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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)31 張子の虎
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時代推理小説 半七捕物帳(三) |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1986(昭和61)年5月20日 |
1997(平成9)年5月15日第11刷 |
一
四月のはじめに、わたしは赤坂をたずねた。 「陽気も大分ぽか付いて、そろそろお花見気分になって来ましたね」と、半七老人は半分あけた障子の間からうららかに晴れた大空をみあげながら云った。「江戸時代のお花見といえば、上野、向島、飛鳥山、これは今も変りがありませんが、御殿山というものはもう無くなってしまいました。昔はこの御殿山がなかなか賑わったもので、ここは上野と違って門限もない上に、三味線でも何でも弾いて勝手に騒ぐことが出来るもんですから、去年飛鳥山へ行ったものは、今年は方角をかえて御殿山へ出かけるという風で、江戸辺の人たちは随分押し出したもんでした。それに就いてもいろいろお話がありますが、きょうはお花見が題じゃあないんですから、手っ取り早く本文に取りかかることにしましょう。しかしまんざらお花見に縁のないわけではない。その御殿山の花盛りという文久二年の三月、品川の伊勢屋……と云っても例の化伊勢ではありません。お化けが出るとかいうのが売り物で、むかしは妙な売り物があったもんですが、それが評判で化伊勢と云って繁昌した店がありました。そのお化けの伊勢屋とは違います。……そこの店で二枚目を張っているお駒という女が変死した。それがこのお話の発端です」
お駒はことし二十二の勤め盛りで、眼鼻立ちは先ず普通であったが、ほっそりとした痩形の、いかにも姿のいい女で、この伊勢屋では売れっ妓のひとりに数えられていた。かれが売れっ妓となったのは姿がいいばかりでなく、品川の河童天王のお祭りに自分の名を染めぬいた手拭を配ったばかりでなく、ほかにもっと大きい原因があって、宿場女郎とはいいながら、品川のお駒の名は江戸じゅうに聞えていたのであった。 彼女がそれほど高名になったのは、あたかも一場の芝居のような事件が原因をなしているのであった。万延元年の十月、きょうは池上の会式というので、八丁堀同心室積藤四郎がふたりの手先を連れて、早朝から本門寺界隈を検分に出た。やがてもう五ツ(午前八時)に近いころに、高輪の海辺へさしかかると、葭簀張りの茶店に腰をかけて、麻裏草履を草鞋に穿きかえている年頃二十七八の小粋な男があった。藤四郎はそれにふと眼をつけると、すぐ手先どもに頤で知らせた。 藤四郎の眼にとまった彼の男は、石原の松蔵という家尻切りのお尋ね者であった。かれは詮議がだんだんに厳しくなって来たのを覚って、どこへか高飛びをする積りであるらしい。飛んだところで思いも寄らない拾い物をしたのを喜んだ手先どもは、すぐにばらばらと駈けて行って、彼のうつむいている頭の上に御用の声を浴びせかけると、松蔵は今や穿こうとしていた片足の草鞋を早速の眼つぶしに投げつけて、腰をかけていた床几を蹴返して起った。それと同時に、かれの利腕を取ろうとした一人の手先はあっと云って倒れた。松蔵はふところに呑んでいた短刀をぬいて、相手の横鬢を斬り払ったのであった。眼にも止まらない捷業に、こっちは少しく不意を撃たれたが、もう一人の手先は猶予なしに飛び込んで、刃物を持ったその手を抱え込もうとすると、これも忽ち振り飛ばされた。そうして左の眉の上を斜めに突き破られた。 一人は倒れる。ひとりは流れる血潮が眼にしみて働けない。今度は自分が手をくだす番になって、藤四郎はふところの十手の服紗を払った。御用と叫んで打ち込んで来る十手の下をくぐって、松蔵は店を駈け出した。片足は草履、片足は草鞋で、かれは品川の宿をさして逃げてゆくのを、藤四郎はつづいて追った。藤四郎はもう五十以上の老人であったが、若い者とおなじように駈けつづけて、品川の宿まで追い込んでゆくと、松蔵ももう逃げおおせないと覚悟したらしい、急に振り返って執念ぶかい追手に斬ってかかった。 両側の店屋では皆あれあれと立ち騒いでいたが、一方の相手が朝日にひかる刃物を真向にかざしているので、迂闊に近寄ることも出来なかった。短刀と十手がたがいに空を打って、二、三度入れ違ったときに、藤四郎の雪駄は店先の打ち水にすべって、踏みこらえる間もなしに小膝を突いた。そこへ付け込んで一と足踏み込もうとした松蔵は、俄かによろめいて立ちすくんだ。頭の上の二階から重い草履がだしぬけに飛んで来て、かれの眼をしたたかに撲ったのであった。立ちすくむ途端に、かれの足は藤四郎の十手に強く打たれた。これ以上は説明するまでもない。松蔵の運命はもう決まった。 草履の主は伊勢屋のお駒であった。かれは朝帰りの客を送り出して、自分の部屋を片付けていると、表に捕物があるという騒ぎに、ほかの朋輩たちと一緒に表二階の欄干に出てみると、あたかもここの店さきで十手と短刀がひらめいている最中であった。かれらは息をのんで瞰下していると、捕手の同心が打ち水にすべって危うく倒れかかったので、お駒は思わず自分の草履を取って、一方の相手の顔に叩きつけた。その眼つぶしが効を奏して、おたずね者の石原の松蔵は両腕に縄をかけられたのである。この時代でも捕方に助勢して首尾よく罪人を取り押えたものにはお褒めがある。その働き方によっては御褒美も下されることになっていた。ましてお駒は男でない、賤しい勤め奉公の女として、当座の機転で罪人を撃ち悩まし、上に御奉公を相勤めたること近ごろ奇特の至りというので、かれは抱え主附き添いで町奉行所へ呼び出されて、銭二貫文の御褒美を下された。 遊女が上から御褒美を貰うなどという例は極めて少ない。殊にそれがいかにも芝居のような出来事であっただけに、世間の評判は猶さら大きくなった。一度は話の種にお駒という女の顔を見て置こうという若い人達も大勢あらわれて、お駒を買いに来る者と、ほかの女を買ってお駒の顔だけを見ようという者と、それやこれやで伊勢屋は俄かに繁昌するようになった。それはお駒が二十歳の冬で、それから足かけ三年の間、かれは伊勢屋の福の神としていつも板頭か二枚目を張り通していた。そのお駒が突然に冥途へ鞍替えをしたのであるから、伊勢屋の店は引っくり返るような騒ぎになった。土地の素見の大哥たちも眼を皿にした。 お駒は寝床のなかで絞め殺されていたのであった。それは中引け過ぎの九ツ半(午前一時)頃で、その晩のお駒の客は三人あったが、本部屋へはいったのは芝源助町の下総屋という呉服屋の番頭吉助で、かれは店者の習いとして夜なかに早帰りをしなければならなかった。いつもの事であるから相方のお駒も心得ていて、中引け前にはきっと起して帰すことになっていたのであるが、その晩はお駒も少し酔っていた。吉助も酔って寝込んでしまった。吉助は夜なかにふと眼をさまして、喉が渇くままに枕もとの水を飲んで、それから煙草を一服すったが、二階じゅうはしんと寝静まって夜はもう余ほど更けているらしい。これは寝すごしたと慌てて起き直ると、いつも自分を起してくれるはずのお駒は正体もなく眠っていた。 「おい、お駒。早く駕籠を呼ばせてくれ」 云いながら煙管を煙草盆の灰吹きでぽんと叩くと、その途端に彼は枕もとに小さい物の影が忍んでいるのを発見した。うす暗い行燈の光りでよく視ると、それは黄いろい張子の虎で、お駒の他愛ない寝顔を見つめているように短い四足をそろえて行儀よく立っていた。宵にこんな物はなかった筈だがと思いながら、彼はそれを手に取ってながめると、虎は急に眼がさめたように不格好な首を左右にふらふらと揺がした。しかしお駒は醒めなかった。彼女はいつのまにか冷たくなって永い眠りに陥っているのであった。それを発見した吉助は張子の虎をほうり出して飛び起きた。彼はふるえ声で人を呼んだ。 大勢が駈け集まってだんだん詮議すると、お駒は何ものにか絞め殺されていることが判った。正体もなしに酔い臥していた吉助は、そばに寝ているお駒がいつの間に死んだのかを知らないと云った。しかし一つ部屋に居合わせた以上、かれは無論にそのかかり合いを逃がれることは出来ないで、諸人がうたがいの眼は先ず彼の上に注がれた。場所といい、事件といい、主人持ちの彼に取っては迷惑重々であったが、よんどころない羽目と覚悟をきめたらしく、かれは検視の終るまでおとなしくそこに抑留されていた。 伊勢屋の訴えによって、代官伊奈半左衛門からの役人も出張した。夜のあける頃には町与力も出張した。品川は代官の支配であったが、事件が事件だけに、町方も立ち会って式のごとくに検視を行なうと、お駒はやはり絞め殺されたものに相違なかった。 かれの首にはなんにも巻き付いていなかったが、おそらく手拭か細紐のたぐいで絞めたものであろうと認められた。本部屋にいた吉助は勿論、名代部屋にいたお駒の客ふたりは高輪の番屋へ連れてゆかれた。
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