三
表へ出ると、利八と善八が待っていた。今鳴った雷の音につれて、雹のような大粒の雨がばらばらと落ちて来たので、利八はしばらく雨やどりをして行けと勧めたが、半七はそれを断わって、そのかわりに番傘を一本借りて出た。
「親分、相合傘じゃあ凌げそうもありませんぜ」と、善八は云った。
「まあ、仕方がねえ。尻でも端折れ」
雷はだんだん烈しくなって、傘をたたき破るかと思うような大雨が、どうどうと降りそそいで来た。ふたりの鼻のさきに青い稲妻が走った。
「親分、いけねえ、意気地がねえようだが、もう歩かれねえ」
善八がひどく雷を嫌うことを半七もかねて知っているのと、時刻も丁度暮れ六ツ頃であるのとで、かれは雨宿りながらにそこらの小料理屋へはいって、ともかくも夕飯を食うことにしたが、雷はそれから小一も鳴りつづいたので、善八は口唇の色をかえて縮み上がってしまった。彼は眼の前にならんでいる膳を見ながら、好きな酒の猪口をも取らなかった。話を仕掛けても碌々に返事もしなかった。
小間物屋の徳三郎とお熊との関係はもう判った。徳三郎は旅商いに出ているあいだに、どこかでお熊と馴染になって、かれを誘い出して江戸へ帰って来たが、差し当りは女の始末に困って、河内屋へ奉公に住み込ませたに相違ない。それと同時に、このあいだ大川端で自分に声をかけようとした若い男は、その徳三郎であったらしくも思われて来た。かれは蒼ざめた顔をして、自分に何事を訴えようとしたのか、半七はいろいろに想像を描いていると、雷の音もだんだんに遠ざかって、善八は生き返ったように元気が出た。
「親分、すまねえ。まずこれでほっとしやした。また移り換えもしねえうちから酷い目に逢いましたよ」
「いい塩梅に小降りになったようだ。早く飯を食ってしまえ」
早々に飯を食ってそこを出ると、夜は五ツ(午後八時)を過ぎているらしかった。雨はもう小降りになっていたが、弱い稲妻はまだ善八をおびやかすように、時々にふたりの傘の上をすべって通った。雷門の方へ爪先を向けた半七は急に立ち停まった。
「おい、もう一度河内屋へ行って見ようじゃねえか。考えると、どうも少し気になることがある。もう雨もやんだから、この傘を返しながらお熊という女はどうしているか訊いてくれ」
二人はまた引っ返して河内屋へ行った。善八だけが内へはいって、お熊はどうしているかと番頭に訊くと、利八はやはり台所にいる筈だと答えた。しかし念のために見て来ましょうと云って、かれは帳場から起って行ったが、やがてあわただしく戻って来て、お熊の姿はどこにも見えないと云った。善八もおどろいて、すぐに表へ飛び出して注進すると、半七は舌打ちした。
「まずいことをしたな。どうもあの女がおかしいと思ったんだ。いっそあの時すぐに引き挙げてしまえばよかった。畜生、どこへ行ったろう」
どっちへ行ったか其の方角が立たないので、二人はぼんやりと門口に突っ立っていると、どこかで女の声がきこえた。
「甘酒や、あま酒の固練り……」
物に魘われたように二人はぎょっとした。そうして、その声のする方角を一度透かしてみると、今の強い雨でどこの店も大戸を半分ぐらいは閉めてしまったが、そのあいだから流れ出して来る灯のひかりは往来のぬかるみを薄白く照らして、雷門の方から跣足でびしゃびしゃあるいて来る女の黒い影がまぼろしのように浮いてみえた。世間にあま酒を売ってあるく者は幾人もある。殊にその声があまり若々しく冴えてひびくので、半七は少し躊躇したが、ともかくも善八を促して路ばたの軒下に身をひそめていると、声の主はだんだんに近寄って来た。かれはあま酒の箱を肩にかけて、びしょ濡れになっているらしかった。ふたりは呼吸をのんで窺っていると、かれは河内屋のまえに来て吸い付けられたように俄かに立ち停まった。声は若々しいのに似合わず、彼女がたしかに老女であることを知ったときに半七の胸は波を打った。
かれは先ず河内屋の表をうかがって、更に露路口の方へまわった。半七もそっと軒下をぬけ出して露路の口からのぞいて見ると、彼女は河内屋の水口にたたずんで、しばらく内を窺っているらしかったが、やがて又引っ返して表へ出て来た。ここですぐに取り押さえようか、もうちっと放し飼いにして置いて其の成り行きを見とどけようかと、半七はちょっと思案したが、結局黙ってそのあとを尾けてゆくことにした。善八もつづいて歩き出した。二人はさっきから跣足になっているので、雨あがりのぬかるみを踏んでゆく足音が相手に注意をひくのを恐れて、わざと五、六間も引きさがって忍んで行った。
河内屋の露路を出てから、彼女はあま酒の固練りを呼ばなくなった。かれは往来のまん中を黙って俯向いてゆくらしかった。
「親分。たしかに彼女でしょうね」と、善八はささやいた。
「河内屋を覗いて行ったんだから、あの婆に相違ねえ」
云ううちに彼女の姿は消えるように隠れてしまったので、ふたりは又おどろいた。善八は少しおじ気が付いたように立ちすくんだ。吉原へゆくらしい駕籠が二挺つづいて飛ぶようにここを駈けぬけて通ると、その提灯の火に照らされて、かれの痩せた姿は又ぼんやりと暗やみの底から浮き出した。その途端に、かれは思い出したように一と声呼んだ。
「あま酒の固練り……」
この声がしずかな夜の往来に冴えてひびくと、通りぬけた駕籠の一挺が俄かに停まった。ひとりの武士らしい男が垂簾をはねて、彼女のそばにつかつかと進み寄った。そうして、なにか小声でふた言三言押し問答しているかと思うと、白い刃のひかりが提灯の火にきらりと映って、婆は抜き打ちに斬り倒された。かれは声も立てないで、枯れ木を倒したように泥濘のなかに横たわった。武士は刀を納めて再び駕籠に乗ろうとするところへ、半七は駈け寄ってその棒鼻をさえぎった。
「しばらくお待ちくださいまし。わたくしは町方の者でございます。唯今のは試し斬りでございますか、それとも何か仔細がございますか」
たといそれが武士であろうとも、みだりに試し斬りなどをすれば立派な罪人である。次第によっては、かれも切腹の罪科は免かれない。相手を斬ってうまく逃げおおせればいいが、それが町方の眼にとまったりすると、甚だ面倒になる。飛んだところを見つけられて、武士はひどく迷惑したらしく、しばらく口籠って躊躇していると、まえの駕籠からも一人の武士が出て来た。どちらも若い武士であったが、新らしく出て来た一人は幾らか場慣れているらしく、半七にむかって我々は決して試し斬りではないと弁解した。しかし、その仔細を云うわけには行かない。屋敷の名を明かすわけにも行かない。どうかこのまま見逃がしてくれと彼はしきりに頼んだが、半七は素直に承知しなかった。一旦自分の眼にとまった以上、見す見す人殺しを見逃がすことは出来ないと云い張った。それは勿論正当の理窟であったが、もう一つには折角ここまで追いつめて来た大事の捕り物を、横合から不意に出て来て玉無しにされてしまったという業腹がまじって、半七は飽くまでも意地悪くこの武士を窘めにかかった。
窘められて、相手はいよいよ困ったらしく、結局は金ずくで内済にしたいようなことまで云い出したが、半七はどうしても肯かないで、とうとう彼等二人を再び駕籠にのせて、無理無体に近所の自身番へ引き摺って行った。婆を斬った若い武士はもう覚悟を決めているらしかった。
「たといなんと申されても屋敷の名を明かすわけにはまいらぬ。たって役人に引き渡すとあれば、手前これにて切腹いたす」
こうなると、半七もなんだか可哀そうにもなって来て、いつまでも彼等を窘めていられなくなった。彼はほかの武士を表へ呼び出して、諭すようにささやいた。
「あなた方が辻斬りでないことは私も大抵察しています。ふたり連れで駕籠にのって、辻斬りをしてあるくのは珍らしい。それにさっき見ていると、あの婆さんの甘酒の固練りという声を聞くと、急に駕籠を停めさせてあっちのお武家が出て行った。それにはなにか訳があるらしい。あなた方はあの婆さんを御存じなんですかえ。御存じならば話してください。その訳さえわかれば、なにも無理に屋敷の名を聞くにも及びません。実を云うと、わたくしはこの間からあの婆さんを尾けているんです。それを横合いからだしぬけにばっさりとやられてしまっちゃあ、わたくしの役目が立ちません。それを察して正直に話してください。くどくも云うようだが、訳さえわかれば決して御迷惑はかけませんから」
武士はそれでもまだ渋っていたが、半七からいろいろに説きすかされて、彼もようよう納得したらしく、内に引っ返して一方の武士と何かしばらくささやき合っていたが、結局思い切ってその事情を打ち明けることになった。
「では、屋敷の名は申さんでも宜しゅうござるな」
「よろしゅうございます」
なんとかして、彼等に口を明かせなければならないので、その白状を聞かないまえに半七は安受け合いに受け合ってしまった。そうして、これから彼等がどんな秘密を打ち明けるかと、両方の耳を引き立てていると、あたかもそこへ足早に駈け込んで来た者があった。
「ああ、親分。いいところへ来ていてくんなすった。小間物屋の野郎、とんだことをしやあがって……女を殺しゃがった」
それは小間物屋の居どころをさがしに行った幸次郎であった。
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