠らしいものはないんだね」
「それに、倉田屋ではどうもなあちゃんを怨んでいるらしいんです」と、お広はさらに説明した。
「なあちゃんはお力ちゃんのところへ始終遊びに行くので、姉さんのお紋さんともよく識っています。それで、こっちでお紋さんをもらうのを見合わせたのは、なあちゃんが何か親たちや兄さんにいいつけ口をしたように思っているらしいんです。一体、お紋さんという子も阿母さんに似た見得坊で、おしゃべりのお転婆で、近所で誰も褒める者はありゃしません。甲州屋でお嫁に貰うのを見合わせたのも、つまりはそのせいなんですが、それがやっぱり身贔屓で、自分の娘の悪いことは棚にあげて、ふだん遊びに行くなあちゃんが、家へ帰って何か讒訴でもしたように思い込んでいるらしいんです。ひがみ根性の強いおかみさんのことですから、それも仕方がありませんけれども、外道の逆恨みでむやみに人を怨んで、おまけに罪もないなあちゃんを疑って、万一そんなことを仕出来したとすれば、どうしたって打っちゃって置くことが出来ません。旦那やおかみさんが何と云おうとも、わたくしが黙っていられません。ねえ、親分さん。そうじゃございませんか」
これはお広の一料簡でなく、甲州屋の親たちも内々のうたがいを懐いていながら、迂闊にそんなことを口外することは出来ないので、わざと自分のあとを追わせて、お広の一料簡のつもりで密告させたのではあるまいかと半七は思った。
「それで、そのお力という娘はどんな子だえ」
「やっぱり阿母さんや姉さんにそっくりで、なかなかお転婆の、強い子なんですよ。からだも大きくって、なあちゃんと同い年ですけれど二つぐらいも年上にみえます」
「そうか。それじゃあともかくもその倉田屋へ行ってみよう。もう寝たかも知れねえが、まあ其の家だけでも教えてもらおう」
お広に案内させて、半七は引っ返した。その瀬戸物屋は甲州屋の隣り町角から四軒目で、間口は三間か三間半ぐらいもあるらしく、その店がまえは悪そうもなかった。表の大戸はもう卸してあったが、軒の下に細長い床几を置いて、ひとりの若い者と小僧とが涼んでいた。となりの糸屋は店を半分あけていて、その前にもやはり二、三人の男がたたずんで何かしゃべっていた。どこかで籠の虫の声もきこえた。
途中で申し合わせてあるので、お広は近寄って倉田屋の若い者に声をかけた。
「今晩は……。どうもいつまでもお暑いことでございます」
「やあ、今晩は……」と、若い者も挨拶しながら床几を起ちあがった。「ばあやさん。なあちゃんは帰りましたか」
甲州屋からは昼間と宵と二度も聞きあわせの使が来ているので、ここの店の者共もお直が家出のことを知っていた。まだ帰らないというお広の返事をきいて、若い者も気の毒そうに云った。
「どうしたんでしょうねえ。内のおかみさんも大変に心配しているんですよ。お力ちゃんが一緒に帰ってきて、途中でこんなことがあっちゃあ、甲州屋さんにも申し訳がないと云って……」
「皆さんはもうお寝みになりましたか」と、お広は訊いた。
「ええ、おかみさんもお紋さんもよそから帰って来て、もうすこし前に寝ましたが、起しましょうか」
「いいえ、それには及びません」
「ばあやさんはまだ探して歩いているんですかえ」
「なにしろ心配でなりませんからね。この方とごいっしょに、あてども無しにそこらを探してあるいているんです」
「それは御苦労さまですね。お察し申します」
「どうぞ皆さんによろしく」
こんな挨拶をして、お広はここを立ち去った。半七もあとから黙って付いて行った。夜もおいおいに更けて来て、とても今夜のことには行きそうもないので、半七は町内の角でお広に別れた。
家へ帰る途中で、半七はいろいろに考えた。若い娘が清書の不出来を師匠に叱られて、朋輩の手前、親の手前、面目なさに姿をかくすというようなことは、あながち世間に例のない話でもない。お粂の意見もそれであった。婚礼を破談にされた遺恨から、心のひがんだ女親がその復讐のために、相手の男の妹娘をどこへか隠したのであろうというお広の密告は、少しく穿ち過ぎた想像ではあるが、そんなことが決してないとは云えない。一途に思いつめた女の心のおそろしいことを、半七は多年の経験でよく知っていた。お粂の判断は自然であり、お広の想像はやや不自然であるが、世のなかには普通の尺度で測ることの出来ない不思議の多いのをかんがえると、半七はまだ容易にどちらへも勝負をつけるわけには行かなかった。彼は賽をつかんだまま神田の家へ帰った。
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